お父さんは情弱
プルルルルッ! プルルルルッ!
電話の着信音が、D社企画開発部のオフィス内に響く。
「はい、ディスクリミネーションソフトです」
庶務の岩蟻が、受話器を取った。
『もしもし、炎代ですけど、椎尾さんいらっしゃりますか?』
「少々お待ちください」
岩蟻は電話機の保留ボタンを押して受話器を置いた。
「格樹さん、炎代さんからお電話です」
「はい、椎尾です」
格樹は受話器を取り、炎代と話し始める。
『もしもし、炎代ですけど、曲が一つできあがったのですが、楽譜はどなたに渡せばよろしいのでしょうか?』
「……すみません、そちらの方で打ち込んで楽曲データ……といいますか、音声データにしていただく事って、できないのでしょうか?」
『すみません、音声データって、どういうものでしょうか?』
「wavやmp3、ogg等、コンピュータで音楽を再生するためのデータですよ」
『すみません、よくわかりません』
格樹は絶句した。
――炎代さんって、もしかして……情弱?
「すみませんけど、炎代さん」
『はい』
「パソコンを扱った経験は、ございますか?」
『学生時代に少し触った事があるだけで、ここ二十年以上、ほとんど触っていません。自宅に一台ある事はあるんですけど、あれは娘のために買ったもので、私は全然触っていませんし……』
――やっぱり。
格樹は、ため息をついた。
「炎代さん、貴方のバンドメンバーの中で、パソコンを使える方は、いらっしゃりますか?」
『はい、水洗君なら使えます。彼はバンドの打ち込み担当ですので』
水洗はバンドメンバーの一人であり、炎代の友人でもある。バンドではキーボードを操り、パソコン活用の打ち込みによる作曲も行う。
「水洗さんに頼んで、データ化していただく事はできますか?」
『それが……彼、仕事が入っていまして、頼み事はできそうにありません』
「そうですか……」
格樹は黙って、何か考え事をしている。
――ここは音波狂研のスタッフに頼むべきなのだろうか?
『椎尾さん』
「はい」
『パソコンを使える方に、音声データを作ってもらえばいいという事ですよね?』
「そうですけど」
『私の娘に頼んでみようかと思いますけど、いかがでしょうか? 娘は作曲が趣味でして、パソコンとシンセサイザーを使って、時々、曲を作っているんですよ』
――炎代さんの娘! その手があるのか!
「そうですね。よろしくお願いします。ところで」
『何でしょうか?』
「娘さんは、高校生以上でしょうか?」
『はい、高校二年生です』
「そうですか。もし、娘さんからOKをもらえたら、一度、面接に来ていただけないでしょうか。もし、娘さんにも仕事をしていただくのであれば、お金を支払う事も考えなければなりませんので」
『わかりました』
「それでは、娘さんと相談してみてください」
『はい、相談してみます。それでは失礼しました』
炎代は電話を切った。ガチャッ、という音が格樹の耳に入った。
――炎代さんってパソコン使えないのか……
格樹は、ため息をついたが、その直後、口元に笑みを浮かべた。
――炎代さんの娘は高校生か……どんな娘か楽しみだ。
D社からいくらか離れた所に住宅街があり、その中に一軒の豪邸が建っている。
炎代譲治の邸宅である。
その二階にある一室。夜なので室内には照明が灯っている。
机の上には閉じたノートパソコンと外付けのスピーカーがあり、それらの近くにはスタンドに乗っかったシンセサイザーがある。
本棚には学習参考書、小説、漫画、雑誌等、色々なタイプの本が入っており、背表紙等から全体的に少女っぽい趣が感じられる。
ベッドの上では、パジャマ姿の少女が、寝そべりながらスマホをいじっている。
コンコン!
扉をノックする音が耳に入った少女は、そちらの方に向き直る。
「祐奈、ちょっといいか?」
「いいよ」
扉が開くと、そこから炎代譲治が入ってきた。
「何、お父さん」
「お前を見込んで、頼みたい事があるんだ」
譲治は少女――祐奈――の方を向いて、気恥ずかしそうな、何かを乞うような表情をしている。
「頼み事って?」
「俺が作った曲を音声データというものにして欲しい」
譲治は格樹相手に自分の事を「私」と言っていたが、娘相手の場合は「俺」と言っている。
相手によって一人称を使い分けているのだ。もちろん、これは譲治に限った事ではない。
「音声データ?」
「ディスクリミネーションソフトから、ゲームに使う音楽の作曲をお願いされているんだけど、どうも譜面ではなく、音声データというものが欲しいらしくて……」
「なるほど。それで、何曲作って欲しいと言われているの?」
「はっきりとした数は言われていないんだけど、少なくとも数十曲くらいは作って欲しいと言われている」
「数十曲!? そんなに!?」
「やってみるしかないさ。現に水洗君だってドラマやCMの曲を沢山作っているみたいだし。あいつができるのなら俺だって、と思ったんだよ」
「それで、しょっぱなからつまづいたと」
「そんな事言うな! パソコンさえ使えれば、俺だって!」
「それじゃあ、パソコン買って使えるようになるしかないわね。打ち込みや録音に必要な機材くらいなら、教えてあげるわよ」
祐奈は譲治と違い、情報機器に疎くない。
譲治は、学生時代に組んだバンドが売れ出し、収入が安定してきた頃に、現在の妻と結婚した。
その間に生まれた子が、祐奈である。
譲治の妻は音大卒で、現在はピアノの講師をしている。
そのためか、一階の大きな部屋にはグランドピアノがある。
祐奈は母からピアノを習っており、それは幼い頃から続いている。
譲治も、その妻も、情報機器とは縁のない生活を送ってきたが、祐奈から「学校の授業に情報技術という科目があるので、その勉強のためにパソコンが欲しい」と言われたので、パソコンを買った。
最初の頃こそ、祐奈は四苦八苦しながらパソコンのセットアップを行っていたが、基本操作を覚えるまでに時間はかからなかった。
パソコンの操作を覚えた祐奈は、パソコンを使って作曲ができる事を知り、フリーのMIDIシーケンサー――作曲ソフト――を使って作曲を始めるようになった。
もの覚えがいい祐奈は、ネット上から拾ってきたMIDIデータを参考にしながら、母から習った音楽知識を駆使して、いくつもの曲を作り出していった。
その様子を見て感心した譲治は、祐奈の誕生日にDAWソフト――オーディオデータも扱える本格的な作曲ソフト――とシンセサイザー等を買い与えた。
水洗からアドバイスを受けて選んだシンセサイザーは、音のデパートと言っても過言ではないくらいに様々な音が収録されている上、シーケンサー――楽曲を打ち込んで記録する――の機能や、オーディオインターフェースの機能等も備えている優れものである。
祐奈は大いに喜んだ。ピアノの心得がある彼女にとって、六十一という鍵盤の数は不満だったが、それ以外は満足だった。
以降、祐奈は暇さえあれば曲を作っていき、腕も上達していった。
一方、譲治とその妻がパソコンに触れるような事は、ほとんど無かった。
二人は、そっち方面に興味が無かったのである。
音楽について、譲治の場合はギターこそ至高、妻の場合は生楽器こそ至高といった考えが、あるのかもしれない。
祐奈がパソコンの扱いに困っていても、「マニュアルを見て」とか「電話で問い合わせて」等、自分達以外の者に任せっきりだった。
そのため、祐奈が持つ音楽の才能は、親譲りだが、情報機器の扱いに関しては、トンビがタカを生んだように見える。
「……わかった。それと、祐奈」
「何?」
「ディスクリミネーションソフトの椎尾さんが、面接に来て欲しいと言っていた。俺の手伝いをするなら、お金を出してくれるらしい」
お金という言葉が譲治の口から出た途端、祐奈の目が輝きだした。
「お金!? いくらくらい出るの?」
「わからない。そこは聞いてみないと」
「それじゃあ、聞いてみましょう」
お金を貰いながら趣味を楽しめるのなら、こんなにいい事はないだろう、と祐奈は思ったのかもしれない。
こうして、祐奈は譲治と共にD社を訪れる事になった。
一台のSUVが道路を走っている。
3ナンバー車で、車体がそこそこ大きい。
運転席には譲治、助手席には祐奈が座っている。
この車は、譲治が仕事や家族サービスのために買ったものだ。
ラゲッジ容量が大きいので、機材や荷物を沢山詰める事ができる。
4WDである上、最低地上高が高めなので悪路を走破しやすい。そのため、少しくらい雪が積もっていても運転には困らない。遠方での仕事とレジャーのどちらにも使える。
祐奈は学校で授業を終えた後、校門の所で待っていた譲治の車に乗ったので、制服姿である。
譲治が運転する車の行先はD社。そこで祐奈の面接が控えている。
車で行けばD社までたいして時間はかからない。
譲治の視界に四階建ての建物が入ってきた。
二人が乗った車は、そろそろD社に到着する。