いろいろ日光東照宮参拝の準備をしてから実際に日光にでかけたよ
さて、伊勢から吉原に戻ってきて今度は日光の参拝に行くことにしたが、去年の江ノ島や伊勢詣でと違って、日光に関しては庶民の参詣には確かな身元にくわえて、堂者引と呼ばれる案内人の同行料金を添えて奉行所に通行手形の発行の許可を得ることなどが必要でちょっとばかり条件が厳しい。
「お奉行様、今回の遊廓対抗戦でお伊勢さんに負けてしまったことを恥じております。
そのためにも権現様への参拝をお許しください」
俺はお奉行様にそう言いながら必要な金子は当然渡す。
「ふむ、良かろう、堂者引についての手配はついているのか?」
「いえ、これから探そうかと思っています」
「ふむ、では東照宮より紹介をするよう伝えておくとしよう」
「ありがとうございます」
「参拝のしきたりについてもよく聞いておくように」
「かしこまりました」
日光の参拝は将軍直々に行ったり、大名が行ったりするくらいなのでかなり厳格な決まりがあるらしい。
俺は三河屋へ戻ってから皆に告げた。
「みんな、草津に立ち寄って湯治もするからなー」
遊女たちががうなずく。
「わかりやした」
「清花も楽しみだよな」
「あーい」
去年と同じように最初妙や清花や乳母さんも含めて三河屋のみんなで行き、その後に十字屋、西田屋、その他の施設の半分、残りの半分という感じで、俺達がいないときの見世や店の面倒は母さんに頼む。
なにもないとは思うけど万一何か有った時に対応できるようにしておきたいしね。
「母さんごめんね。
今回も十字屋なんかの面倒を見ててくれるかい。
三河屋の他のみんなと一緒に行けないのは残念かもしれないけど」
「ああ、大丈夫だよ、十字屋のみんなと行くときはあたしも一緒に行くんだろう」
「うん、十字屋のみんなを連れてくときに母さんにも一緒に来てもらうよ」
「はいはい、じゃあその時を楽しみにしてるさね。
今年は草津の湯にも入れるってね」
「うん、そのつもりだよ」
三河屋の人間だけが行くのもなんだしな。
やがて、東照宮から堂者引の僧侶がやってきた。
「今回は東照宮への参拝を希望されたとのこと、誠に良い心がけにございますな。
まずは手形の手続きを行いましょう。
一人あたり200文になります」
「あ、ああ、了解したよろしく頼む。
あと、赤子車と手縛り杖を使ってもいいようになんとか許可をもらいたいんだ」
「ほう、どのようなものですかな?」
俺は清花を乗せる三輪の上に高さのある籠を載せそこに布をしいたベビーカーと、現代の病院や介護施設などで歩行の補助に使われるロフストランドクラッチと呼ばれるステッキのような形状の杖の上の部分にカフと呼ばれる肘を固定する機構がある杖を見せた。
「なるほど、これがあればなかなか便利になりそうですな。
お話ししてみましょう」
日光へ行く場合の通行手形はかなり面倒な手続きと信用された案内人が必要とは言え、手形の申請代行が200文は結構ぼってる気もするが、先代将軍の家光公が2年とか3年に一度と頻繁に社参していたのに対して、現将軍はいろいろな理由でそれを行えてないので現状は日光も金が無いらしい。
だから、案内人は、その手続き代行業も兼ねて金をとってるんだな。
まあ、最悪他にするという方法もあったが、もう決めて頼んじまったからここでやめますとも言えん。
ちゃんと手形は手に入れてきてくれたけどな。
「これが今回の参拝の皆様の通行手形です。
赤子車と手縛り杖も大丈夫ですぞ」
「ああ、助かったよ」
「現地では宿坊に泊まって私の案内付きで一人250文。
それ以外の宿泊代金もそちら持ちになりますのでよろしく頼みますぞ」
「あ、ああ、わかった」
「参拝するときのしきたりなどはその場でお教えしますのできちんとお守りくださるよう」
「それもわかった」
「咥え煙管なども禁止ですのでお守りください」
「なるほどわかった」
「私が道中及び参拝時は付きっ切りで説明と案内をさせていただきます」
「ああ、それはありがたい」
まあいろいろ言われたが当日の朝から出発だ。
桃香達禿も含めて今日は遠足だな。
遠足というのは遠歩きのことで乗り物を使って、遠くに行くのは厳密には遠足じゃないんじゃないかな。
「じゃあいくぞ」
「あい行きやしょう」
「いー」
吉原をでたら徒歩で日本堤の日光街道を北側に歩きまず荒川に架けられた千住大橋近辺の千住宿に到着して、ここは日光街道および奥州街道の初宿で、水戸街道との分岐の場所でもある。
「清花疲れたらちゃんと言えよ」
「あい」
それなりに歩けるとは言えやはりまだまだ小さい清花はつかれると眠ってしまう。
だから疲れたらちゃんと言うように予め言っておいた。
今はまだ楽しそうに歩いてるけどな。
そしてこのあたりは荒川・隅田川・綾瀬川が付近で合流しており、水運が主流であるこの時代では運輸や交通の便がとても良い場所であった有効な場所であったことから、魚河岸や青物市場がたっていた。
そして品川と同様刑罰施設である小塚原刑場がある場所だ。
こちらに刑場が移されたのは慶安4年(1651年)のことでその前は浅草にあったんだけどな。
「北の浅草」「南の芝」と呼ばれ、他に刑場があったのは東海道の品川の鈴ヶ森刑場と甲州街道の八王子の大和田刑場でこれは江戸に入るものへ犯罪を起こしたものがどうなるかという示威行為でもあったんだろう、それだけ江戸の範囲が広がったということなんだろうな。
そしてここからは西新井大師も近く、ドヤ街である山谷も近い。
桃香が感心したように言う。
「昨年の品川と同じようにここはなかなか大きな建物が多いでやすな」
俺はうなずく。
「ああ、宿以外にも御用市場や寺社の他にも休憩用の茶屋なんかもたくさんあるらしい」
「なるほどでやすな」
そして妙が言う。
「ちょっと休んでいきませんか」
桃香たち禿たちにはちょっとしんどいだろうし、清花も疲れてるみたいだからここらでいったん休んでおいたほうがたしかにいいだろうな。
「清花も疲れたか?」
清花が首を傾げて言った。
「だじょ?」
大丈夫の意味かな?
「とりあえずは休むか」
「あい」
藤乃も感心している。
「品川と比べてもそう差はない活気のある宿町ですな」
案内人が言う。
「日光だけでなく奥州などへ行くためにはまず皆ここを通りますからな」
旅籠の数も多くて、品川同様栄えてるので甲州街道の内藤宿ほど悲惨な感じの飯盛り女はいないように思うが、全部が全部そうではないだろうな。
千住を越えれば草加宿・越ヶ谷宿ときて粕壁宿に到着。
「では、今日はここで宿を取りましょう」
案内人の言葉にうなずく。
「了解だ」
この時代に朝に江戸を発った旅人の多くは、江戸から十里(40km)くらいのちょうど夕刻にこの粕壁宿にたどり着き、宿を取る事が多い距離なのでここも結構栄えてる。
翌朝には宿を立ち、杉戸宿を経て幸手宿に向かう、ここでは脇道であり将軍家や武家が日光参拝時に使う脇街道である日光御成街道や、筑波道が分岐している。
更に進んで栗橋宿から坂東太郎と呼ばれ、暴れ川の名高い利根川を渡し船で渡って中田宿を経由して古河宿に到着。
利根川は橋がすぐ流されてしまうのもあって、橋がかけられてないので川の水が多いと渡れなかったから運がいいな。
そして、将軍家による日光社参では、古河城は岩槻城・宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、日光街道における主要な宿場の一つ。
「今日はここで休んでいきましょう」
「ん、わかった」
翌朝からは野木宿・ 間々田宿 ・小山宿・新田宿・小金井宿・石橋宿・雀宮宿・宇都宮宿と歩く。
ちなみに清花はあるきたい時は歩かせて疲れて、お腹が空いたらお乳もやって、眠ってしまったら赤子車に乗せるか背中におぶったりしている。
「よし、では出発するぞ」
宇都宮宿を出立したら徳次郎宿・大沢宿・今市宿・ 鉢石宿を経由して終点の日光坊中へたどり着いた。
「やっとついたか、意外と遠いもんだな」
もう夜なので宿坊に泊まって、翌日に案内付きでの参拝開始。
現在では、拝観料を払えばどこでも自由に見物できるが、当時は勝手に歩き回ることはしなかったようだ。
というのも、当時は、見物にしても、一種の身分証明書みたいなものの提出が必要で、かなり面倒な手続きが必要だったらしい。
だから、案内人は、その手続き代行業も兼ねていたというわけだ。
「おはようございます、では5名様ずつ分かれてください。
それぞれ堂者引に対して一人案内賃を100文に拝観料100文をお願いします」
「ああ、それは俺がまとめて払うわ」
そこからは案内者が5人ずつの集団を連れて歩いては、立ち止まって説明し、説明が終わるまでは、勝手に先に進んでは駄目だそうだ。
そして一日付きっ切りで、微に入り細を穿って懇切丁寧な説明をしてくれるのだが、ずっと彼から離れることは許されないので、なんかツアーガイド引率の旅行みたいだな。
とはいえそれなりに楽しんではいるみたいだ。
「どこもかしこもすごく豪華な建物でやすなぁ」
「すごー」
桃香と清花が東照宮を見て驚いている。
「なにせ寛永11年(1634年)に先代将軍様によって大造替が行われたばかりですからな」
「なるほどなぁ」
まあ俺たちは拝殿階下までしか入れないのだがそれでも十分だった。
21世紀の子供の頃に学校の遠足で来たことがあったが、あまり変わってないような気もする。
それを考えるとすごいもんだなぁ。
なんだかんだで来たかいがあったぜ。
金は思った以上にかかったけどな。




