第 2 章 追放の宣告
ぎこちない朝だった。
廃教会のステンドグラスの隙間から、薄い墨色の朝日が容赦なく差し込んでいる。冷たい石の床から体を起こし、手の中の欠片を確認した。昨晩、握りしめたまま眠ってしまったらしい。欠片はすっかり冷えていて、ただの石くれに戻っていた。
ギルドから正式な通知が届いたのは、それからまもなくのことだ。
使いの少年が震える手で差し出した羊皮紙には、たった二行。本日正午、掲示板にて追放者名簿が公示される——アシュ・クロイツの名が記されていることを、わざわざ紙一枚にして届ける律儀さに、妙な感心が湧いた。
(律儀なこった)
朝の光が黄色から白に変わる頃、俺は街へ向かった。いつもの道なのに、空気が違う。すれ違う商人が視線を逸らし、露天の店主がひそひそと身を寄せ合っている。昨日の査定室の話は、半日も経たずに王都中を駆け巡ったらしい。Fランクの烙印を押された男——そんな噂が尾ひれをつけて一人歩きしている。
ギルドの前に辿り着いたとき、どこかの教会の鐘が正午を打ち鳴らし始めた。
掲示板の周りには、すでに三十人ほどの冒険者たちがたむろしている。野次馬も混じっている。俺の姿を見つけた瞬間、ざわめきが一層膨れ上がった。
「来たぞ、あのFランクだ」
「数値異常ってなんだよ。測れないんじゃなくて、ただのゼロだろ」
「よく恥ずかしげもなく来られるな」
そして——掲示板の前に立つ男。
マティアス。銀縁の眼鏡の奥で、冷たい目が弧を描いている。細面の顔にはいつもの薄ら笑いが貼りつき、両腕を組んだ立ち姿は、見せ物を前にした演出家そのものだった。
「諸君、静粛に」
マティアスが両手を広げ、演説者のように声を張り上げた。ざわめきが潮が引くように収まる。
「本日、我が冒険者ギルドは——Fランク冒険者、アシュ・クロイツの追放を正式に決定した」
掲示板に貼られた羊皮紙を、マティアスが指で叩く。そこには俺の名前と、『数値異常——ランク判定不能』の烙印が記されていた。乱雑な筆跡だ。書いた者の苛立ちがにじんでいる。
「ランク制度は絶対だ。数値で測れない者は、このギルドには存在しないのと同義。Fランクの烙印を押された以上——お前は、無価値だ」
マティアスの声には、事務的な冷淡さだけでなく、確かな愉悦が滲んでいた。貴族が虫けらを見下ろすときの口調——それにそっくりだった。
周囲から笑い声が湧く。拍手をする者もいる。
「Fランクはギルドの恥だ!」
「よく言った、マティアス審査官!」
「追放されて当然だろ、数値も出せないんじゃな!」
マティアスが俺に顔を向ける。銀縁の奥の瞳が、わずかに細められた。言い訳を待っている——懇願を、せめて一言の泣き言を求める目だった。
「言いたいことはあるか?」
俺の喉から出たのは——
「別に」
たった二文字。
自分でも驚くほど平坦な声だった。感情の色が一切乗っていない、剥き出しの事実だけを口にしたような響き。
一瞬の静寂。それから——嘲笑が爆発した。
「聞いたか?『別に』だってよ!」
「開き直りやがった!」
「Fランクの分際で図々しいな!」
マティアスの笑みが、かすかに歪んだ。期待した反応が得られなかった苛立ち——それが冷たい瞳に一瞬だけ走る。だがすぐに表情を立て直し、大げさに肩をすくめてみせた。
「ならば、受け取れ」
差し出された羊皮紙を、俺は黙って受け取った。紙は想像以上に軽かった。これ一枚で、俺のギルドにおける存在は抹消される。たったそれだけの手続きだ。
背を向ける。靴音が石畳に響く。
「二度と来るなよ、Fランク!」
「王都から出ていけ!」
背後から浴びせられる言葉を無視して、ただ真っ直ぐに歩いた。頭の中は空っぽだった。何も考えていない。考えることを、どこかで拒んでいた。
ギルドの重い扉を抜ける直前——小走りの足音が近づいてきた。
「アシュ、さん」
振り返るな——そう思った。それなのに、なぜか体がわずかに止まった。
セリスだった。栗色の髪を後ろで一つにまとめた、ギルド受付の女性。いつも穏やかな表情を浮かべている彼女の顔が、今はくしゃくしゃに歪んでいる。
両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、唇が小刻みに震えている。言葉を探している——そうわかった。でも、見つからない。彼女の喉が何度か上下して、ようやく絞り出したのは——
「ごめん、なさい」
かすれた声だった。目の縁が赤く染まっている。彼女の指の関節が白くなるほど強く握りしめられているのを見て——俺は口を開きかけた。
(お前が謝ることじゃない)
その一言は、喉の奥で止まった。代わりに、胸元の欠片が——どくん、と脈打った。一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、熱が走った。
俺は足を動かした。一歩。もう一歩。
背後で、セリスが何か言いかけて——やめた気配がした。振り返らなかった。ギルドの扉を押し開け、外の光の中へ出る。扉が閉まる重い音が、ずいぶん遠くに聞こえた。
王都の路地裏は、午後の日差しを遮るように狭く曲がりくねっていた。人通りが途絶えたあたりで、ようやく足を止める。
胸元の欠片に手を当てた。布越しでもわかる——熱い。明らかに。昨日よりも、さっきよりも。ずしりと重く、まるで心臓がもう一つあるみたいに鼓動を打っている。
そこで——あの日の記憶が、堰を切ったように溢れ出した。
村が魔物の群れに襲われた夜。
五歳だった俺は、燃え上がる家の前で立ち尽くしていた。空は黒煙に覆われ、人々の悲鳴が木霊している。足が動かない。体が震えるだけの、何の力もない子供だった。
巨大な影が空を遮る。爪が——振り下ろされる。
その瞬間、俺を突き飛ばした影があった。
師だった。
爪は師の背中を深く裂いた。地面に崩れ落ちる音。溢れ出した血が、燃えさかる村の明かりを受けて不気味に光る。どろりとしたそれが石畳を広がっていくのを——俺は、ただ見ていた。
師が手を伸ばした。血に濡れた指が、俺の頬に触れる。
生暖かい。ぬるぬるとしている。鉄の匂いが鼻を突いた。師の手がこんなに冷たくなるなんて、それまで考えたこともなかった。
「お前の、力は——」
師が言葉を紡ごうとした。その背後で、二度目の爪が振り上げられる。それでも師は、不思議なくらい穏やかな顔で——
「——誇るべき、ものだ」
笑った。
次の瞬間——俺の中から、金色の光が溢れ出た。
轟音。すべてを飲み込む白。
光が収まったとき——魔物は消えていた。そして、師も。爆発の中心で、俺はただ立ち尽くしていた。両手から燐光がゆっくりと消えていくのを、呆然と見つめながら。
それ以来——俺はこの力を誰にも見せていない。
見せたら、誰かが傷つく。だから。
欠片を握りしめる。右手に力を込めると、自分のものではないように冷たくなっていく。指の間から——一瞬だけ、金色の光が漏れた。すぐに消え、欠片は再び沈黙に戻る。
(誇るべき力、か)
それで師は死んだ。それで村は滅んだ。誇れと言われても——俺にはできない。
それでも手放せなかった。これだけが、師と俺を繋ぐものだから。
その夜——廃教会に戻った俺の周囲で、奇妙なことが起こり始めた。
最初に気づいたのは、街灯の火だった。窓の外、王都の通りに並ぶ街灯の炎が——一斉に、揺らいだ。風はない。なのに、すべての灯りが同じ方向へ、同じタイミングで傾いた。まるで目に見えない巨大な手が、王都の片隅をそっと撫でたかのように。
次に——猫だ。
路地裏に住みついている野良猫たちが、一匹残らず姿を消した。いつもの夜なら、喧嘩の声や子猫の鳴き声が響いているのに——今は、静寂だけが通りを支配している。さっきまであそこにいた灰色の猫も、塀の上の黒猫も、どこにもいない。低いうなり声を残して、みんなどこかへ走り去った——そんな痕跡だけがあった。
窓辺に立ち、外を眺める。月明かりの下、廃教会の周囲だけ空気が異様に重い。冬でもないのに、息を吸うたびに胸の奥がきしむような圧迫感。欠片は相変わらず脈打っている。それも——最初より、もっと強く。
(なんだ、これは)
そのときだった。
遠くから——古い石畳を踏む足音。
一定の間隔で近づいてくる。迷いのない、真っ直ぐな足取りだ。音は徐々に大きくなり、やがて廃教会の扉の前で——止まった。
欠片の光が、ふっと収まる。まるで息を潜めるように。
「——やはり、ここにいたか」
扉の向こうから、低い声がした。年齢は読めない。老成しているようでいて、若々しい響きも混じっている。
俺は息を呑んだ。この声を——知っているわけがない。初めて聞く声だ。なのに、体の芯が震えている。細胞の一つ一つが、何かを覚えていると言わんばかりに。
「……誰だ」
「警戒するな。私はお前の敵ではない」
扉が、ぎぃ、と音を立てて押し開かれる。月明かりが、細長い影を教会の石床に落とした。影はゆっくりと——一歩、踏み出した。
「——上古の真伝を継ぐ者よ。お前の『力』が、目覚め始めている」




