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幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(37)

其 三十七


 詳しいことはよく分からないが、目的は達したらしく、しばらくして十郎は普段と変わらず悠然と榮太郎の方に歩み寄って来たが、ふと相手を振り返り、自分の顔を指さして、

「皆、おいどんの顔を覚えて、巡査(じゅんさ)殿(どん)に訴えたがよか。ハハハハハ」と、冷笑し、

「さあ、皆行け」と、仲間が戸外に多く居るかのように榮太郎に向かって戸越しに命じれば、時折顔を出しては、ひそかに内の様子を見ていた榮太郎は、帰る合図だと合点して、裏通りへと足早に抜けた。

 後から続いて出てきた十郎、駈け去る榮太郎の後を追って四、五町程歩いて来たが、突然「アッ!」と叫び、

「貴様、失敗(しくじっ)たぞ。素足だな。下駄はどうした。どこへ捨てた。裸足で()(ふか)に東京を歩いて(とが)められずに済むか」と、声こそ低いが(せわ)しく問えば、

「いえいえ、下駄はここに持っております」と、急に答えながら、腰から取って、賢くもたちまち穿()いて歩くと、十郎「ふふ」と、笑いを漏らして、

「よしよし、それならそれでよし。あれを見ろ、向こうから巡査が来る。油断するな。()ずは東京を出るのが大事だぞ。いいか、何でも俺の真似をしろ」と言いながら、早足になって歩いた。

 こちらは進む。向こうはやって来る。たちまち巡査とすれ違ったが、すれ違いざまに、注意深い巡査は角燈の光を向けて二人をじろりと見やって、怪しいと思うところがあったのか、

「待て!」と、一声叫んだ。

 『南無三、これは一大事』と驚いた榮太郎は、早くも腰が萎えてしまい、立ったまま(すく)んでいたが、十郎は少しも驚かず、(うしろ)を振り返って立ち止まり、

「何かご用でございますか」と、たった今、あの家を後にした時、薩摩弁を使ったのとは似ても似つかぬ純粋(きっすい)の江戸言葉である。

何用(なによう)があって、どこへ行く。姓名身分を一応言え」と、慣れ切った言葉つき。油断のない眼差しは流石に都会の警史(やくにん)であるが、こちらも百戦錬磨の曲者、まったくビクともせず、

「私は下谷(したや)西黒門(にしくろもん)(ちよう)十番地に住んでおります菅野(すげの)道雄(みちお)と申す者でございます。銀座(ぎんざ)尾張(おわり)(ちょう)にございます日々(にちにち)新聞(しんぶん)日報(にっぽう)社員(しゃいん)。わずかなりともご嫌疑を掛けられる者ではございません。今夜当直いたしておりましたところ、この小僧が自宅から馳せ参りまして、病に伏せっております老母の容態が差し迫ったと申したため、取るものもとりあえず、ちょっと帰宅するところでございます」と、弁舌滑らかに、無理に話を止めようものなら一議論にもなりそうな勢いで説き開けば、巡査も疑いは半ば解けたような顔つきであったが、今ひとつ腑に落ちないのか、角燈の()の及ぶ限り、詳しく二人の様子を見て、泥にまみれた足で下駄を穿いている榮太郎の方に眼を止め、

「貴様は何者だ。眷属(みより)か、召使いか、名は何と言う」と厳しく問うと、榮太郎はいよいよ震えだしたが、

「何も怖いことはない、きちんと申し上げろ」と、力づけてはくれるようなものの、余り助けにもならない十郎の一言にようやく口を開き、

「田舎から出て来て使われております榮太郎という者」と、名前だけは遂に本当のことを言った。

「田舎とはどこだ。近在か」と、追い駈けられるように問われて、仕方なく、

「浦和にあります鹿手袋村(しってぶくろむら)でございます」と、再び本当のことを話した。

「親父は何と言う。母はいるか」と、突っ込まれて、今度は母をいたわる一念で、

「ハイ、(とう)(さま)もなく、母様(かあさま)過般(このあいだ)、死んでしまいました」と、頭隠さず尻隠すような、甲斐のない嘘を言って退けるのがやっとであった。口出しをするのはこの時、放って置いては危ないと十郎は口を出して、

「そんな訳で、私の老母とこの子の母親とは昔同じ所で勤めていた縁があり、引き取って世話をしております」と、言い切ってまた言葉を足し、

「まだご尋問があるのでしたら、早くお尋ねくださいませ」と、怒気を含んで逆に迫れば、巡査はちょっと会釈をして、

「よろしい。では、お行きなされ」と、手を引いた。

「それなら失礼、さあ来い、榮」と、十郎が先に立って、後も見ずに行けば、榮太郎も何とか虎口を逃れた思いと、また尋問されまいと、急ぎ足になって必死に十郎の後を追った。


 先刻(さっき)、車上で初めて渡った萬世橋(よろずよばし)も渡り返し、昼間にしばらく休んだ旅店(やど)の前も通り抜け、どこに行くとも分からないが、十郎の行くに任せて後に(したが)っていたが、風寒い大きな道の傍に小さな葭簀(よしず)囲いをして、床几(しょうぎ)を一つ二つ置き並べ、『大福』と書かれた行燈(あんどん)が赤く掲げてある夜商人(よあきんど)の店があった。その傍で二人乗りの人力車を引き捨てて、車夫(くるまひき)らしい白髪交じりの毬栗頭(いがぐりあたま)の大男が、声高に、

「今夜程(ひど)い目に遭ったことは無い。夕方に出てから、坂本まで、それから神田、それから芝と段々南の方へ釣られて、(しま)いが京橋で置いてきぼり。どうにかして吉原へ一つ乗せていきたいと思っても、まったく人がおらず、このとおり車は空っぽ。仕方がないから、これから門(*遊郭の入り口の大門)へ行って朝帰りを待つつもりだが、泥よけの上が白くなるくらい霜が降る中、ノホホンと何もしないでいるなんて、こんな堪らないことはありゃしない」と、愚痴っているのを耳にすると、十郎はずっと葭簀(よしず)の中に入って、

「ああ寒い晩だ。ここへ来い、小僧、大福を買ってやろう」


つづく

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