表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

17/20

第17話 自分の人生

第17話 自分の人生


五月の朝は風がやわらかかった。


庭のバラには小さな蕾がつき、窓を開けると湿った土と若葉の匂いが部屋へ流れ込んでくる。静子は鏡の前に立ち、何度目かの確認をしていた。


薄い水色のブラウス。

アイボリーのカーディガン。

膝下まであるグレーのスカート。


派手ではない。

けれど、きちんと自分で選んだ服だった。


鏡の中の自分は、少し緊張した顔をしている。


静子は小さく息を吐いた。


「大丈夫よ」


そう口にしてみる。


今日は、初めての仕事の日だった。


近所の小さな市立図書館。


受付のパート募集を見つけた時、静子はしばらくチラシを握ったまま動けなかった。


働くなんて、何十年ぶりだろう。


結婚してからの静子は、ずっと“妻”だった。


夫の予定を優先し、

家を整え、

食事を作り、

機嫌を読み、

一日を終える。


それが自分の役割だと思っていた。


だが離婚してから、静かな時間が増えた。


最初は戸惑った。


けれど次第に思うようになったのだ。


自分の時間を、自分のために使ってもいいのではないか、と。


朝食はトーストとゆで卵、それに苺ジャムを入れたヨーグルトだった。コーヒーの香りが食卓に広がる。


以前の朝食は、和也の好みに合わせていた。焼き魚に味噌汁、漬物。少しでも遅れると機嫌が悪くなるから、静子はいつも時計ばかり見ていた。


だが今は違う。


トーストをひと口かじりながら、静子は窓の外を見る。


陽の光がレースカーテンを透かし、部屋をやさしく照らしていた。


「行ってきます」


小さく呟き、静子はバッグを手に家を出た。


図書館は古い建物だった。


入り口の脇にはツツジが咲き、ガラス扉の向こうから紙と木の匂いが漂ってくる。


静子は胸の前で手を握った。


緊張していた。


もし失敗したら。

覚えが悪かったら。

迷惑をかけたら。


そんな不安ばかり浮かぶ。


受付の奥から女性が出てきた。


「今日からの静子さんですね?」


柔らかな笑顔だった。


名札には“佐伯”と書いてある。


「はい。よろしくお願いします」


「そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ」


佐伯は笑った。


「ここ、静かな職場ですから」


静子は小さく頭を下げる。


館内にはページをめくる音と、遠くで流れるクラシック音楽だけが響いていた。


木の床を歩くと、かすかに軋む音がする。


「まずは貸出のやり方から覚えましょうか」


静子は何度も頷いた。


利用カード。

返却期限。

予約本。


覚えることは多かったが、不思議と嫌ではなかった。


「静子さん、飲み込み早いですね」


佐伯にそう言われ、静子は戸惑った。


「いえ、そんな……」


褒められることに慣れていない。


和也は何かできても当たり前という顔をしたし、失敗すればため息をついた。


だから静子は、自分が“できる人間”だと思ったことがなかった。


昼過ぎ、小さな男の子が絵本を抱えて受付へ来た。


「これ、かりる」


赤い帽子を被った五歳くらいの子だった。


静子はしゃがみ込み、目線を合わせる。


「はい、どうぞ。恐竜好きなの?」


男の子は嬉しそうに頷いた。


「ティラノサウルス!」


「強そうねえ」


男の子の母親が笑う。


「すみません、騒がしくて」


「いいえ、元気で素敵です」


その時、母親がふっと言った。


「あなた、話しやすいですね」


静子は少し驚いた。


「え?」


「なんだか安心します」


静子は頬が熱くなるのを感じた。


「ありがとうございます……」


その瞬間、胸の奥がじんわり温かくなった。


嬉しかった。


ただ、誰かに自然に感謝されたことが。


午後になると、常連らしい年配の男性が新聞を抱えて受付へ来た。


「新しく入った人?」


「はい」


「感じがいいねえ」


静子は困ったように笑った。


図書館の空気は静かだった。


だが、その静けさは昔の家とは違う。


誰かの機嫌を恐れる沈黙ではない。


本を読む人たちが、それぞれ安心して過ごすための静けさだった。


閉館後、静子は返却棚を整理していた。


夕日が窓から差し込み、本棚を橙色に染めている。


その時、佐伯が小さな箱を持ってきた。


「これ、静子さんのです」


「え?」


中には名札と、簡単なスタッフ用の名刺が入っていた。


白い紙に、黒い文字。


“市立みどり図書館”

“受付スタッフ 高瀬静子”


静子はその文字を見つめた。


高瀬静子。


和也の妻ではない。


“奥さん”でもない。


自分の名前だった。


佐伯が笑う。


「これからよろしくお願いしますね、静子さん」


その“静子さん”という呼び方が、胸へ静かに落ちてくる。


結婚してからずっと、

“奥さん”

“お母さん”

そう呼ばれることばかりだった。


名前で呼ばれることなんて、ほとんどなかった。


静子は名刺をそっと指でなぞる。


紙の感触がやけに温かい。


「……はい」


返事をした声は、少し震えていた。


帰り道、空は夕焼けで染まっていた。


商店街からコロッケの揚がる匂いが漂う。


静子は珍しく惣菜屋へ寄った。


「今日はメンチカツがおすすめですよ」


店主が笑う。


静子は少し考え、

「じゃあ二つください」

と言った。


以前なら、和也の好みに合わせていた。脂っこいだの味が濃いだの言われるのが面倒で、自分の食べたいものは後回しだった。


だが今日は違う。


家へ帰り、メンチカツを皿へ乗せる。千切りキャベツを添え、トマトを切る。


湯気の立つ味噌汁。


炊き立てのご飯。


静子は一人で

「いただきます」

と言った。


サクッ、と衣が鳴る。


肉汁がじゅわっと広がった。


「おいしい」


思わず笑みがこぼれる。


その時、テーブルの端に置いた名刺が目に入った。


静子はそっと手に取る。


“高瀬静子”


その文字を見ていると、不思議だった。


長い間、誰かの人生を支えることばかり考えてきた。


でもこれからは違う。


自分の人生を、自分で歩いていい。


窓の外では夜風が庭を揺らしていた。


静子は名刺を胸元へ抱き、小さく笑った。


それは、長い人生で初めて手に入れた、“自分自身の居場所”だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ