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夢の跡 3


「遅ぇよ」


 入室を許可する声に扉を開けて部屋の主の許へ行くと、そう言って突然正面から顔に水を掛けられた。無意識に顔を背けたために左頬で受けたそれは、近距離のせいかまるで軽い平手打ちのような勢いがあった。ただ平手打ちであればすぐさま熱を帯びるのに対して、水はじわりじわりと熱を奪っていく。


濡れて額に張りつく前髪を横に流し、瞼に滴り落ちてくる滴を避けながら正面を見れば、ソファにだらしなく寝ころんだ男が片手に空のグラスをぶら下げ、いかにも意地の悪そうな笑みを浮かべている。


「申し訳ございません」


片膝をついて謝罪をすると、ごとりという音ともに目の前に空のグラスが転がってきた。数回回転したグラスから飛んだ滴が床に敷かれた絨毯に点々と跡を残す。表面にも水滴のついたそのグラスは、半分から下の一部がまだ僅かに曇ったままであった。


「お前はいつもそれだよな。つまんねぇ奴。たまにはそこの窓から飛び降りるとか、面白いことの一つでもやって見せろよ」


挑発する言葉に乗せられ歪みそうになる表情を思い切り奥歯を噛んで殺し、腸が煮えくり返る思いを普段通りの無表情な仮面で覆い隠す。


「……申し訳ございません」

「ま、言うだけ無駄ってやつだよな。そんなことより、さっさとそこに置いてあるクソ甘ったるい菓子をあの女の口に詰めてこい」


男はそう言って、近くのサイドテーブルの上に置かれた箱に向かってくいと顎をしゃくって見せた。今もなお濃厚な甘い香りを放ち続けるその箱は、つい先程俺が買って帰ってきたばかりの焼き菓子の入った箱に相違なかった。


恐らくは玄関で出会った時に手渡した相手で、男のお目付け役に当たるウキジが、この部屋に向かう俺に先んじて置いていったのだろう。どこにその道があるかは全く知らないが、この屋敷にはごく一部の人間しか知らない隠された道が存在している。ウキジは言わばこの男にとっての腹心であり、その道を知る数少ない人間の内の一人である。


「畏まりました。そちらのお菓子をシャンテル家のハイユ様にお渡しすれば宜しいのですね?」

「ちゃんと口に詰めてこいよ。あの砂糖と油の塊みてぇなもんを腹いっぱい食わせれば、そりゃあよく肥えた良い豚になるだろうからよ」


既にその視線を俺から余所へ向けたまま今から楽しみだと呟くその横顔は、酷い侮辱の言葉を吐き出す口とは裏腹に頬のあたりがどこかほんのりと赤く染まっていた。


それはまるで恋を覚えたばかりの少年のように。


「分かったらさっさと出てけ。お前がいると俺の部屋が汚れる。お前が汚したところの掃除をさせるから、そこらで暇そうにしてる人間を数人呼んどけよ」


汚れたというのは、俺が部屋に入ると同時に浴びせた氷水の後のことを言っているのだろう。男は顔から胸の辺りまでをぐっしょりと濡らした俺を一瞥すると愉快そうににやにやとし始め、その表情はすっかりいつもの腹に一物抱えたような、純真とはかけ離れたものになっていた。


「畏まりました。私のせいでオルキ様のお部屋を汚してしまい、大変申し訳ございませんでした」

「ごちゃごちゃ言ってねぇでさっさと出てけ。菓子が冷めちまったら、口の中に詰めた時の反応がつまんなくなるだろうが」


心底鬱陶しいものを相手にするように視線を向けることすらなく、ぞんざいに片手で払われる。俺だって自分で汚してもいない部屋を汚したと言って、この男から水やら食べ物やらを投げつけられる度にいちいち謝りたくなどはない。だが謝らなかったら謝らなかったで、「奴隷が主人に対して最低限の礼儀もわきまえていないとは、こりゃあ躾が足りない証拠だよな?」と言って過去に10日間にも及んで水以外の一切の食料を口にすることを禁じられたことがある。




 人間の体は水と、更にそこに塩分が含まれていれば、およそ一カ月の間水だけしか口にしていなくとも死ぬことはないのだという。部屋に鎖をつけた状態で閉じ込められ、日に数回の水を与えられるだけの俺の様子を見に来た男はそのようなことを俺に説明すると、「良かったな。もう暫く死なずに済むぜ?」と言って日に日に弱っていく俺を見に来ては嘲笑っていった。


あの時は本当に毎日死ぬことしか考えていなかった。どうしたら今すぐ死ねるのか。水さえ口にしなければ死ねるのではないかと考え、水を飲むことを拒絶した日もあったが、結局それはただ一度強く床に頭を叩きつけられただけで無駄に終わった。


10日間という日数もその頃になると俺がろくな反応を示さなくなったために、男が興をそがれたとばかりに気まぐれで躾を取り止めただけの話であって、そのまま本当に死ぬまで続けられる可能性も十分にあった。当時、奴隷として男の家に買われて間もなかった俺は、どこかぼんやりと捉えていた奴隷という立場をその時になって嫌という程はっきりと認識し、離れ離れになってしまった父と母を思って込み上げる感情に人知れず必死に声を抑えて泣いた。






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