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捨て子の問題は根が深い

 さて、浅草の4つの施設のうち病院の養生院はスタートはまずまずだ。


 幕府だけでなく大名の間ではなかなか名が知られているらしい向井元升は引く手あまたで、町医者にかかれない貧民の治療を施すとともに、時折大名の江戸屋敷に招かれたりしている。


「お前さんも忙しそうだな」


 俺がそう言うと向井元升はいやいやと首を振りながら威った。


「いえいえ、三河屋さんほどではないですよ。

 私が忙しいというのはあまり良いことではありませんけどね」


 俺は苦笑しつつそれに頷く。


「ちがいないな」


 養生院には日光街道の行き倒れの病人なども担ぎ込まれる。


 どうにも手遅れな場合もあるが、大抵は栄養失調で飯をちゃんと食わせて、薬をちょっと処方すれば良くなるやつのほうが多い。


 ただ日光街道方面からの人間というのは田舎の三男坊などが多くて、結局は無宿人となり、その後非人溜まりで人足などになるしか無いことが多かったが。


 太夫が師匠の手習い教室も盛況だし、犬猫屋敷もそれなりに機能している。


 野良犬や野良猫の中でも放し飼いをされていて、そのうち迷って忘れられて野良になってしまったような奴は人になつくので色々躾をして、もらい手があれば飼犬や飼い猫として譲り渡したりもしている。


 特に猫は遊女に人気がある。


 なつかないものはオスであれば去勢をしてみたりもする。


 それでも駄目な場合は殺されて三味線の皮や鷹狩の鷹の餌になる運命だ。


 かわいそうだがこれも仕方がない。


 元々治安維持のためのもので犬猫の生命を完全に保証するためのものではないからな。


 さて主に捨て子を拾って預かる養育院も残念ながらちゃんと機能している。


 江戸時代だけではなく日本において江戸時代から明治の中ごろまでは捨て子はかなり多く、その後民法の整備や家制度の確立によって捨て子は急速に減少し、3分の1にまで減ったが、戦前や戦後の貧しい時代までは捨て子はけっして珍しいことではなかった。


 そして江戸時代では特に都市部ではいつでも捨て子は珍しくない存在だった。


 農村では飢饉などの時以外ではあまり捨て子は行われなかったのは農業は基本労働力を多数必要としていたからと、間引きしてしまうからだな。


 この時代は性的な縛りがゆるいこともあり武家や商家の未婚の奉公人女性が主人などに手を付けられて妊娠することは多かった。


 この場合、その家の妾などにされて子供を認知されればよいが、認知されなかった場合はこどもを捨てるしかなかったのだ。


 21世紀の人間から見れば無責任なと思うことであろうが、現代でも捨て子が少なくなったのは人工妊娠中絶が公的に公認されて行えるようになったからにすぎない。


 21世紀の1年間の人工妊娠中絶の数はおおよそ20万人ほど。


 同じく21世紀の1年間の死産や流産などの自然妊娠中絶の数も20万人ほど。


 無論死産や流産は望まぬことではあるし、人工妊娠中絶についても避妊についての考えが甘いか、避妊をしていても失敗したなど好き好んで行っているわけではないケースが多いだろう。


 子どもを捨てる場所は様々だが基本的には人目につきやすい、子どもが生き延びることが期待できる豊かな家の戸口、寺の前、橋元などに多くは捨てられた。


 穢多・非人身分でも貧しいものは、せめて自分の子どもだけは平民の子として育ってほしいという期待をこめてあえて捨て子とする場合もあった。


 生まれてきた子どもを手放さなくてはならないのは悲しいがせめて拾われて育てられてほしいと願う母は多かったのだ。


 武家の門前に捨てられた場合は武家の沽券こけんに関るため最後まで面倒を見たというが、捨てている場面を見られたらただではすまないのは言うまでもない。


 江戸時代の遊女にとって妊娠は恥と考えられており、だからこそ梅毒にかかり妊娠しづらくなった遊女はもてはやされたし、もし妊娠が発覚した場合、鬼灯などの軽い毒の丸物を飲んだり、冷たい水に下半身を長くつけたり、中条流なかじょうりゅうという産婦人科の医師にかかっておろしてもらったりもした、今の江戸では軒頭に公然と看板を掲げて堕胎を本業とする医師も存在している。

 しかし、正保3年(1646年)には「子をおろす術を禁ず」という布令が出されていて表立っての堕胎は一応禁じられていた。


 そして、寛文7年(1668年)には看板の掲出も禁止されることになるが、結局堕胎を暗示する看板を掲出し、ひそかに堕胎業を営むものは残る。


 その他にも夫に先立たれた若妻、火事で住まいも仕事も失った夫婦など経済状況の悪化による捨て子は後を絶たなかった。


 捨て子に対しての根本的な対策をしたのは犬公方こと徳川綱吉だが、逆に言えばそれまでは運良く拾って育てられたものは良かったが殆どはそのまま野犬や狐、イタチなどにに食われたり、冬なら凍え死んだり、餓死したりしたということだな。


 その後は捨て子を貰い受けた家には公的な養育料が支払われるようになった。


 そして養育料と将来の労働力を目当てに、捨て子をもらいうける都市下層市民も増え、養育金だけ受け取ってもう一度捨てたり売り飛ばす者も居た。


 そういったことに対する罰則も決まって行ったりするのだが捨て子がなくなることはなかった。


 尤もこの時代は普通に育てようとしても乳児の3割から5割が死ぬは当たり前の時代なので子どもを育てようとしても無事育てるのも大変だったりするのだが。


 そして今日養育院の前に竹籠が置かれ中には産着に包まれた子どもが入っていた。


「どうか、この子をお願いします」


 という紙が入っていたところを見ると、お手つきになった武家の女中が止む終えず捨てたというところだろうか。


 おぎゃーおぎゃーと泣き叫ぶ赤子を抱えて養育院の中に連れて行く。


 体を洗うために桶に温めに沸かしたお湯をためて体を洗ってやった後、乳母役として雇っている女性に授乳を頼む。


「よしよし、いい子だねー」


 そう言いながら乳を飲ます乳母役の女性は旦那に先立たれた町人の若妻だ。


 そして自分の子供の面倒も一緒に見ている。


 江戸は女の数のほうが圧倒的に少ないので、再婚自体は難しくはないのだが子どもを抱えていて実家に頼れない場合などには働き先が見つからずに困ることが多いのだ。


 21世紀であってもシングルマザーは大変だからな。


 そして遊郭では基本遊女が子どもを持つことは許されなかった。


 子供を育てる金があるなら見世に返せということだな。


 江戸時代初期での数少ない例外は初代の三浦屋の高尾で彼女は実子を禿として道中にも連れて行っている。


 俺の店では避妊をしっかり行っているので最近は今のところ妊娠した遊女は出ていない。


 まあ、最悪妊娠したとしても本人が希望すれば育ててもいいことにするつもりだ、無論それで身請けの時に困ったりすることもあるかもしれないのだが。


 今の養育院には1歳から4歳くらいまでの捨て子が何人かいる。


 そしてそういった子どもたちは希望があれば子どもが生まれたが死んでしまい子どもを育てたいと思ってる夫婦に養子に出したりもするが引き取り手がなければそのまま育てる。


 そしてそれなりの年齢になれば俺の持ってる店で働いてもらうことになる。


 勿論その中には遊郭も含まれるわけだがその頃には大見世で働けるのは一種のステータスと思われるような状況にしておきたいものだ。


「それにしても子どもというのは可愛いものだな」


 だいたい落ち着いてきたし、そろそろ正式に妙と祝言をあげるとしようか。


 とは言え本人や家族が俺との結婚を認めてくれないとムリなんだがな。

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