8.新しい記憶
松山勘十郎座長が地球デビューを果たして22年が経った。僕がメキシコに渡ったのが2005年の5月だから、そこから数えても21年。もはや勘十郎さんは地球上での人生の半分以上を松山勘十郎として過ごしていることになる。
20年以上も前のことから、ここ数年のことまで。座長との記憶は僕の宝物だ。
座長の衣装を洗濯したは良いが乾燥機にかけてしまって怒られたり、合同練習後の自主トレでレスリングを教わったり、オヤツと称して大量の鳥モモの唐揚げを作ってくれたり、露店のタコスや屋台のトルタスを一緒に食べたり、ファミレスでおかわり自由のコーヒーを飲み続けながら延々とプロレスラーしりとりに興じたり。練習もだけど初めて親元を離れ集団生活もしてキツくて仕方なかったはずなのに、未だに思い出すのは大なり小なりの楽しいことばかりだ。
座長が帰国してからも時々だけど試合を見に行っている。最初は東京の後楽園ホール、鈴木健想さんとのタッグが話題になった。次は名古屋のテレピアホール、地元で座長を出迎えるのが如何にもプロレスラーらしく、津々浦々に居るファンの一人として嬉しかった。そして大阪プロレス定着後は大阪ハリケーンやIMPホール大会に道頓堀の常設会場へも通った(閉鎖前のラスト興行にも行った)し梅田に移転したときも何度か行った。
松山勘十郎特別公演と銘打たれた「プロレスを用いた松山勘十郎の世界を表現する戦いの場」は、やがて大衆プロレス松山座という一つの座組になった。その端緒に僕が少しだけ関わることが出来たのは、挫折を背負ったプロレスファンとしても、一人の不出来な元・弟弟子としてもとても光栄なことだった。
そして座長の元にプロレスラー志望の若者がやって来た。
「佐野も練習生だった経験あるんだし、可愛がってやってくれ」
相変わらずの気配り思いやりの座長であったが、おそらくケイコになったら厳しかったと思う。自分の時もそうだった。リングでいつも張り上げている低く良く通るあの声は当時から体得していて、それで至近距離から檄を飛ばすので最初は結構ビックリした。
普段は割とボソボソ話すし間違ってもヒトを怒鳴ったりエラソーに威張ったりなんかしない人だから、そのギャップで余計に覚えている。リングの上でだけは自己主張、自己表現、自己陶酔をしていくけれど、普段は世間並みのプロレスラーのイメージとは少し違った大人しいお兄さんというイメージが残っている。明るく楽しく妖しく!と謳う単なる面白プロレスラーだと思われているかもしれないが「能ある鷹は爪を隠す」のことわざ通り、本当は昔かたぎで基礎を大切にする人でもあるのだ。
そんな座長との修練に耐えた若者がひとり、いよいよリングに立った。
2026年5月。見事リングデビューを果たした松山立綾選手。座長から松山の名前をもらったのは相当なことだ。漫才の横山とか西川みたいなもので、松山という名前が今度どんどん名選手、人気選手の代名詞になっていくといいなと願っている。
今も私が一人のファンとして座長を見つめていることは奇跡に近い。普通、入門してすぐ去って行った奴のことなんか誰も覚えちゃいない。これは他の兄弟子にも言われた。そしてこうも言っていた。
「でも、不思議と覚えてる奴っていてさ。すぐやめちゃったのに、ずっと覚えてるんだよな」
その兄弟子にとってどんな人だったのかわからないけど、座長にとってのそんな奴が私だったらいいなと思っている。
残念ながら2026年8月の公演を風邪で欠席してしまい、まだ立綾選手の雄姿は見られていない。これから末永く活躍して、松山の名を広めつつも自分の道を歩んでほしい。
座長と立綾選手の新しい記憶が、お客さんの見てないところでも刻まれ続けている。プロレスラーがプロレスをするために過ごす時間、そのために費やす努力や流す汗と涙。そのほとんどは誰にも見られず知られることすらないまま、こぼれて乾いて消えてゆく。だけどそのお客さんの知らない時間こそが最も濃密で、かつ血肉になっていくものだと思う。松山勘十郎座長が松山勘十郎になってゆく紀元前とも呼べる時期を少しだけ垣間見た僕と、今の松山勘十郎の完成度を高めてゆく座長と一緒にいる立綾選手では見ているものも違うし、何より彼は選手として座長の前に立った。
誰よりもそれを喜び、また武者震いしていたのは座長に違いない。
自分が手塩にかけて育てた選手が、名前まで受け継いだプロレスラーが、その最初の対戦相手が自分なのだ。ショッカー首領様と仮面ライダー1号に近いかもしれない。
僕の見てない景色、僕には生まれなかった気持ち、僕には刻まれなかった新しい記憶を、ちょっと勝手に乗せて応援している…。




