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幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(29)

 其 二十九


『ああ、あの男があの金を貸してくれれば訳もないこと。母様(かあさま)が生きるの死ぬのと仰る苦しみから()ければ、俺の心配もそれでなくなり、その先は又この榮の稼ぎ次第で働きさえすれば、母様のお言葉の通り、俺たちを笑った憎い奴を笑い返してやることも出来るのに。夜が明けたら事情を話して頼んでみようか、貸して欲しいと言ってみようか、いやいや、とても貸してはくれまい。つい先刻(さっき)までは見ず知らずの人、しかも、子どもには貸してくれまい。「俺は金を持っていない」と言われたら、もうそれまで。その(ござ)の中にあるのに、なんてどうして言えようか。ああ、貸してくれればいいけどなあ。母様も俺も助かるがなあ。貸してはくれまい。言っても無益(だめ)だろうなあ。俺と母様とはどうでもこうでも(あく)(とう)()のせいで生命を()られてしまうのかなあ。どうにかしてあの金が欲しいが、到底(とても)貸してはくれないだろうなあ。本当のことを言っても嘘だと思われて、「子どものくせに何を言うか」と思われてしまうに違いない。仮に本当のことだと信じてくれてとしても、承知はしてくれないだろう。ああ、あの金が欲しいけどなあ』と、ぶつぶつ呟くように口にも出るようになった。再び横目に見れば、その(ござ)(づつみ)は元の通り、淋しく床の間の壁に寄りかかっており、物音も無い(へや)の中、ただ男が掻い巻きをすっぽり被り、正体もなく(いびき)をごうごうと鳴らしているだけである。


『貸してはくれまい、欲しいけれどなあ。あれさえあれば……、ああ欲しい。貸さないだろうな、借りたいなあ、ああ欲しい』と、甲斐のない思いを車の輪のように何度も無益(むだ)に巡らしていたが、我が身の苦しさ、母にかかる悲しさ辛さに思いは迫って、欲しさに凝り固まったあまり、突然、

『ああ、あの金を黙ってでも借りたいもの!』という思いが頭をよぎったが、その途端、

『それでは盗みというものになる』と、自ずから気づくや否や、ハッと驚いて、急に目を閉じ、身を縮ませたが……。とは言うものの、金はやはり欲しい。他に考えられる(みち)は無し。

『エエ、母様には代えられない。済まないのは本当に済まないことだけど、決してただでは取らないつもり。何日(いつ)か一度に倍にもして必ず榮が返しますので、少しの間だけ貸して下さい。(とう)様は無く、母様だけ。その母様がお金が無くては生きかねる大事な時でございます。ああ、済みません、済みませんが、どうか許して下さいませ。家へ帰って母様のご難を救った後なら、打つとも切るとも、この榮の身体をどのようにもして下さいませ。今のところを少時(ちっと)の間、どうぞ許して、許して』と、心の中で男に両手を合わせて涙を流し、罪を詫びながら、(こころ)を決めて首をそっともたげ起こすと、行燈(あんどん)は程よく暗く、例の(ござ)(つつみ)は榮太郎を待っているように見えた。

 覚悟はしても、今更に怖さに(とどろ)く胸の動悸は、自己(おのれ)自己(おのれ)の耳にも聞こえ、蒲団の上に起き直って、(まなこ)目的(めあて)彼物(もの)にじっと留めて、瞬きもせず、見詰める(うち)、どこからともなく陰風がゾッと身に吹き入って、氷を浴びたようになり、懐中(ふところ)寒く、震えが生じて、ようやく坐ってはいるけれど、なかなか膝を立てることが出来ないでいた。


『ああ、やはりこれは到底(とても)出来ない。どうしても出来るものではない。よそうよそう』と、身を翻して元の枕に()くのだが、又しばらくして、ひそかに起き出し、がくつく膝をしっかと押さえ、上下(うえした)の歯が相触れてガチガチ音を響かせるのを、きりりと堅く咬み締めて、音を立てないように、男の足の方から(ふすま)(づた)いに、床の間目がけて進み寄った。震える手先を差し伸べて例の蓙包に一度触れたが、この時あたかも何時(なんじ)になったのか、どこかで打つ時計の鐘が極めて(ゆる)くボンと鳴ったのに驚き、思わず手を引っ込め、背中にドッと冷や汗をかいた。しかし、いつまでもこんなことをしていては男が起き出してくるかも知れないと、再び手を伸ばして取ろうとすると、今度は燈火(あかり)がパッと明るくなった。愕然として腰が砕けてしまい、そのまま(うずくま)って屈み込み、息もつかずに()を見ると、何事も無くなおも燃えている。ただ、(かな)(ざら)に今落ちたばかりだと思われる燈華(ちょうじ)が消えて黒くなりながら、微かに白い煙を細く立ち上らせ、プンとした油の匂いが榮太郎の鼻を打った。


つづく

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