<2・すいりする。>
「貴方もお人よしですよねー」
部屋でぐったりしていたルーサーの元を訪れたのは、こちらも見慣れた顔だった。執事見習いの少年、ティムである。
「いい加減、嫌なもんは嫌だって言った方がいいです。お嬢様のためになりませんよ」
「ティム、敬語」
「う」
年も近く、幼い頃から“主と召使”なんて関係ではないルーサーとティムである。二人きりの時は敬語を外せと言っているのに、時々忘れてしまうようだ。指摘されて彼はむ、と口をつぐんだ。
「……やっぱ、なんか変じゃね?俺がタメなのに、主のはずのルーサーが丁寧語で俺に喋るの」
どうやらそれが理由らしい。数年前から、ルーサーは召使相手でも関係なく丁寧語で喋るようになっていた。敬語、かどうかはともかくとして。
「仕方ないでしょ、癖ついちゃってんですもん」
まあ、理由なんてそんなものである。丁寧に接するからといって、相手を目上として敬っているとは限らない。そのいい例だ。
勿論、ティム相手の場合は“いい意味で”という枕詞がつく。昔から、庭で遊ぶのも本を読むのも一緒だった。ティムは友人というより、自分にとっては家族にも近い存在である。
「喋り方に関して気にするのは今更でしょーが。……はあ、憂鬱。慰めてください」
「だったら、ルイーズ様の頼みなんか聴かなければ良かったんだよ。最終的に貧乏くじ引くのはルーサーじゃねえか」
「わかってますよ?わかってますけど、頼みを断るの凄く難しいんですよ。あの人の執念深さは折り紙つきですから」
実のところ。いくらルーサーとて、その身代わりはやりたくないと断ったことくらいは何度でもあるのである。例えば、学校の試験。いくらテスト勉強が間に合わなかったからって、替え玉受験なんかしてバレたら大目玉どころの話ではない。中等部、高等部でそんな理由で留年する人なんか聴いたこともないのだ。家名にも傷がつく。それこそ、巻き込まれてルーサーも同じ不名誉な結果になることも十分予想できたのだ。
それを最終的に断りきれなかったのは、断った途端彼女が非常に悪質なストーカーと化したからである。学校でも家でも、一時間ごとに顔を出して泣き落としを繰り返してくるのだ。あれは堪えるというものである。
両親にチクりでもしたら、それこそどんな不興を買うかわからない。たった一人の姉に嫌われて平気でいられるほど、ルーサーも鋼のメンタルをしているわけではないのだ。
「なんだかんだ言って、お姉さんのこと大好きだよなあ、ルーサーは」
ティムはやや呆れたように、椅子に座り直した。
「俺見てないんだけど、あれだっけ?学校とかで苛められた時助けてもらったりしたんだっけ。あと事故で怪我した時におぶって医者まで連れていってくれたとか、そういうエピソード聴いたような」
「あれ、あの時ティムはまだこの家にいませんでしたっけ?」
「いたかもしれないけど、俺もあんま記憶力いい方じゃないし、小さい時のことじゃ覚えてなくても無理ないとは思うけどな」
「まあ、それもそうですね。ティムの方が僕より二つ年下ですし」
今日はどの本がいいだろうか。ルーサーは本棚の前に立ち、蔵書を吟味する。嫌なことがあった時こそ、本でも読んで空想の世界に旅立つに限るのだ。ティムと二人だからこそ、出来ることもあるのである。
「あれで、いいところもあるんですよ、お姉様。正義感も強いし、勇気があるし。……本当は僕とお姉様は、性格が反対だった方がうまくいったのかもしれませんね。お姉様と違って僕は頭でっかちで、ちっとも運動ができませんから」
ロングスカートとヒールで平然と走り回る姉とは違い、彼女より圧倒的に動きやすいはずのズボンと革靴ですぐ転ぶのがルーサーだった。神様は本当に、双子の性別を取り違えてしまったのかもしれないと思う。だからこそ、姉も姉で“女装すればおしとやかな深窓のご令嬢”に見えるらしいルーサーに、無茶な頼み事をしてくるのだろうけれど。
「運動なんかできなくてもいいだろ。お前はお前だ」
そんな勇ましい姉に、ルーサーが少なからずコンプレックスを抱いていることをティムは知っている。だからこそ、いつも少し気持ちが沈むと、彼は必ずといっていいほど欲しい言葉をくれるのだ。
「労働者階級で、両親が死んで……路頭に迷うところだった俺を助けてくれたのが、このアンヴィル家だ。ご主人様にも、俺に仕事を教えてくれた執事・メイドの先輩方にも感謝してるよ。特に、お前には。身分の低いガキだなんて、お前は最初っから馬鹿にしないで付き合ってくれた」
「身分なんて、お飾りですから。人の価値はその人の人格と実力、努力に応じて決められるべきものです」
「そんな考え方をする貴族様がいるなんて、思ってもみなかったし、俺には救いだったんだよ。……本当にありがとな。まさかここにきて、大嫌いだったはずの貴族様に友達ができるなんて思ってもみなかったんだから。ついでに」
ちらり、と彼はルーサーが持ってきた本に視線をやる。
「この俺が、文字が読めるようになるってのもな。……お前が教えてくれなきゃ、俺は本の一つも読めなくて、人生損するところだったぜ」
「そうですね。本が読めないなんて、本当に損です。……将来は貧しい子供達のために学校を開いて、最低限の知識を教える仕事ができたらいいなと思いますね」
「おう、お前ならできる!」
彼はにっかりと笑った。ティムの、この飾らない笑顔がルーサーは大好きだったりする。身分なんぞ関係なく、人は己の人格と努力で友情を結ぶことができるのだ。彼の両親は、貴族にコキ使われて、違法労働の果てに過労死したのだと知っている。本来貴族を憎んでいたはずの彼が、何年もかけてここまで心を開いてくれた。きっと他の貧しい人々に対しても、同じことができるはずである。
そして願わくば。いつか、身分なんてものがない世の中を作りたい。
子爵程度の階級で出来ることはたかが知れているけれど、それでも少しずつ働きかけていくことはできるのではなかろうか。そう、自分が大人になって、教師でも研究者でもとにかく地位を築いて――そうすればきっと。自分の言葉が、多くの人々に無視されることはなくなるはずである。
いつか、望む平和な世界へ。その一歩を繋ぐ、架け橋になれるのなら、こんな幸せなことはないはずだ。
「悩んだんですけど、今日はこの話にしようと思います。“ラクマの殺人”。……ちょっと前に貸した本ですが、内容は覚えてますか?」
ルーサーが本を持ってくると、ティムは目を輝かせた。
「おう、覚えてるぜ!久々にミステリーか、腕が鳴るな!!」
自分達二人で行う、ちょっとした趣味。それは、特定の本に関しての論戦を交わすことだった。
あのキャラクターが、あの時あの行動を取らなかったら何が起きていたのか?
あるいは、別のキャラクターが被害者になっていたら、一体事件はどう収束したのか?
「今回は……そうですね。第二の事件で、重傷を負ったカーティスがもし本当に死んでしまっていたら、犯人はどのように計画変更を余儀なくされたか……でいきましょうか」
「お、面白そうだったな。犯人はヘレンのまんまでいいんだよな?」
「そうです。ヘレンはカーティスを殺人容疑から外すために、わざと殺さない範囲で怪我を負わせたのですよね」
「そうだよな。でも、死ななかったのは確かに運もあった。実際に、死亡事件になっていてもなんらおかしくなかったわけで……とすると……」
空想の世界に降り立ち、二人だけの地平から物語を見下ろして論戦を交わす。頭の体操にもなるし、戦う相手がいれば思いがけない発想も見える。
気苦労の多いルーサーにとって、この時間はどこまでも貴重でかけがえのないものなのだった。
***
大雑把な性格の姉だが、紅茶を入れるのだけは上手い。特にルーサーと一緒に紅茶を飲む時は、彼女が自慢の茶葉で手ずから入れてくれるのが恒例となっていた。
「相変わらずいい腕をしてらっしゃいますね、お姉様」
ああ、お尻がむずむずする。胸のあたりも苦しい。これだからドレスってやつは嫌いなんだ、と思いつつもルーサーは紅茶を一口飲んで言った。
「これで茶菓子の一つも作れたらもっとアピールポイントになったのに。……メイドのルーシーが頭抱えてましたよ、オーブンが爆発したって」
「う、うるさいわね!人には得手不得手ってものがあるのよ!」
「いや、いくら苦手でも普通オーブンは爆発しないと思うんですが」
ダークマターの錬金術師は涙目になって言う。紅茶を入れる以外、料理と名のつくものが一切できないのがルイーズだった。彼女にできることは、“焦がす”を通り越して“燃やす”のただ一つというのだから笑えもしない。まあ、貴族の娘が料理をしなければいけない場面は、そう多いものではないのかもしれないが。
「それにしても、忌々しいくらい似合ってるじゃないの、私のドレス」
ルイーズは唇を尖らせて言う。
「何でサイズがぴったりなのよ、男と女なのに」
「むしろ胸のあたりがゆるゆるするくらいですよ。あ、詰め物しないと。さすがに絶壁はまずい」
「まあ、身長と体重がほぼ一緒だからこの作戦も成功するようなものだからいいけどー」
なお、ほぼ一緒、と言っておきながらその実ルーサーの方が少し軽いのはここだけの話である。女性というものは何故か、己の体重というものに妙に執着する生き物であるらしい。
「とにかく、ユリシーズ様の好感度アップ頑張ってきて頂戴。でもって、ユリシーズ様のご趣味についてもしっかり訊いてきて。あ、政治の話や仕事の話にクビ突っ込む女は嫌われるらしいからそのへんは避けてね」
注文が細かい。そこまで気にするくらいなら自分で行けばいいものを。ルーサーはうんざりしてしまう。
「はいはいはい、わかりましたから。……今日は先方の方が我が家に来てくれることになってますし、お姉様もそろそろ着替えて部屋にこもってくださいね。今日は“僕”は具合悪くて部屋で寝てることになってるんですから」
「わかってるわよ。ちゃんと貴方の服も着るから安心して」
この姉に、いつまでも大人しくベッドで寝ているということができるのかどうか、そこが甚だ疑問ではある。ただ、今回ばかりは何が何でもバレたらまずい、ということくらい彼女もよくわかっているはずだった。いくら同階級とはいえ、お見合いで男女の双子が入れ替わって臨んだなんて両親や先方にバレでもしたら、雷どころでは済まないからである。
――とにかく、辺り障りなく終わらせられるようにしないと。
既に、ルーサーは頼みを引き受けたことを後悔しつつあった。ちらり、と窓の方に視線を向ける。長い髪を下ろし、緑のドレスを着、どこからどう見ても女性にしか見えない姿をした自分が映っていた。まあ、まだ胸の詰め物をしていないので、胸あたりが俎板なのが不自然だが。
早く今日一日が過ぎ去ってくれますように。祈ることはただ、それだけだった。
――ユリシーズ様、どんな人だろう。あんまり鋭い人じゃないといいんだけど。
窓の向こうの空はルーサーの心と裏腹に、忌々しいほど晴れ渡っていた。




