幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(16)
其 十六
不幸福とは言うものの、こうも不幸福が続くものか。力になる人は秋の木の葉が剥落るように、一人、又一人と亡くなってしまった。少しは相談できそうな娘のお須磨は千住へ奉公に出てしまったので、後はどちらを向いてもお前と私の二人きり。憐れんではくれるものの、村の人々にとっては他人のこと。遠いながら縁類にあたる勇造はあの通り。ああ、口惜しいがどうにもならない。お父様といい、私といい、人には随分慈悲をかけたこともあったのに、段々と世間を渡ってみれば、人は犬よりも頼りにならないもの。恩を忘れるのが怜悧のやり方と思いも思われもするこの浮世、たとえば今の必死の状況を泣いて告げても『ほお、さようですか』と鼻であしらわれるのは知れたこと。誰一人として往時の好誼を思ってくれる者はいないだろう。私が本町にいた頃は、使った男女も何十人、それが恩でも返そうことか、少しでもこっちが油断をしていれば、皆自分だけの得を考えて、主人の蔵に穴を開ける鼠同然の振る舞いをするばかり。お前が生まれたその時などは、この村の寺なんかの広さよりもっともっと広い家の中に、一家親類出入りの者まで、人浪が立つ程詰め込んで、潮が湧くように賑やかだったが、今、音信のある者など丸きりありはしない。過般のお逮夜(*七日毎の忌日の前日の夜)にも淋しく三、四人寄ったばかり。美衣を着れば人が随き、破れ草履を履いていれば、人にも逐われるのは道理なので、恨むことは無いけれども、それにしてもあまりに世間の人が恨めしい。鈴鹿屋などの夫婦は揃っての薄情者。媒酌をしたのを恩に着せて、私のお母様が亡くなられた後は、誰憚らず金の無心をしたり、騙したりして、散々に他の財産で自己の腹を肥やしておきながら、今は好い暮らしをしているそうな。向こうからの便りもなく、こちらからも便りもしないので、はっきりとは分からないけれど、本当にそうならお天道様も仏様も無い世の中。悪いことはした方が勝ち、された方が負けというもので、義理も無ければ人情も無い。あの勇造めだけを恨むのは筋違いかも知れないが、さしずめ困ったのは三十七両、八反の畠で借りてあるのと、今日立て変えてもらった分と合わせてそれだけになるとやら。茂平次殿の方へ三百両で入っているということは私も知っていたけれど、勇造めに少しばかりのお金をその畠で借りていたとは全然聞いたことがない。どう考えても八反の畠に二十両余りとは、あまりにも違いのある話。何か訳でもあったのだろうとは思うが、死人に口無し。相手は證文を楯にとって、三十七両を持って来たならいざ知らず、そうでなければそっちの出方次第で、位牌にも恥をかかせねばならんと、出来ないと分かって私に逼る憎らしさ。どうやらこうやら返事をしないで、その場を濁して酒に酔わせ、酔い潰して置いて逃げては来たが、きっと明日にも又来て逼るだろう。もうどうしようもなくて、亡位のお名前のため、又、お前のために私の身を捨ててもと、済まないとは知りながら私の身体を狼の餌になったと思って、あの勇造めに任そうかとまで考えたけれど、どう考えても、どう思っても、何度思い返しても、ただただ勇造が憎いだけとなって、私には出来なかった。勇造めの自由になるくらいなら死んだ方がまし。と言って、お金の算段はとても出来る筈もなし。死んだらまさか、冥途まであの勇造が追っては来ないだろうと思うにつけても、死ぬのは簡単だが、後に残したお前のことを考えれば、死ぬにも死にかねて……」と、言いかけて、早くも胸が塞がったのか、顔を掩ってがばと伏せれば、同じ思いの榮太郎、恨みと無念と切なさとで、握り固める早蕨のような拳を膝に置いたまま、音もたてずに降る春雨の、軒端を伝う玉水のように涙を堕すだけであった。
つづく




