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幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(48)

 其 四十八


 思いがけない損害を受けたけれど、そんなことには屈しない坂本屋喜蔵であったが、おこのから自分に宛てられた手紙、その往時(むかし)自分を卑しみ、(うと)んじて榮吉と我が儘をし通した主人(あるじ)筋ではあったけれど、(した)わしく思っていたそのおこのからの手紙、往時(むかし)を詫びて、世界に自分をただ一人頼れる者と信じ、自分宛に最期の最期の(きわ)に事細かく頼み事をしてきた手紙を、警官と共に読んだ時の異様な感じはとても言い表すことなどできなかった。


 手紙を読む限り、おこのは既に死んだのであろう。若い時、心の中では内々忌々(いまいま)しいでもなかったが、考えてみれば、自分を嫌ったのは縁がなかっただけの話。最期に臨んで、孤児(みなしご)を自分に頼んだ心の(うち)を推し測れば、憐れさに涙も溢れた。自分の身の程を思い、他人には決して見せなかったが、本当に(ごく)極々(ごくごく)心底(しんそこ)では、及ばぬ恋に身を砕いて、一生遂に忍び通したあのゆかしいおこのが、今もなお腹の底から憎いはずも無く、

『よし、我が身にかけても、その子を(いつく)しみ育ててやろう』と思ってはみたが、そう思うよりも早く、榮太郎は今や、自由の無い身となってしまっている。

 (うち)の小僧めの新三郎めが、(なま)(さか)しく落ちていた手紙を警察(おかみ)に差し出してしまったので、どうしようも無いこととは言え、我が家で榮太郎に縄を掛けてしまったのと同じことになった。亡きおこのはどう思うだろう。有り金残らず取られてしまったのは災難だったが、それは榮太郎が行ったとは限らないことなのに、返す(がえ)す小僧めが出過ぎた真似をしたのが憎い。真っ先に、自分にその手紙を見せていたなら、おこのの子に留置場の飯は食わせなかったものを。すぐに浦和という所を尋ねて行って、亡きおこの後を弔い、榮太郎も引き取るものを。今は自分がどう言おうと、警察(おかみ)の眼からお疑いが晴れない(うち)は、榮太郎が(ゆる)されて出てくることは叶わない。もちろん、榮太郎がまったく疑わしくないとは言えないけれども、子どものことでもあり、賊を働くようなことはまず無いと思うが、不憫なことをさせたものだと、賊難の悔しさは二の次にして、強い男だけに情にも強く、おこのの頼みを(むだ)にはしないぞと、あちこちの手段を講じて榮太郎が早く釈放されるようにと頻りに気を費やした。


 賊難事件はなおも決着せず、その筋の人々が入れ替わり立ち替わり坂本屋を訪れ、種々のことを問い尋ねるので、喜蔵は浦和に行くことも叶わずに日を送っていた。

 例の手紙の日付からして、今日はおこのの初七日の忌に当たる日だと思うと、商売の暇を盗んで、日頃信心する冬木(ふゆき)の弁天に(まい)り、

(きゅう)()()(らく)の大菩薩、願わくば亡きものの冥途の闇に法光の恵みを与えさせたまいて、正仏果(しょうぶつか)を得させたまえ』(*苦しみから救い、安らぎを与えてくださる大菩薩様、どうか亡くなったおこのが冥途の闇で迷わぬように光照らして、成仏させてやって下さい)と、真心をこめて祈念し終わり、

『ああ、あの小町娘とも言われた者がこんな風にも成り果ててしまうものなのか』と、往時(むかし)を思い、今を思った。いつもは商売の損得の他は何も考えない身であっても、悲しみに心を打たれ、もの悲しく、家に帰って、夜になれば、自ら仏前に(とう)(みょう)、浄水、香華(こうげ)を供えて、店も普段よりも早く仕舞わせた。ひっそりとした家の中に(ふせ)(がね)の響きも淋しく、仏名を唱えて夜を更かし、凡人ながらも心につくづくと因縁の不思議さを思い知ったのだが、その夜も明けて、次の日の昼のこと。榮太郎の様子を聞こうと警察署に赴いたところ、驚くべきことに遭遇した。

 榮太郎は今や犯罪者と認められるべき証拠は無いため、召喚、訊問されていた母のおこのと姉のお須磨と共に釈放され、暑から出て来た所に出会ったのである。その時の喜蔵の驚きはどれ程のものであったか。

 死んだと思っていたそのおこのが、枯れても未だ若い頃の花の面影を、今なお残している風情でもって、今まさに榮太郎を伴い、嬉しそうに出てくるところに行き会ったのである。喜蔵は言葉も直ぐには出せなかったが、開きにくい口を無理に開いて、

「これは、おこのさま、お久しゅうございます。(わたくし)も榮太郎様のお身の上につきましては及ばずながら心配をいたしまして、ただ今も様子を聞こうと参りましたところ。まあ、ここではお話しもできません。私の方まで是非ちょっとお()で下さいませ」と頭を下げて、慌てて(せわ)しく言えば、往時(むかし)使っていた喜蔵かと見たおこのは、ジロリと眼を(そら)せて見返ることもせず、

「これは喜蔵殿でございましたか。ご心配いただいたお陰さまで、榮太郎も好いところのご飯をいただきました。本当に有り難うございました。私の手紙を恥ずかしくも警察(おかみ)の眼にまでお入れなされて、お願いを無にもせず、よくもよくも榮太郎を結構なところへお世話下さいました。往時(むかし)のお返報(しかえし)は確かに母子(おやこ)でいただきました。もう沢山でございます」と言いながら、車を急に雇って、何を言っても聞く耳を持たず、親子三人は上野の方をさしてどことも知れず行ってしまった。よくよく縁というものが逆さになっているのか、喜蔵の(こころ)(あだ)となって、おこのには往時(むかし)返報(しかえし)をされたと思われて、大層深く恨まれ卑しまれ、二十年前の(えん)を又新たに結び増したのは不思議でもあり、本当に思うにまかせない世の中ではある。


 勇造は(たもと)から怪しい品が出て来たという実証があるので嫌疑は深く、厳しく糾問されていたが、不思議な書状が警察署に届けられたことで、より深い疑いを受け、苦しめられることとなった。その書状は男の手によって見事に(したた)められたもので、その文言(もんごん)を挙げてみれば次のようなものである。


 (なんじ)()()く見たまえ、能く考えたまえ。その後の自らの愚かさを悟りたまえ。汝等に教えておいてやろう。榮太郎という児は、汝等の眼を眩ますために我が(かどわ)かしただけのもの。勇造は我が可愛がってやり、汝等の眼の前に差し出して、あたかも本物の犯人のように見せかけただけの人間だ。だから、早く勇造を(ゆる)して、我を捕らえてみよ。我はただ汝等の眼がまるで鼻みたいで、あるいは耳が(へそ)みたいで、トンチンカンで、常に悪人の手を借りなければ悪人を捕らえることができないのを笑っているだけだ。


                      汝等の衣食の(みなもと)をつくる一人(ひとり)


 この書状は結局、勇造が厳しく責められるだけのものとなったが、言わずと知れた()の十郎はどこかで手を()って笑っているのだろう。その後、消息も絶えて、明らかになることはなかった。



                  (了)


今回で「あがりがま」の現代語勝手訳は終了しました。

48回の長きに亘り、最後まで相も変わらぬ下手な文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。


露伴の文章は途切れること無く、大抵数行、時には十行以上、続きに続きますが、その文体に乱れがないのは本当に見事です。

これを、現代語に置き換えようとすると、同じような長さで、きちんと意味を伝えるのが難しい。もちろん、私の浅学非才のせいでもあるのですが、どうしても細切れになってしまいます。

すると、微妙な文章に含まれる機微というものが失われ、「ああ、もったいないなぁ……」とは思うのですが、今の私には、これくらいのことしか出来ません。

どの作品のどの章も読み返すと、表現の拙さが気になり、その度に手を入れたくなって、我が才能の無さを実感しています。

いつの日か、もう一度最初から訳し直して、という思いはあるのですが、さてさて、何日になることやら。


次回は「みやこどり」という作品になります。

露伴全集第八巻の「風流微塵蔵」としては、次回の「みやこどり」が最後の作品となります。

その他に、「もつれ絲」がありますが、露伴の文章ではないとのことで、全集からは省かれています。(私としては、「もつれ絲」も現代語訳を予定しています)


次回「みやこどり」の投稿までには、約一ヶ月くらいの期間を要するのではないかと見込んでいます。この作品に興味をお持ちの方がいらっしゃれば、またお読みいただければと思います。




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