第17話 自分の人生
第17話 自分の人生
五月の朝は風がやわらかかった。
庭のバラには小さな蕾がつき、窓を開けると湿った土と若葉の匂いが部屋へ流れ込んでくる。静子は鏡の前に立ち、何度目かの確認をしていた。
薄い水色のブラウス。
アイボリーのカーディガン。
膝下まであるグレーのスカート。
派手ではない。
けれど、きちんと自分で選んだ服だった。
鏡の中の自分は、少し緊張した顔をしている。
静子は小さく息を吐いた。
「大丈夫よ」
そう口にしてみる。
今日は、初めての仕事の日だった。
近所の小さな市立図書館。
受付のパート募集を見つけた時、静子はしばらくチラシを握ったまま動けなかった。
働くなんて、何十年ぶりだろう。
結婚してからの静子は、ずっと“妻”だった。
夫の予定を優先し、
家を整え、
食事を作り、
機嫌を読み、
一日を終える。
それが自分の役割だと思っていた。
だが離婚してから、静かな時間が増えた。
最初は戸惑った。
けれど次第に思うようになったのだ。
自分の時間を、自分のために使ってもいいのではないか、と。
朝食はトーストとゆで卵、それに苺ジャムを入れたヨーグルトだった。コーヒーの香りが食卓に広がる。
以前の朝食は、和也の好みに合わせていた。焼き魚に味噌汁、漬物。少しでも遅れると機嫌が悪くなるから、静子はいつも時計ばかり見ていた。
だが今は違う。
トーストをひと口かじりながら、静子は窓の外を見る。
陽の光がレースカーテンを透かし、部屋をやさしく照らしていた。
「行ってきます」
小さく呟き、静子はバッグを手に家を出た。
図書館は古い建物だった。
入り口の脇にはツツジが咲き、ガラス扉の向こうから紙と木の匂いが漂ってくる。
静子は胸の前で手を握った。
緊張していた。
もし失敗したら。
覚えが悪かったら。
迷惑をかけたら。
そんな不安ばかり浮かぶ。
受付の奥から女性が出てきた。
「今日からの静子さんですね?」
柔らかな笑顔だった。
名札には“佐伯”と書いてある。
「はい。よろしくお願いします」
「そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ」
佐伯は笑った。
「ここ、静かな職場ですから」
静子は小さく頭を下げる。
館内にはページをめくる音と、遠くで流れるクラシック音楽だけが響いていた。
木の床を歩くと、かすかに軋む音がする。
「まずは貸出のやり方から覚えましょうか」
静子は何度も頷いた。
利用カード。
返却期限。
予約本。
覚えることは多かったが、不思議と嫌ではなかった。
「静子さん、飲み込み早いですね」
佐伯にそう言われ、静子は戸惑った。
「いえ、そんな……」
褒められることに慣れていない。
和也は何かできても当たり前という顔をしたし、失敗すればため息をついた。
だから静子は、自分が“できる人間”だと思ったことがなかった。
昼過ぎ、小さな男の子が絵本を抱えて受付へ来た。
「これ、かりる」
赤い帽子を被った五歳くらいの子だった。
静子はしゃがみ込み、目線を合わせる。
「はい、どうぞ。恐竜好きなの?」
男の子は嬉しそうに頷いた。
「ティラノサウルス!」
「強そうねえ」
男の子の母親が笑う。
「すみません、騒がしくて」
「いいえ、元気で素敵です」
その時、母親がふっと言った。
「あなた、話しやすいですね」
静子は少し驚いた。
「え?」
「なんだか安心します」
静子は頬が熱くなるのを感じた。
「ありがとうございます……」
その瞬間、胸の奥がじんわり温かくなった。
嬉しかった。
ただ、誰かに自然に感謝されたことが。
午後になると、常連らしい年配の男性が新聞を抱えて受付へ来た。
「新しく入った人?」
「はい」
「感じがいいねえ」
静子は困ったように笑った。
図書館の空気は静かだった。
だが、その静けさは昔の家とは違う。
誰かの機嫌を恐れる沈黙ではない。
本を読む人たちが、それぞれ安心して過ごすための静けさだった。
閉館後、静子は返却棚を整理していた。
夕日が窓から差し込み、本棚を橙色に染めている。
その時、佐伯が小さな箱を持ってきた。
「これ、静子さんのです」
「え?」
中には名札と、簡単なスタッフ用の名刺が入っていた。
白い紙に、黒い文字。
“市立みどり図書館”
“受付スタッフ 高瀬静子”
静子はその文字を見つめた。
高瀬静子。
和也の妻ではない。
“奥さん”でもない。
自分の名前だった。
佐伯が笑う。
「これからよろしくお願いしますね、静子さん」
その“静子さん”という呼び方が、胸へ静かに落ちてくる。
結婚してからずっと、
“奥さん”
“お母さん”
そう呼ばれることばかりだった。
名前で呼ばれることなんて、ほとんどなかった。
静子は名刺をそっと指でなぞる。
紙の感触がやけに温かい。
「……はい」
返事をした声は、少し震えていた。
帰り道、空は夕焼けで染まっていた。
商店街からコロッケの揚がる匂いが漂う。
静子は珍しく惣菜屋へ寄った。
「今日はメンチカツがおすすめですよ」
店主が笑う。
静子は少し考え、
「じゃあ二つください」
と言った。
以前なら、和也の好みに合わせていた。脂っこいだの味が濃いだの言われるのが面倒で、自分の食べたいものは後回しだった。
だが今日は違う。
家へ帰り、メンチカツを皿へ乗せる。千切りキャベツを添え、トマトを切る。
湯気の立つ味噌汁。
炊き立てのご飯。
静子は一人で
「いただきます」
と言った。
サクッ、と衣が鳴る。
肉汁がじゅわっと広がった。
「おいしい」
思わず笑みがこぼれる。
その時、テーブルの端に置いた名刺が目に入った。
静子はそっと手に取る。
“高瀬静子”
その文字を見ていると、不思議だった。
長い間、誰かの人生を支えることばかり考えてきた。
でもこれからは違う。
自分の人生を、自分で歩いていい。
窓の外では夜風が庭を揺らしていた。
静子は名刺を胸元へ抱き、小さく笑った。
それは、長い人生で初めて手に入れた、“自分自身の居場所”だった。




