宴
「若様、お支度が整いましたが、ご覧になりますか?」
普段おっとりとしている穂波が、珍しく、はしゃいだような声で、八雲を呼びに来た。
他所から輿入れしてくるわけではないし、八雲も、朝桐の跡取りではなくなったので、屋敷内だけでのささやかな祝言である。・・・とはいえ、屋敷の者たちは皆、それはそれは張り切っていた。
穂波の後を付いて、離れへ向かう。
「八雲」
入って来た八雲を見て、篝が微笑んだ。
穂波が、自分の仕事に満足した顔を見せている。
「ほんに、きれいな花嫁様でいらっしゃいます」
「・・・ああ」
心ここにあらず、といった体で相槌を打った八雲を見て、穂波はくすくすと笑った。
白無垢に身を包んだ篝は、どこか神々しい雰囲気さえ漂わせていた。あの腕輪の付喪神に、いよいよ生き写しに見えてくる。
ぼうっとしている八雲に、篝は溜め息をつきながら言った。
「重くて、動きにくい・・・」
真っ正直な中身は相変わらずで、たっぷりとした裾を、恨めしげに見下ろしている。そんな仕草もかわいくて、思わず頬が緩んだ。
「ほんとに、動きにくいんだから」
笑った八雲を、上目遣いに睨む。
「今日一日だけ、我慢してくれ」
分かってる、という顔で、篝は素直に頷いた。八雲は、ゆっくりとした足どりで彼女に歩み寄り、手を差し出した。
「・・・きれいだ」
紅を指した唇が、優しく綻ぶ。
「ありがとう」
篝は頬を染めて、差し出された手に、右手を乗せた。
*****
祝言は、滞りなく進んだ。主家の者だけでなく、屋敷に仕える者たちも皆、母屋の広間に集まり、今は温かな宴の席が設けられている。朝桐の屋敷では、祝い事となると、家臣や奉公人ともども宴を開くのが通例である。皆くつろいだ様子で、口々に祝辞を投げた。
座敷のにぎやかさに誘われてか、婚儀の際にはいささか顔をこわばらせていた篝も、ようやく表情を和らげていた。
淡く微笑みながら、どこか疲れたような、とろんとした目で、向けられる笑顔を眩しげに見渡している。花嫁衣装の重みと、慣れない酒の酔いが、体を巡っているのだろう。酒気を含んだ浮かれた空気が、屋敷に満ち満ち、宴たけなわ―――というその時であった。
突然、室内とは思えない風がひょうと駆け抜け、灯台の火が、一斉に消えたのである。
座敷の空気が、凍りついた。
「何事だ」
「火を持て!」
皆の不安げな声が、ざわざわと暗闇に響く。
八雲は辺りを探って腰を上げかけ―――ふと、微かな白檀の香りを嗅いだ気がして、動きを止めた。
「・・・八雲」
篝が、焦ったような声で囁く。
ざわめく者たちを黙らせるように、りぃん・・・と、涼やかな音が闇を震わせた。そこへ、どこからともなく、豊かな響きの歌声が流れてくる。低く柔らかな、男性の声だ。
聞き覚えのあるその声が、何を歌っているのか気付いて、八雲は目を見開いた。
『相生』。
呆気にとられる八雲の耳に、下座の方からどよめきが届いた。仄かな光が、ぽかんとした皆の顔を浮かび上がらせる。
庭に面した襖が、いつの間にか開け放たれていた。
そして、外には、これまた見覚えのある青白い焔が、いくつもふわふわと漂い始めている。
・・・照らし出された庭の中に、蘇芳の髪の少女が、こちらを向いて立っていた。
「す・・・っ!」
篝が思わず声を上げかけ、慌てて口を閉じる。
瞼を閉ざした彼女は、まるで視えているかのように、二人に向かって優しく微笑みかけた。
低い歌声に合わせて、衵姿の少女が、ゆるやかに舞い始める。手には、紫の扇。拍子を取っているのか、大気を清める鐸の音色が響き渡っていく。
見慣れたはずの庭は、まるで異界のような、幽玄の舞台となっていた。
八雲はなんとも言えない表情で、立てた片膝をゆっくりと下ろし、座り直した。
「・・・やってくれたな」
ぼそりと呟く。
これは、せっかくだから、祝いでもしてやろうかと付喪神たちが言い出し、気まぐれな神の興が乗った結果だろう。―――しかし、話し合っているうちに、どうすれば屋敷の者たちの度肝を抜けるか、という方向へ移って行った感が否めない。
祝ってくれている気持ちは伝わるのだが。
篝も同じ考えらしく、唖然と固まる座敷の面々を見渡して、あわあわと八雲の顔を窺っている。
「・・・比咲神社の、赤い髪の幽霊・・・?」
近くに座っている優月が、小さく呟いたのを耳にして、二人はぴくりと体を堅くした。
優雅に舞う少女に見惚れながら、優月は言った。
「捜している姫というのは、篝義姉さまのことだったのでしょうか」
―――なかなか面白かっただろう?
にやりと眇められる、翡翠の瞳。
八雲と篝は一瞬視線を交え、同時に吹き出した。
宴の酔いも手伝って、笑いが止まらなくなる。目の前で繰り広げられる異常な事態に加えて、上座の二人が笑い出したので、皆ますます胡乱な顔をしている。
しかし、徐々に、この不思議な座興を楽しむことにしたようだ。皆、多かれ少なかれ、酒が回っている。
今日は、めでたい日なのだ。・・・少しぐらい、不思議なことが起こっても良いではないか。
少女の髪に結ばれた小さな鈴が、動きに合わせて、愛らしい音を奏でる。
「姫を泣かせたら、承知しないと言われたよ」
篝は、ふふっと笑った。
「誰に?」
「銀」
「銀!?」
目を丸くしている。
「笑ったところを、初めて見たな」
「ええっ」
「・・・やはり、珍しいのか?」
「私だって、十六年で数えるほどしか見たことがないのよ」
篝は目を細める。
「そう・・・銀が」
宴の夜が更けていく。
青白い焔が、いくつもいくつも、螢のように悠々と飛び交う。
柔らかな歌声は耳に心地よく、少女の舞いは、神秘的で美しい。
「篝」
「はい」
ゆっくりと振り向く篝の瞳を、見つめる。―――彼女のように、まっすぐな目で、見つめられていたらいい。
「俺は、妻を泣かせるつもりはない」