幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(44)
其 四十四
勇造は家に帰ってからずっと、馬鹿面をして待っていたが、日暮れになっても正体の知れないあの鎌九郎は一向に来ない。今か今かと待ちくたびれて、夜食も済ませ、一人で居るところ、夜も九時を過ぎたかと思える頃、笹屋という小料理屋から使いの者が来た。使いから手渡された書状を読めば、『笹屋までお越し下さいますよう』という内容だった。
よし分かったと、やがて身を起こして笹屋に赴けば、これはどうしたこと、笹屋には客は一人もおらず、
「これこれの男が俺を待っているはずだが、どうした」と訊けば、
「そのお方は存じませんが、浦和の方から人力車夫が手紙を持って参りまして、その中に貴方に上げた別封筒が入っており、その添え状には、『この手紙を勇造殿に届けてくれ、そうすれば、勇造殿がお出でになる頃か、それより少し遅れて自分も笹屋に出向くので、肴も沢山準備して勇造殿に一ト口先ず上げておいてくれ。そちらには馴染みはないが、夜が更けてしまうので、前もって連絡しておく』との行き届いたお手紙で、信用してもらいたいためか、お金まで入っておりましたので、旦那、まずまずお上がりなさって、召し上がって下さいませ」と、客を逃さない女主人の如才ない取りなしである。
「それもそうか」と、勇造は引かれるままに座敷に入り、酌婦を相手に、勧められるままに一杯、二杯と飲み、時間を潰し待っていたが、例の男は影もなく、酒ばかりに空しく酔って、下らないことばかり一人で饒舌っていたが、十時を過ぎ、十一時近くになった頃、突然あの男が笹屋に来て、席に着くなり、頻りに平頭平身しながら、
「いえもう、大変遅くなってしまいました。仰った通り、手ぶらではお眼にかかれないと思いましたため、何かと手間取り、まことに恐れ入りました。さあ、どうかお一つお飲みになられて、お流れを下さいませ」と、下にも置かない愛想の好さ。二、三献飲めば、男は早くも大層酔ったみたいな高調子。
「ああ、もう樽が小さいので、私はこの通りの酔い様。いや、あまり酔ってしまわない中に用事だけは済ませてしまいましょう。失礼ながら、旦那、何卒これをお改め下さいませ。ここに五十両ございます。少々余分が出ますが、ご不足でもそれは何やかやとおこの親子がこれまでお世話をかけました雑費としてお取り下さいませ。で、証文は? ヘイ、今はお持ちではございませんか。ナニ、よろしゅうございます、では明日にでも。イエ、旦那のようなお人柄のお方であれば疑いはございません。それはそうと、私はよく存じませんが、おこのをお世話なさろうと旦那が仰ったことがあるそうで。ハハハ、ご冗談な、物好きな。およしなさいませ、あんな婆を。人がご酔興と笑いますわ。およしなさいませ、およしなさいませ。それほどあの親子をご心配いただくのであれば、どうでございます、母よりは娘の方をお世話なされてはいかがなもので。ナニ、お須磨が承知をしないだろうと? ハハハ、気の弱いご遠慮勝ちな。承知も不承知もございません。当人の幸せ、母の安堵。そう願えれば私もこの上も無い大安心。是非とも親子を説得いたします。ヘイ、満更そんなお気持ちも無いことも無いと。それなら願ったり叶ったりでございます。まあまあもう少しお飲みくださいませ。今夜、私はこれからお須磨母子の家に厄介になりますので、そのついでに母子を説得しましょう。ああ、そうだ。それにつけて、旦那どうです、おこのにちょっとお会いになって、返済の金子は確かに受け取ったと一ト言言って下さいませんか。女は気の小さいもの。私の口からだけでは安心しないでしょうから、ご迷惑でもおこのに優しいご挨拶をしては下さいませんか。お須磨の話もおこのの気持ちの乗りようが大事なところでもありますので」と、車のような舌頭に言い廻されて、勇造は、一つは五十両を得た悦び、又一つはお須磨を自分のものに出来るかも知れないという悦びに、自分勝手な理屈を付けて厚かましくも、又今さらにおこのの気持ちをこちらに傾けようと、鎌九郎がこれまで自分のしていたことを知らないらしいのに乗じて、酔った勢いの考え浅く、
「そういう訳ならお前に頼んでお須磨を取り持ってもらいたい。成程、おこのに一言言って安心させてやるのがよかろう。どれ、それじゃ出かけましょうか」と、早くも煙草入れを腰にすれば、勘定を済ませて鎌九郎も立ち上がって、笹屋の小提灯を借りて、道を照らして村道を三、四町歩いて行けば、鎌九郎が小石に躓いたようでよろよろとして勇造に突き当たるや否や、提灯をばったり消した。
「エエ、これはまあ、鈍いことをしてしまいました。お許し下さい」と、月はあっても昨日今日の雨もよいの空の黒い闇の中、鎌九郎は勇造に打ち詫びた。
つづく




