幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(20)
其 二十
その翌日の未明、一睡もしなかった榮太郎がまず起き出せば、もちろん眠ってなどいないと思われる母もたちまち起き出した。雨戸を繰り開け、戸外を見ると、薄紫の天の色、朝霧が深く地を覆い、遙か彼方の雑木山の頂だけが浮いて見えて、さながら沖の小島のようであった。音の立てるものはまったく無く、例えようもなく静かである。露の重さに堪えかねて、ほろりと枝を離れる木の葉は風に舞うこともなく直ぐに落ち、秋のしみじみとした風情が深まっている。室を掃除し、水を汲む榮太郎が甲斐甲斐しく手伝うので、台所仕事も早く済み、一つの膳に、親子が向かう頃、ようやく雀が鳴き出せば、箸を置く頃になって、紅い日が僅かに弓状の頭を見せ始めた。
「母様、それでは昨夜私が言った通り、これから千住へ行って姉様に会って帰って参ります。心配せずに待っていてください。遅くなっても榮は必ず帰って来ます。榮のいない中に昨夕のようなことを母様がされれば、榮も後からお同行します。私がいなくても帰るまでは絶対に何もされませんように。必ずでございますよ。よろしゅうございますか。また、勇造めが来ましたら、どうにでも勝手にするがいいと厳しく叱っておやりくださいませ。金さえ遣ればあんな奴にこれからは口も利かないで済みます。金さえぶつけてやれば済むことです。きっと待っていて下さいませ」と、熱心籠めて言い出せば、おこのは、何度か頷いて、
「お前も心配することはない。私はお前を騙しはしません。好いにつけ悪いにつけ、お前が帰るまでは必ず待っています。それでまた、お前は千住に行って、今日帰ってくると言うけれど、もしも遅くなって先方で泊まれと行ってくれたらお泊まりなさい。夜道を歩くのは好くないので、急がず、途中気をつけるようにしなさい。夜になると思ったら、必ず頼んででも千住へ泊めてもらって、翌日に発つのが危なくなくて一番好い。分かりましたか。ちゃんと母の言う通りにするのですよ」と、繰り返せて諭すのも熱心である。
「それでは、いよいよ出かけます」と、土間に下りたって、藁を選び、手慣れた仕草で縄を綯え、足の指にかけて編み込み、括り、槌で打つと早くも草鞋が出来上がったが、その間に母は梅干の塩むすびを昼のためにと皮で包んで、それをなおも風呂敷に巻き込み、腰につけるようにと渡せば、
「ありがとうございます。それでは母様、行って参ります。きっと待っていて下さいますよう」
「おお、待っています。よく途中、気をつけなくてはいけませんよ。帰りが遅くなるようなら泊まってくるが好い。絶対に焦って無理をしないように」
「ハイ、行って参ります」
「気をつけて」と、溢れるばかりの互いの情。小笠を被り、草鞋を履けば、背丈こそまだ高くないが、甲斐甲斐しい端折り姿の後ろ影、見送る母は紅葉色の蔦が絡まる門柱に縋って少しも眼を離さず、送られる者、送る者、涙なくては居られない。さあ、孝行者の榮太郎、家の門を出て、これからどんな運命の神に出会うことやら。
つづく




