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脂肪転移の魔術師 完全なハズレスキルが最強の錬金術スキルでした  作者: レモンティー


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第五十八話 ハズレスキルだった俺は、今日も工房の扉を開けます

春が来た。

王都の通りには新しい花が飾られ、工房の窓からは柔らかな風が入ってくる。

「マリク! 起きてる!?」

リオの声が響いた。

「起きてる」

「じゃあ、早く! 今日は大事な日なんだから!」

「いつも大事な日だろ」

「今日は特別なの!」

マリクは笑いながら研究帳を閉じた。

今日は王都冒険者ギルドの新しい相談窓口が開設される日だった。

スキル鑑定を受けた若者が、自分の能力について相談できる場所。

工房の仕事とは別に、マリクも助言役として協力することになっている。

ただし、毎日通うわけではない。

工房の予約を優先し、月に数回だけ顔を出す。

それがマリクの出した条件だった。

「相変わらず、何でも断るんですね」

エルナが笑った。

「全部引き受けたら、全部中途半端になるからな」

「ようやく覚えましたね」

「昔から分かってたつもりなんだが」

「つもり、です」

リオが吹き出した。

朝食の後、マリクは工房を一回りした。

カインは施術室の寝台を点検している。

ミアは休憩室の窓を開け、椅子を並べていた。

エルナは予約帳と研究の予定表を照らし合わせている。

ハロルドからは、共同研究の経過報告が届いていた。

施術の安全条件は、まだ調べ続けている。

脂肪転移で何でも治せるようになったわけではない。

研究は進んだが、分からないことも増えた。

それでも、以前よりできることがある。

危険を見分けるための記録。

施術を断るための基準。

必要なら医師へつなぐ仕組み。

料金を払えない人が相談できる制度。

そして、術師一人の思いつきで人の体を変えないための約束。

マリクは研究室の壁を見た。

『できることを増やす前に、してはならないことを確かめよ』

古代の研究者が残した言葉だ。

その下には、自分で書いた一行がある。

『一人で決めず、必要な人と考える』

「……悪くないな」

「何が?」

リオが顔を出した。

「この工房だよ」

「今さら?」

「ああ。今さらだ」

リオは少し笑い、隣に並んだ。

「私、ここに来たころは、こんなに人が増えると思ってなかった」

「俺もだ」

「マリクが有名になるとも思わなかった」

「それは余計だ」

「だって、最初はお客さんも少なかったし」

「……そうだったな」

最初の施術を引き受けた日の緊張。

うまく説明できず、何度も言葉を探したこと。

自分の能力を恥ずかしく思っていた時間。

思い出せば、どれも遠い昔のようだった。

だが、忘れたくはなかった。

ギルドへ向かう途中、マリクは広場で見覚えのある三人を見かけた。

ガレス、バルト、ノエル。

かつて自分を追放したパーティーだった。

三人は依頼掲示板の前で話していた。

ガレスが先に気づいた。

「……マリク」

「ああ。久しぶりだな」

「元気そうだ」

「そっちも」

バルトは気まずそうに視線を逸らした。

ノエルが小さく頭を下げる。

「工房、順調だって聞いたわ」

「おかげさまで」

しばらく沈黙があった。

やがてガレスが言った。

「……あのときは、本当に悪かった」

マリクは頷いた。

「謝罪は前にも聞いたよ」

責めるためではなかった。

何度謝られても、失った日々が戻るわけではない。

ただ、今はそれを埋め合わせてもらわなくても歩ける。

「そうだったな」

ガレスは苦笑した。

「もう一度、言いたかっただけだ」

「分かった」

マリクは答えた。

「俺も、今は前を向いてる」

「……そうか」

ガレスは静かに笑った。

「俺たちも、そうするよ」

別れ際、バルトが小さな声で言った。

「……工房の仕事、立派だと思う」

マリクは振り返った。

「ありがとう」

それだけだった。

戻ってこいとも、戻ってやるとも言わない。

もう、過去の答え合わせをする必要はなかった。

ギルドの新しい相談室には、十数人の若者が集まっていた。

壁には大きな文字で書かれている。

『能力の価値は、一度の鑑定では決まりません』

マリクはその前で足を止めた。

「……いい言葉だな」

ギルド長が近づいてきた。

「お前の言葉を参考にした」

「俺、そんな立派なこと言いましたっけ」

「似たようなことを何度も言っていたぞ」

ギルド長は笑った。

「金貨千枚でも雇えなかった男が、月に数回は無償で助言に来るとはな」

「必要な仕事だと思ったからです」

「分かっている」

ギルド長は頷いた。

「だから、こちらも相談員を育てる。お前一人に任せきりにはしない」

「それなら安心です」

相談会が始まった。

最初の少年は、小さな声で自分のスキル名を告げた。

次の少女は、使い道が分からないと泣きそうになった。

マリクは一人ずつ話を聞いた。

何ができるのか。

何ができないのか。

何をしたいのか。

すぐに答えが出ないこともあった。

そんなときは、答えを急がなかった。


昼過ぎ、以前工房を訪れたトビアスが、父親と一緒に顔を出した。

「マリクさん!」

「おお、久しぶり」

少年は帳面を差し出した。

微温調整の実験記録が、細かな字で埋まっていた。

「温めるより、冷ます方が得意みたいです」

「そうか」

「でも、まだ何に使えるかは分かりません」

「十分進歩してるよ」

マリクは頷いた。

「できることが一つ、はっきりした」

トビアスは照れくさそうに笑った。

「また調べます」

「ああ。無理せずな」

相談会が終わるころには、外は夕焼けに染まっていた。

ギルド長が尋ねた。

「どうだ、マリク。今日の成果は?」

マリクは少し考えた。

「……まだ、何も完成していません」

「ほう」

「でも、誰も『役立たずだから帰れ』とは言われませんでした」

ギルド長はしばらく黙った。

そして、ゆっくり頷いた。

「それなら、上出来だ」

工房へ戻ると、リオが入口で待っていた。

「おかえり!」

「ただいま」

「どうだった?」

「忙しかった」

「うちと同じだね」

「そうだな」

中からエルナの声がした。

「マリクさん。明日の予約確認をお願いします」

カインが続ける。

「施術室の点検、終わってます!」

ミアも顔を出した。

「休憩室も準備できました!」

マリクは笑った。

「分かった。今行く」

リオが横で言った。

「……ねえ、マリク」

「何だ?」

「今、幸せ?」

あまりに唐突な質問だった。

マリクは少し驚き、工房の中を見た。

忙しそうに働く仲間。

きれいに整えられた施術室。

書き込みだらけの研究帳。

相談を待つ人たちの予約票。

何一つ、最初から手に入っていたものではない。

「……ああ」

マリクは答えた。

「幸せだよ」

リオは満足そうに笑った。

「なら、よかった」


翌朝。

マリクはいつもどおり、工房の扉を開けた。

春の風が頬を撫でる。

最初の客が、少し緊張した顔で立っていた。

「……ここが、脂肪転移の工房ですか?」

「はい」

マリクは笑顔で答えた。

「どうぞ。まずは、お話を聞かせてください」

客の肩から、ほんの少し力が抜けた。

マリクは急いで施術の説明を始めなかった。

まず、相手が何を望んでいるのかを知りたかった。

かつて、誰にも必要とされないと思っていた力。

追放された日には、明日をどう生きるかさえ分からなかった。

その力で世界を一度に変えたわけではない。

誰もが幸せになる魔法を見つけたわけでもない。

ただ、一人の話を聞いた。

できることを探した。

できないことを認めた。

その積み重ねが、いつの間にか居場所になっていた。

マリクは客を迎え入れ、いつもの椅子を勧めた。

今日もまた、新しい仕事が始まる。

――ハズレスキルだった俺は、もう自分の価値を誰かに決めてもらわない。

――俺の人生は、俺が選ぶ。

【完】

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