表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

169/317

吉原の人間が死んだ時にちゃんと弔ってもらえるようにしておこう

 さて、墓と言えば墓石がおかれた墓が寺の中にあるものだと思うだろうが、寺院の檀家制度は江戸時代のキリスト教の禁止とともに行われたもので、一般的な民衆の菩提寺の墓の歴史は案外新しくそれ以前は山の中などの遺体を埋めた場所に手ごろな石をおいて、埋葬の目印にしただけだった。


 もちろん、皇族貴族は別で古墳時代では大きな古墳をつくっていた。


 奈良時代になると馬鹿みたいに金や労力がかかる大きな墓は禁止され、墓の大きさや築造期間、人員などが細かく規定され、仏教の影響で火葬が行われるようになった。


 しかし、個人で墓を作るのがゆるされたのは、貴族の位の三位以上の者だけでそれ以外のものは基本河原でさらされる風葬だった。


 平安時代になると制限もゆるくなり貴族の墳墓には石卒都婆が立てられた。


 平安貴族の代表である藤原氏は興福寺を氏寺としてそこに墓所をおいた。


 興福寺が強訴の常連だったのは藤原氏の氏寺であることによる朝廷への影響力の強さゆえだった。


 鎌倉時代になると豪族の間に墓石として五輪石塔を用いることが広まって、応仁の乱以後は寺院の境内に墓地をつくるようになってくる。


 ただし、墓を作ることができたのは家系というものに重要な意味を持つ皇族、公家、守護大名や豪族などそれなりに地位のあるものだけであった。


 しかし、江戸時代になり檀家制度が確立して、21世紀現代の戸籍にあたる人別帳の管理を寺が行うようになると、その管理のために寺院の境内に檀家の一般の民衆の墓も作られるようになる。


 檀家制度は寺院側が無制限に信徒を増やさないための政策でも有った。


 比叡山の僧兵や一向一揆などに戦国時代は悩まされたから当然の措置ではあるんだがな。


 そして江戸時代初期ごろから四角い柱状の現代のような墓も現れた。


 もっとも江戸時代初期に立派な墓を作れたのは武士や名主、庄屋などの裕福な人間に限られ、庶民は丸い石を積んだ程度だった。


 檀家制度は江戸幕府が慶長17年(1612年)にキリスト教禁止令を出し、キリスト教を捨てて仏教徒となった者に寺請証文を書かせたが、徐々にすべての階層の人間にキリスト教徒ではないという証として寺請が行われるようになりこれが檀家制度の始まりだ。


 実際としては、檀家を持つ「回向寺」と檀家を持たない「祈祷寺」の二つにわかれた。


 そして回向寺は先祖供養を、祈祷寺は商売繁盛などの現世利益をお参りする寺として別れていく。


 浅草寺や神田明神などが祈祷寺の代表だ。


 さて吉原の遊女の墓だが、初代西田屋や有名な高尾太夫のように個人的な墓がある例もあるが、基本的に身請けされずに死んだ遊女や下女、若い衆は無緑仏として棺桶もなければ墓石もなく墓穴にうめられるだけだった。


 基本的に売られてきた女は人別帳に載ることのない非人であったということが大きな原因なんだよな。


 また、旧吉原から新吉原に移転する際の祭への対応を免除という項目により寺社の総スカンを食らってろくに弔ってもらえなくなったわけだ。


 穢多非人の場合は長である矢野弾左衛門や車善七のようなものを除けば、墓石は地面の下に隠さなければならなかった。


 穢多非人は士農工商の者と同じ高さの墓石であってはいけないとされたのだな。


 また、吉原のものは戒名に売女という差別戒名を与えられたりもする。


 他の差別戒名では「玄田牛一」これはタテから読むと「畜生」となるものだったりする。

 その他にも屠、革門、僕、鞁、非などとつけられたりしたわけだ。


 このあたり江戸時代の坊主の腐敗ぶりも見て取れる。


 浅草と品川は処刑場などもある非人街の1つで、新吉原への移転のさいの周囲の祭りに対しての免除というのは、実質的に町民から非人への格下げだったと考えるべきだったのだろう。


「ともかく今のうちに環境を変えないとな」


 吉原の遊女や下女、楼主や若い衆の埋葬を西方寺、別名道哲寺に俺はお願いをしにいくことにした。


 西方寺は元和8年(1622年)に浄土宗の道哲大徳が浅草聖天町吉原土手附近で遊女が無縁仏として投げ捨てられるのを悲しみ建立された寺だ。


 吉原に至る日本堤にあることから、土手の道哲としても知られている。


 道哲は刑死者や無縁仏を熱心に供養した高僧で西方寺、浄閑寺と同じように投込寺として扱われているが。


 道哲は信心深く、人情に厚く、遊女が死んだあとで浄閑寺などに投げ込まれることを哀れみ、発見しだい、大事に西方寺の境内に埋葬したといわれている。


「どうせならそういうお坊さんがいるところで供養してやりたいよな」


 俺は西方寺に到着すると道哲さんに面会を申し込んだ。


「俺は吉原惣名主の三河屋戒斗と言います。

 道哲様はいらっしゃいますか?」


 対応にでたたぶん見習いの小僧が答える。


「はい、いらっしゃいますよ。

 客間で少々お持ちいただけますか」


 俺は客間に通されてしばし待った。


「おまたせいたしました。

 吉原の惣名主さんが如何な用事ですかな?」


 俺は真剣に言った。


「あなたの人柄を聞いてお願いしたいことがある。

 今後吉原の人間が亡くなった時にあなたの寺で全て埋葬させてほしいのです」


「ふむ、それは構いませぬが」


「その代わり寺の改築にかかる費用や本山への上納金などのお布施はきちんとさせていただきます」


「うむ、それは有り難い」


「では、どうぞよろしくお願いいたします」


「うむ、若いのに感心なことだ。

 こちらこそよろしく頼む」


 よし、これでこれからは普通に一般人として弔ってもらえるだろう。


 いままでは善意で弔ってもらっていたものだが、きちんと金を納めればよりしっかり弔ってもらえるだろうし、死んだ後まで忘八だの売女だの名付けられるのはやだもんな。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ