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「ん……」
ぼんやりとした意識の中で、平木祐也はベッドの上でゆっくりと目を開いた。
天井の照明は見慣れないおしゃれなものだったし、匂いもシーツの感触も、他人の家のものだった。
いや、それより何より――、
「……は?」
足首に冷たい金属の感触があった。
見ると、太い鎖が絡みついている。先は部屋の隅の金具に繋がっていた。
服は身につけておらず、下着のみだ。
知らない部屋で、足には鎖、そしてほぼ全裸に近い格好――。
まるで現実感がない。
「な、なにこれ……。寝起きドッキリ的な……?」
あまりにも突拍子のない状況に、平木は笑って誤魔化すしかなかった。だが、頬を引きつるだけで、全身からは汗が吹き出していた。
(いやいや! ドッキリどころじゃないわ! 下手したら心臓止まるレベルだよ、これ!)
すると、動揺する思考をなだめる間もなく、「ガチャ」とドアの開く音がした。
「ひ……っ!!」
ビクリと体が跳ね上がる。
心臓が早鐘のように鳴る。
恐る恐る振り返った先には、風呂上がりらしきバスタオル姿の男が立っていた。
平木は目を見張った。
その一度見たら忘れられない怜悧な美貌には、見覚えがあった。
「え……? 花崎、さん……?」
「お、起きました?」
涼しい顔でそう言った男は、平木の記憶にある“あの花崎透”と同一人物だった。
見知った顔と花崎の淡々とした態度に、体に張り詰めた緊張が少しだけ緩む。
「……え、あ、うん。起きたけど……ここ、どこ?」
「俺の家です。先輩、すごく酔ってたんで。もしかして覚えてないんですか?」
そう言われて、平木の脳裏に昨日の記憶が蘇った。
昨日は、久しぶりに繁華街に出た。
元同期の山路広人と海野良平に誘われて、飲み会が開かれたのだ。
「ふたりとも、仕事お疲れ様! ふたりの労働をねぎらって、乾杯〜!」
酒が揃ったところで、平木が陽気に乾杯の音頭を取る。
その向かいの席で、山路は戸惑いの表情を浮かべ、海野は顔をしかめた。
「……無職の人間に労働をねぎらわれて、俺達はどんな顔をすればいいんだ?」
「別に、普通に笑えよ」
平木がへらりと返すと、海野は大きく溜め息をついた。
「笑うにしては、お前の置かれている状況が悲惨すぎるんだが」
「ちょっ、海野!」
海野の隣で山路が慌てて制止する。
「その言い方はひどいだろっ」
「いや、開き直ってる無職にはこのくらい言ってやらないと」
二人のやり取りをぼんやりと眺めながら、平木の胸に懐かしさが、じん、とこみあげてきた。
「あー、この海野の容赦ないツッコミと山路の優しさ……! いいねぇ」
グラスを煽って酒を流し込み、小さく溜め息をつく。
海野は昔から真面目で口が厳しかったが、そのぶん正論しか言わない。
山路はその隣で、いつも緩衝材みたいに場を和ませてくれていた。
そのバランスが、妙に居心地よかった。
「大嫌いな仕事を抜きで、ふたりと飲める酒はやっぱり最高だな!」
「……お前がリストラされたのって、その一言に全て詰まってるよな」
「こ、こら! 海野!」
呆れて無遠慮な言葉をこぼす海野に、再び山路が慌てて声を上げた。
そんな二人をよそに、平木は他人事のように声を上げて笑った。
半年前、会社の業績不振という理由で、真っ先にリストラされたのが自分だった。
別に驚きはしなかった。心のどこかで「ああ、やっぱりな」と思ったくらいだ。
仕事は向いてなかった。というか、そもそも自分のような怠惰でいい加減な人間には、労働自体が適性外だった。
リストラを言い渡された時など、働くのが嫌すぎて「ラッキー」とすら思ってしまった。
「あーっ、働きたくないっ!」
酒をしこたま飲んだ平木は、さらに本音を曝け出し、テーブルに突っ伏した。
「金持ちの美女に飼われてぇー!」
毎度の戯言に、海野が鼻を鳴らす。
「出た出た。平木の気持ち悪いニート妄想。人に飼われたいだとか、お前にはプライドがないのか」
「働かなくていいなら、プライドなんかドブに捨ててやる」
「ははは、よっぽど働きたくないんだなぁ」
当然のように言い切る平木に、山路が苦笑した。
「というか、金持ちの美女が何がよくてお前を飼うんだよ。イケメンでも気がきくわけでもないし、メリット全然ないだろ」
「メリットならある! こんなダメ人間がそばにいることで、優越感と自己肯定感が爆上がりだ」
平木が得意げに胸を叩いてみせる。海野は心底呆れた顔をした。
「お前、本当にプライドないな。……まぁ、でも、お前がサブだったら、ドムの金持ちの美女に飼われるっていうのも、ワンチャンあったかもしれないな」
串を指でくるくると回しながら、海野が軽い調子で言った。
ドムとサブ──それは、ダイナミクスと呼ばれる“力のバランス”から成る、男女の性とは異なるもう一つの関係性。第二の性とも言われる概念だ。 ドムとは、支配する側の気質を持った人間。その対になるのが、サブ。従属し、委ねることに快感や安心を覚える性質を持つ。
世間ではSMの延長線のように誤解されがちだが、その関係は、支配と服従だけではない。庇護と依存の関係でもある。
ドムは本能的に「守りたい」「手をかけたい」と思う相手を求める。
一方、サブは「守られたい」「甘えたい」と無意識に感じる相手を探す。
嗜好でも性癖でもなく、あくまで本能的な相性のようなもので、互いが引かれ合えば、自然と関係は噛み合う――らしい。
しかし、ノーマルの平木にはまるで無縁の話である。
「ドムとサブ、ねぇ……。いいなぁ、それ。金持ちの美女ドムに庇護されたいもんだ」
美女に膝枕されながらペットのように可愛がられる姿を想像して、ひとりでに口元が緩む。
「なんだ、その気持ち悪い顔は。サブだとしても無理だわ」
「ひどいっ。俺みたいな野垂れ死に確定な無能人間こそ、誰かが庇護すべきだろ」
「そういうところが、自ら対象外に行ってるのがわからねぇの?」
わざと高い声で抗議する平木に、海野が肩をすくめた。
「海野ひどい〜。辛辣〜。ちょっと山路もなんか言ってやってよ。ドム代表として。俺みたいなのも意外とドムに需要あるってさ」
「え……」
急に話を振られ、山路が戸惑う。
そして、目をしばらく泳がせた後、
「あ、えっと……うん。平木にも、そういう需要……あると思うよ」
目を逸らして言い淀む山路に、海野がハッと鼻で笑う。
「おいおい、愚問でドム様を困らせんなよ、平木〜」
「いやいや、そりゃあ同じ男には需要ないだろうけどさ、女性のドムならワンチャンあるかもじゃん。ほら、母性本能をくすぐるとか」
「母性本能をくすぐるのは、山路みたいなイケメンに限るだろ」
「結局顔かよ! ドムサブ関係ねぇじゃん!」
大げさに言って、座敷に倒れると、海野と山路が同時に吹き出した。
「現実を思い知ったか。サブでもイケメンでもないお前は、諦めて職を探せ」
意地悪く言い放ち、海野は席を立ってトイレに向かった。
「殺生な〜……」
弱々しい声を漏らした後、のろのろと体を起こす。
「あー、海野は夢すら見せてくれねぇんだから、本当に鬼だよ」
「そんなことないよ。海野もあれで平木のことすごく心配してるんだよ」
「まぁ、そうなんだろうけど……」
山路に諭されるように言われ、平木はきまりが悪くなって唇を尖らせた。
すると、山路が少し躊躇ったあとで、そっと手を伸ばし、平木の頭を撫でた。
「まぁ、無理せず自分のペースでがんばるのが一番だよ。……俺も、その、ドムとかサブとか関係無しに、平木の助けになりたいって思ってるし……」
ぼそぼそと恥ずかしそうに、しかしどこか真剣に山路が呟く。
「俺の助けになりたいって、それって――」
平木は勢いよく山路の手を取った。
「それって、今日は俺の分おごってくれるってこと!?」
「……え?」
パチパチと目を瞬かせる山路を気にせず、平木は感極まって続ける。
「山路、お前って本当に、いい奴だな……っ! うう……っ、久しぶりに人の優しさに触れたら、なんか涙が……っ」
ぐすっと鼻をすする。酔いもあり、妙に涙腺が緩くなっていた。
「……いや、まぁ、うん、平木が喜んでくれるなら、それで……」
山路は自分に言い聞かせるように、静かに呟いた。
一方の平木は、思いがけぬおごりにすっかり舞い上がり、山路の複雑な心境に気づくはずもなかった。