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闊歩するドッペルゲンガー

 十一月初日。勤務表の締日である十月末日の次の日。

 下総は三階にある女子便所の掃除をしている。

 慣れているのか、彼女は表情を変える事なく水撒きやモップ掛け等の作業を進めている。

 勤務表の改ざんを拒む彼女は、勤務表の締日翌日――翌日が休日なら次の営業日――になると、必ず女子便所の掃除をさせられる。

 勤務表の改ざんは、相変わらず象蓑部長がやっている。

 勤務表の改ざんが悪事である事は、象蓑もわかっている。

 彼女が手を付けないから、象蓑が手を付け、悪役を演じている。

 手を汚さない自分は卑怯者ではないか、と彼女は考えた事がある。

 だが、悪事には手を染めたくないし、誰にも手を染めて欲しくない。

 だから、彼女は拒み続けているし、部長も拒否すべきだと考えている。

 内部告発も考えたが、これでプロジェクトが台無しになったら、スタッフ達はどう思うか。

 スタッフ達は一枚岩ではないだろう。様々な考え方があり、中には、プロジェクトをやり遂げて、立派な製品を送り出したい、と考えている者がいるかもしれない。

 今まで残業代の不支払いについて動きが無い事を考えると、まだそういう時期ではないのかもしれない。

「大丈夫かしら、紺倉さんと須分くんたち」

 モップ掛けをする彼女の口から独り言が漏れた。


 女子便所の扉が開き、そこから下総が出てくる。掃除を終えたのだ。

 廊下では須分がうつろな表情をしながら突っ立っている。

 彼の顔は青白く、頬はこけ、口の周りにはうっすらと髭が生えている。

 彼は昨日から帰宅していない。徹夜で仕事をしていた。

 そんな彼は口をぼそぼそと動かしながら、誰かと話しているようだ。

「須分くん!?」

 彼の様子を見た下総は、驚いたような表情になった。


「怒られてでもいいから、今日はもう上がった方がいいと思うよ」

 須分と向かい合っている男が、須分に忠告した。

 男は須分と同じ服を着ており、体つきも須分と同じ。顔立ちもそっくりな上、髪型や顔色まで一緒である。

「それはできないよ。鞭岡さんに怒られるだけじゃない、みんなにも迷惑がかかる」

 須分が男に向かって言った。

「馬鹿だな君は。悪いのは君の上司達の方じゃないか。明らかに過重労働だし。それ以外にも請負を直接こき使ったり、残業代の九割を払わなかったりと、法律に反する事をいくつもやっている。この間、CG担当者打ち合わせの時、引戸さんが『目立つところ以外は手を抜く事を検討しています』って言っていたし、君もどこかで手を抜いたっていいと思うよ」

「引戸さんが!?」

 須分は嫌な事を思い出した。

 以前、CG担当者達が打ち合わせでオフィスに不在の時、疲労や睡眠不足からか、思わずうとうととしてしまったのだ。

 その時に、引戸がそんな事を言っている夢を見た(・・・・)

 その直後、鞭岡から「居眠りするな! 仕事サボってんじゃねーぞ!」と怒鳴られた。

「どうやら嫌な事を思い出したようだな。それはさておき、引戸さんはクビを覚悟で言っているけど、君にもそれくらいの度胸があっていいんじゃないかな。引戸さんの考える通り、この会社の将来は明るくないだろうし」

「言う事は簡単だけどさ、そうなろうとするのは難しいよ。鞭岡さんは怖いけど、クビはもっと怖い。それに僕は、この会社のゲームが好きだ。だから、頑張って就職活動して、ここに就職した」

「知っているよ。僕は君だし。それで、どうなんだ?」

「だから、君の言うようにはできない」

「……そうか、わかったよ。君がどうなっても、僕は知らないよ。じゃあな」

 男は直立したまま須分の方に動いて行くと、すうっと須分に吸い込まれるようにして消えてしまった。


 須分はオフィスに向かって歩き始める。その足取りは、ふらふらとしている。

 下総は須分に駆け寄り、彼の腕を掴む。

「須分くん!」

「何、下総さん」

「今の、何だったの? 誰かと話していたみたいだけど」

「……独り言(・・・)

「独り言って……」

 須分を見ていた下総は、彼が独り言を言っているようには見えなかった。

 誰かと会話しているように見えていた。

 その誰かは須分とうり二つに見えた。

「それじゃ、下総さん。僕は仕事があるから」

 須分は急いでオフィスに戻ろうとするが、下総は手を離さない。

「離してくれない?」

「だめよ! あなたの顔、真っ青じゃない! とても大丈夫には見えないわ。今すぐ帰るべきよ! あなたと話していた人(・・・・・・・・・・)のアドバイス通りにね。死んでからでは遅いのよ!」

 下総は泣きそうな顔になりながら強い口調で言った。だが……

「先程の話を聞いていたのなら、わかるだろ。みんなに迷惑をかけるわけにはいかないんだ。紺倉さんも、そしてみんなも頑張っている。だから……」

「……わかったわ」

 下総は須分の腕から手を離した。

 須分はオフィスに向かって急いで歩いていく。

「絶対に……無茶しないで」

 下総は須分の後ろ姿をじっと見つめていた。



 ――ここはどこだ? あれは川鳩君?

 そこには着席している川鳩がいる。

 ――どうやら新しい勤務先で仕事しているようだな。

 デスクの上には、デスクトップパソコンがあり、四角い形をした機械と接続されている。

 川鳩はパソコンを操作して電源を切る。

 デスク上にある筆記用具を鞄の中にしまい、席から立ち上がる。

「お先に失礼します」

「お疲れ様でした」

 川鳩が帰りの挨拶を済ませると、周囲はそれに応じて挨拶を返した。

 周囲にいる人間のデスク上にも同様にデスクトップパソコンがあり、川鳩のものと同じように四角い形をした機械と接続されているものもある。

 室内にある時計を見ると、午後六時半を過ぎたところである。

 ――もう帰るのか。いいなあ。



 ――ここはどこだ? 更衣室みたいだが。

 辺りを見回すと、ロッカーがいくつもある。

 部屋の端にある扉が開くと、そこから髪を金色に染めた女性が入ってきた。

 化粧が濃く、派手でケバい印象があるが、美人である。

 彼女は数あるロッカーの内、一つの前に来ると、そこで上着を脱いでロッカーの中に入れた。

 そして、ブラウスのボタンを外していく。

 ――おおっ! これは!

 彼女がブラウスを脱ぐと、上半身はブラジャーだけになった。

 レースの上質そうなブラジャーである。

 ――結構、いい胸してる。

 彼女はスカートを脱ぎ、更にストッキングも脱ぐ。

 下半身はパンツのみとなった。

 上半身のブラジャーとお似合いのレースのパンツである。

 ――た、たまらん!

 彼女はロッカーの中から、赤いミニスカートワンピースを取り出し、それを着る。

 見事にフィットしていて、均整の取れた体がしっかりと強調されている。

 ――こうして見ると、いいケツしてるなー。

 再び扉が開き、そこから別の女性が入ってきた。

 髪を茶色く染めているところ以外は、たった今着替えていた女性と似たり寄ったりである。

 ――また、ねーちゃんが入ってきた。

「こんばんはー、クミ」

 ――今着替えてた娘はクミと言うのか。

「ミソラもこんばんはー」

 ――来たばかりの娘はミソラか。

 ミソラはクミの隣に行き、そこで着替え始める。

 上着を脱いでロッカーに入れ、ブラウスも脱ぐ。

 ――巨乳だな、この娘。クミという娘よりも更にデカい。

 また扉が開き、そこから二人の女性が入ってきて「クミ、ミソラ、こんばんはー」と言って挨拶すると、クミとミソラは「ナナコ、ヒマワリ、こんばんはー」と言って挨拶を返した。

 ――今日は、乳、尻、ふともも祭りだな♪



 D社二階にある営業部のオフィス。

 オフィス内には、総務部と同様に複数のデスクをくっつけた島が一つだけある。

 そこに、デスクトップパソコンのディスプレイと向き合いながら作業する者が四名。

 しかし、彼らは営業部の者ではない。

 現在、営業部は企画開発部程忙しくないので、皆、とっくに帰宅している。

 今、営業部にいる彼らは、N社の下請けとしてD社に常駐する事になったC社のスタッフ――大半は外部からの派遣だが――である。

 その内の一人は、リーダーの日没寺である。

 彼らは企画開発部からの業務を担っているのだが、スペースが足りないので、ここで作業している。

 企画開発部にいるスタッフと随時連絡を取らなければならないので、彼らはチャットツールを使っている。

 チャットツールには、鞭岡や石窓達からのメッセージが、次々と入ってくる。

『徹夜明けだからといって、すぐに帰るな』

『近日中にベータ版を完成させなければならないから、それまでにデバッグも含めて終わらせるように』

 ――このようなメッセージを見る度にプレッシャーを感じる。

 納期までそう遠くはない。急ピッチで進めたいが、徹夜で仕事してきたので、皆、極端に疲れている。

 日没寺も、うとうととしている。今にも夢の世界に入っていきそうだ。



 ――ここはどこだ? 誰かの家みたいだが。

 前後には壁があり、その間隔は短い。上は天井、下は床。空間は左右にまっすぐのびている。

 廊下のようだ。

 壁も床も清潔な印象を受ける。この家の持ち主は、それなりに裕福なのだろう。

 前方に向かうように背景がスクロールする。

 壁が迫ってきたが、衝突して止まるような事はなく、すり抜けながら、そのまま前方に進む。

 部屋に出た。見回すとオーディオ機材らしきものが散らかっている。

 部屋の中には、楽器らしきものを弾きながら何かの作業をしている男性がいる。

 ――炎代譲治!? テレビやCDジャケットで見た事はあるが……そういえば、この人もプロジェクトに携わっているんだっけか。

 彼はノートパソコンと向かい合いながら、演奏している。

 演奏を止め、ノートパソコンを操作すると、今しがた演奏したものにアンサンブル演奏が加わり、より豪奢ごうしゃな形で再生される。

 ――凄いな。かっこいいな。

 背景が別方向にスクロールし、先程と同様、壁を無視するかのようにすり抜ける。


 別の部屋に出た。部屋の中央にはグランドピアノがあり、一人の女性が椅子に座りながら演奏している。

 女性の年齢は、譲治とそんなに変わらないくらい。顔立ちは整っており、なかなかの美人である。

 ――奥さんかな? 綺麗な人だ。

 ピアノから流れる音の数々も美しい。そのまま聴いていると心が洗われるようだ。

 美しいピアノ演奏をBGMに背景がスクロールする。


 壁をすり抜け、別の場所に出た。

 ――ここは……風呂場!?

 床にはタイルが敷き詰められている。近くには大きな浴槽があり、壁の上方には換気扇がある。

 浴槽には誰も入っていないが、風呂場の中には湯気が立ち込めている。

 湯気の中に誰かいるようだ。

 ――こ、これは……!

 高校生くらいと思われる少女が、一糸まとわぬ姿でシャワーを浴びている。

 しかも可愛らしい顔をしている。

 ――もしかして、炎代譲治の娘!? 美少女だな。

 胸は特別大きいわけではないが、小さいわけでもない。そこそこの大きさで、形が良く、美しい曲線を描いている。

 ――美乳だ。見ていると鼻血が出そうだ……

 腹の辺りは、やや細め。

 ――なかなかのプロポーションだな。更に下は……

 背景が急にスクロールし始める。美少女の姿が高速で遠のいていく。

 ――ああ! いいところだったのに!

 壁をすり抜け、外に出る。やがて家の全貌が現れる。

 ――こんな豪邸だったのか。予想はしてたけど。

 その豪邸も、どんどん遠のいていった。



「こらーっ! 居眠りしてんじゃねーぞ!」

 鞭岡の怒鳴り声が響くと、重坂と黒伏は体をビクッと震わせた。

「あ……」

 重坂が眠たそうな声を上げる。

「あ、じゃねえよ! さっさと仕事しろ!」

 鞭岡が重坂にむかって怒鳴った。

「はーい、すいませーん」

 重坂が返事をしたが、それは緊張感が感じられないものだった。

「黒伏さんも!」

 年上だからか、鞭岡はさん付けで黒伏の事を呼ぶが、それ以外の接し方は、須分や重坂を相手にする時とあまり変わらない。

「わかりましたー」

 重坂と同じく緊張感のない返事をした。

「下請けの低能どもが……いや、下請けへの派遣かな? どっちにしろ、低能だ」

 鞭岡は、ため息をつきながら、ぶつぶつとぼやいた。

 それは重坂達の耳に入ったが、彼らは、あまり気にしていないようである。


「黒伏さん」

「何でしょうか」

「先程、変な夢を見ていましたよ」

「どんな夢ですか」

「川鳩君が新しい職場で仕事を終えて帰宅する。ただそれだけの夢なんですけど、やけにリアルなんです」

「そうですか。僕なんか、ケバい美女四人が更衣室で着替える夢を見ていましたよ。しかも、やたらと鮮明なもんだから、たまりませんよ」

 黒伏は楽しそうな表情になって語った。少し前まで青白かった顔は、赤みを帯びている。

「羨ましいですね。私もそんな夢、見たいですよ」

 重坂は黒伏に羨望のまなざしを向けた。

「お前ら! いい加減にしろ!」

「はーい」

 再び怒鳴った鞭岡に対し、二人は同時に緊張感のない返事をした。

 鞭岡から発せられる怒りのオーラを背中で感じ取っても、どこ吹く風である。


 この頃、重坂と黒伏は、須分とは違い、鞭岡の事を恐れていなかった。

 怒られるのに慣れたという事もあるが、理由は他にもある。

 二人共、今月末で解約となる。

 仕事の出来が悪いからではない、勤務態度が悪いからでもない。

 プロジェクトが終了するから、仕事がなくなる。それだけの理由である。

 派遣や請負にとっては、珍しい事ではない。

 円満終了なので、仕事を完遂したという名誉な事と捉える事もできる。

 だが、いずれにしろ今月末を過ぎたら、ここからいなくなるのだ。

 重坂と黒伏のどちらも、二度とこんな所で働きたくないという思いを抱えている。

 二人を含む従業員達に対するきつい仕打ちと違法行為。

 そんなD社に加担するN社も、そのN社に加担し、結果としてD社にも加担する事になっているT社、C社、K社も同罪だ。

 事実上の顧客であるD社を怒らせ、二度とそこで働けなくなったところで、大切なものを失うわけではない。むしろ遠ざけたいとすら、二人は考えている。

 このような考え方をする人間は、重坂と黒伏だけではなく、他にもいる事は、想像に難くない。

 システム開発に携わる人間は、D社正社員である須分と石窓のようなN社正社員以外、鞭岡の事を恐れなくなっていた。

 いや、恐れられなくなった者は、鞭岡だけではない。

 今回のプロジェクトの元凶であると言われる椎尾親子もまた、恐れられなくなった。

 椎尾親子や鞭岡の事を恐れていない者――開発に携わる者の大半――は、今月末で解約予定である。



 営業部のオフィスでは、日没寺が鼻の下を伸ばしながらにやついている。

「さっきの夢、エロかったな……炎代譲治さんの娘らしき可愛い女の子が、シャワーを浴びていて……しかも綺麗なオッパイで……」

 うわごとのようにぶつぶつと言う日没寺を見た周囲のスタッフから、「大丈夫か? 日没寺さん」という言葉が、発せられるが、日没寺の耳には届いていない。



 徹夜明けにもかかわらず、終電近くまで仕事をさせられた企画開発部関係者達。

 翌日、遅刻する者が続出した。

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