揺れる心とハンドル
「クラッチ踏んで、ゆっくり…そう、そう。で、アクセルを少しだけ…!」
蓮の指導のもと、紬はキャンピングカーの運転席に座っていた。緊張で肩に力が入りすぎている。エンジンが唸り、車体がぎこちなく前に進む。
「うわ、でかい…これ、ほんとに私が運転してるの?」
「してる。まあ、まだ命預けるには早いけどな」
紬はよーし!と気合を入れてハンドルを握り直した。窓の外には、荒れ果てた街並み。倒れた電柱、焼け焦げた車、そして、ゆっくりと徘徊するゾンビたち。
「全部壊れてるけど…、空だけは綺麗」
蓮は助手席で黙って外を見ていた。紬がぽつりと続ける。
「落ち着いたら、両親を火葬したいな。ちゃんとお墓も作って。せめて形だけでもって」
「…そうか」
「蓮は、将来の夢とかある?」
しばらく沈黙が続いた。やがて、蓮は静かに答えた。
「今は…ゆっくり生きていければ、それでいい。夢とか思い付かないな」
紬はその言葉に少しだけ寂しさを感じたが、同時に、蓮の現実的な強さにも惹かれていた。
そのとき、遠くから叫び声が聞こえた。
「助けてくれ!誰か…!」
ゾンビに追われる男性が血まみれで、足を引きずりながら、キャンピングカーに向かって手を振っている。
紬はブレーキを踏み、車を止めた。
「蓮、あの人…!」
「ダメだ」
「でも…!」
「これから先、全員を助けてたら俺たちが死ぬ。あいつを助けたら、次も、また次もってなる。…それじゃ、終わりだ」
紬は唇を噛んだ。目の前で男が転び、ゾンビが迫っていく。
「…わかってる。…わかってるけど…」
紬はもう一度ハンドルを握り直し、車をゆっくりと動かした。男の叫びはやがて遠ざかり、ゾンビの唸り声だけが耳に残った。
車内は静かだった。
蓮は何も言わなかった。ただ、震える彼女の肩にそっと手を置いた。
「今って…静岡くらいかな?」
ゾンビの姿はまばらで、ここ数日は人間にもほとんど出会っていない。
「静岡って、やっぱりお茶だよね。あと、うなぎパイとか…あ、さわやかのハンバーグも有名だっけ?」
「さわやかは浜松だな。行ってみるか?」
「それも良いけど…。いや、今はお好み焼きの気分!」
紬が笑いながら言うと、蓮は少し驚いたように眉を上げた。
「大阪か。…遠いぞ」
「でも行ってみたい。お好み焼き屋さんで、鉄板囲んで、ジュウジュウ焼いて…」
紬は目を輝かせながら、あのヘラが良いんだよねー!と楽しそうに話す。
蓮はしばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。
「目的もないしな。お好み焼き、食べに行くか」
「えっ、ほんとに?」
「冗談じゃない。西へ向かう理由ができた」
紬は嬉しそうにハンドルを握り直した。キャンピングカーは静岡の山間を抜け、ゆっくりと西へ向かって走り出す。ラジオはもう何も流れていないけれど、車内には二人の会話と、時折聞こえるエンジン音だけが響いていた。
「大阪って、どんな感じなんだろうね。人、いるかな」
「わからん。でも、鉄板の上でお好み焼きが焼ける音くらいは、まだ残ってるかもしれない」
紬はその言葉に、少しだけ希望を感じた。




