第1話 「“いい人だよね”の続きが、僕は怖かった」
「田中さんって、本当にいい人ですよね」
そう言われた瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。
たぶんそれは、褒め言葉のはずなのに。
僕はその続きを、もう知っていたからだ。
――いい人、だけど。
その人といると、なぜか安心した。
理由はうまく説明できない。
話が特別おもしろいわけでもないし、価値観がぴったり合うわけでもない。
それでも、隣に座っているだけで、少し呼吸が楽になる。
たぶん、それが「好き」なんだと思っていた。
結衣は、三つ下の後輩だった。
春に入社してきたばかりで、まだ少しぎこちない敬語と、遠慮がちな笑い方をする。
最初は仕事を教えるだけの関係だった。
それが、いつの間にか昼休みに一緒にコンビニへ行き、気づけば向かい合わせに座っているのが当たり前になっていた。
「田中さんといると、なんか落ち着きます」
紙コップのコーヒーを両手で持ちながら、結衣がそう言った。
僕は少し照れながら、「それはよかった」とだけ答えた。
本当はもう少し、何か返したかった気がする。
でも、変に踏み込んで、この空気が壊れるのが怖かった。
優しいね、と言われることには慣れていた。
昔からそうだった。
空気を読むのが得意で、相手が嫌がりそうなことは避ける。
頼まれたことは、なるべく断らない。
多少無理をしても、相手に合わせる。
そうしていれば、関係はうまくいくと思っていた。
実際、大きなトラブルはなかった。
友人関係も、職場も、それなりに円滑だ。
でも――
恋愛だけは、なぜかうまくいかなかった。
思い返せば、終わりはいつも同じだった。
「田中くんって、本当にいい人だよね」
そのあとに少しだけ間があって、
「でも、ごめんね」
と続く。
いい人。
それは、誰も傷つけない言葉で、誰も責めない別れ方だった。
でも同時に、それ以上進めないという宣告でもあった。
結衣といる時間は、心地よかった。
仕事の話をして、たまに雑談をして、どうでもいいことで笑う。
無理に盛り上げる必要もないし、沈黙も気まずくない。
それが、安心だった。
けれど、その安心の中に、わずかな違和感が混じっていることに、僕は気づいていた。
結衣はときどき、スマホを見て少しだけ表情を曇らせる。
その理由を、僕は聞かなかった。
聞いてしまえば、この関係が壊れる気がしたからだ。
「田中さんって、なんでも受け入れてくれますよね」
そう言われたとき、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
でも、それを言葉にすることができなかった。
受け入れることは、いいことのはずだ。
相手を否定しないことは、優しさだと思っていた。
だから、そのままでいいと、自分に言い聞かせた。
帰り道、夜のオフィス街を一人で歩く。
信号待ちのガラスに映る自分は、どこか輪郭がぼやけて見えた。
今日の会話、あれでよかったのか。
本当はもう少し、違うことを言いたかった気もする。
でも、あの場でそれを言ったら、何かが変わっていたかもしれない。
そう思うと、何も言えなかった自分を、また正当化した。
たぶん、僕は間違っていない。
相手に合わせて、気を遣って、関係を壊さないようにする。
それは、大人として当たり前のことだ。
それでも――
なぜか、満たされない。
同じ場所を、ずっと回り続けているような感覚がある。
その正体を、僕はまだ知らなかった。
ただ一つだけ、ぼんやりと思っていた。
この「安心」は、本当に彼女のものなんだろうか。
それとも――
僕が、何かを失わないために作り出したものなんだろうか。
答えは出ないまま、
また明日も、同じ時間が繰り返される。
好きの正体を知らないまま、
僕たちは、恋をしていた。
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