第18話 孤独の現実
第18話 孤独の現実
六月に入ったばかりだというのに、その日の空気は妙に重かった。
朝から湿気がまとわりつき、地方支社の古いエアコンはぬるい風しか吐き出さない。和也はデスクに座ったまま、何度も咳をしていた。
喉が痛い。
身体が妙にだるい。
頭の奥がじんじん熱を持っている。
「課長、大丈夫ですか?」
若い社員に声をかけられ、和也は眉をしかめた。
「……平気だ」
だが声は掠れていた。
シャツは背中に張り付き、額には嫌な汗が滲んでいる。以前なら静子が季節の変わり目になると、
「風邪ひきそうだから、薄い上着持っていって」
と言った。
机には栄養ドリンクが置かれ、夜には生姜の効いたうどんが出てきた。
だが今は違う。
誰も気づかない。
いや、気づいても“自己管理のできない中年男”として距離を置くだけだった。
昼過ぎには立っているのも辛くなり、和也は早退した。
駅前のドラッグストアへ入る。
冷房の匂い。
消毒液の匂い。
棚に並ぶ薬箱。
和也はぼんやり立ち尽くした。
風邪薬と書かれていても、どれを選べばいいのか分からない。
「熱ですか?」
店員の若い女性が声をかける。
「あ……ああ」
「喉痛いです?」
「……熱と、だるさ」
「こちら飲みやすいですよ」
差し出された箱を受け取る。
以前なら静子が全部やっていた。
熱を測り、
薬を買い、
水を用意し、
飲み忘れないよう枕元へ置いた。
和也は財布を出しながら、小さく舌打ちした。
「情けねえな……」
誰にも聞こえない声だった。
アパートへ戻る頃には、雨が降り始めていた。
湿った階段を上がる。
鍵を開ける。
暗い。
冷たい。
部屋の空気はよどみ、昨日食べたコンビニ弁当の容器がまだ流しに残っている。酸っぱい臭いが鼻についた。
和也はネクタイを外す気力もなく、そのまま布団へ倒れ込んだ。
熱い。
身体が鉛みたいに重い。
喉が渇く。
だが起き上がるのも億劫だった。
「……静子」
無意識に名前が漏れる。
返事はない。
当然だ。
静子はもういない。
天井を見つめながら、和也はぼんやり昔を思い出していた。
三十代の頃、インフルエンザにかかったことがある。
高熱でうなされる和也の横で、静子は一晩中タオルを替えていた。
薄暗い部屋。
氷枕の冷たさ。
お粥の湯気。
「少し食べられる?」
静子の声はいつも静かだった。
和也は不機嫌に、
「味が薄い」
と文句を言った。
それでも静子は、
「ごめんなさいね」
と小さく笑っていた。
あの時、自分は一度でも礼を言っただろうか。
思い出せなかった。
布団の中で、和也は目を閉じる。
熱で意識がぼんやりする。
部屋は静かだった。
いや、静かすぎた。
昔は鬱陶しいと思っていた。
静子の
「お茶飲む?」
「薬の時間よ」
そんな声を。
今は、その声がないだけで、部屋が空洞みたいだった。
夜になっても食欲は戻らなかった。
だが薬を飲まなければと思い、和也はふらつきながら台所へ向かう。
冷蔵庫を開ける。
缶ビール。
古い卵。
しなびたネギ。
まともな食べ物がない。
和也はコンビニで買ったカップうどんを取り出した。湯を注ぎながら、ふと笑いそうになる。
静子なら絶対こんなもの食べさせなかった。
「身体弱ってる時に、こんなの駄目」
と言って、卵を落とした雑炊を作っただろう。
三分待つ間、和也は椅子へ座り込む。
テーブルの上には薬のシートが散らばっていた。
一人分の生活。
誰も叱らない。
誰も心配しない。
誰も待っていない。
出来上がったうどんをすすっても、味がしない。
塩気だけが舌に残る。
和也は箸を止めた。
胸の奥が妙に苦しい。
熱のせいだけではなかった。
「……俺、何にも返してなかったな」
ぽつりと呟く。
その言葉は、自分でも驚くほど素直だった。
静子は毎日、当たり前みたいに和也を支えていた。
朝食。
洗濯。
アイロン。
薬の準備。
季節ごとの布団替え。
和也はそれを“妻の役目”だと思っていた。
感謝などしたことがない。
むしろ、少しでも不満があれば責めていた。
今さら気づく。
自分は、静子の優しさに胡坐をかいていただけだった。
和也は熱い額を押さえた。
涙が出そうになる。
だが泣く資格などない気がした。
深夜。
薬のせいで少し熱が下がった頃、和也は枕元のスマホへ手を伸ばした。
時間を見ようとして、画面が光る。
その瞬間、和也は動きを止めた。
待受画面。
そこには昔の家族写真が映っていた。
数年前、海辺で撮った写真だった。
和也は腕を組み、偉そうに笑っている。
隣には静子。
風に髪を揺らしながら、控えめに微笑んでいる。
淡いピンクのカーディガン。
白い帽子。
少し眩しそうな目。
和也はその写真をじっと見つめた。
設定したことすら忘れていた。
指先で画面をなぞる。
「……なんで変えてなかったんだろうな」
掠れた声が部屋へ落ちる。
誰も答えない。
窓の外では雨が降り続いていた。
古いアパートの壁を叩く雨音が、まるで遠い波の音みたいに聞こえる。
和也はスマホを胸元へ落とし、ゆっくり目を閉じた。
熱でぼんやりした意識の中、最後に浮かんだのは、味噌汁の湯気の向こうで
「おかわりいる?」
と笑っていた静子の顔だった。




