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怪の二 ヒトベロス

 こっちを向いた黒い影からとっさに目をそらして、美怜の横顔を見つめた。

 目を合わせるのはよくないと、わたしの本能が警鐘を鳴らしたから。

 それでも気になってしまい、目の端でチラチラと視てしまう。


 なんなの、あれ。さっきまであんなの、美怜の足元にいなかった。うん、間違いない。

 写真記憶とかそういう特殊能力はないけど、美怜の足元にあんなのがいたら見逃すわけがない。


 だってあんな、四つん這いになった異常に骨ばった身体に、人の顔が二つ生えてる化け物なんて、記憶に残らないわけがない。

 なんだっけ、いたよなあ、こういうモンスター。昔やったRPGに出てきた。あれは犬だったけど、名前はたしか、そう、ケルベロスだ。

 でもこいつとはだいぶ違う。あっちは犬だからまだ可愛げがあったし、三つ首だった。

 

 でもこいつの顔は人間そっくり。左右対称でまったく同じ顔が並んでいる。造形は人間なんだけど、ところどころが異なる。

 悪趣味な魔法使いに呪いをかけられたような顔をしている。

 目には瞳と白目がなくて、真っ暗でモヤモヤした邪悪な感じのものが詰まってる。瞼から溢れて、目の周りがモヤモヤしてる。これでものが見えているのだろうか。

 鼻は異様にのっぺりして穴は小さい。綿棒を通すのがやっとくらい。

 耳は大きく、水風船みたいにぷっくりした耳たぶの主張が激しい。生意気なくらいの福耳だ。穴からは目と同じく暗黒物質的なものがモクモクと漏れ出している。


 これが血の通った生物だとして、もしかしたら視覚と嗅覚と聴覚はあんまり発達していないのかもしれない。頼むからしていないでくれ。お願いします、視覚と嗅覚と聴覚のない残念な生き物であってください。

 もしくは生まれて五秒で死ぬとかそういう悲しい宿命を背負っていてください。

 肌は全体的に黒ずんでやたらとシミやコブがあって汚い。頭の頂点にだけファサッと生えた髪の毛が見苦しい。視ているだけで生理的な嫌悪感が湧いてくる。


 口は唇の両端が裂けてて、こめかみのあたりまで切れ目が入っている。

 もしかしてあんな位置まで口が開くのだろうか。赤ずきんちゃんのおばあちゃんに化けた狼みたいにグパッと開くのだろうか。

 あっ、フェイスオープンしたのを想像したらちょっと意識が遠のいた。ああ、これが夢で目が覚めたらお布団の中だったらいいのに。

 って、ダメダメ。あんなのの目の前で気絶なんかしちゃったら、なにをされるかわかったもんじゃない。

 絶対に意識を保つんだ。足が震えるくらい怖いけどガンバレ。弱気になるな、御子柴みこしばひかり。

 ああいうのって、恐怖とかに反応してつけ込んでくるって聞いたことあるし、気を強くもちたい。強くもちたいけど、無理。

 ヤツは犬みたいに座って足で首のところをガシガシとかいてる。犬っぽい仕草をしてるだけで異様に怖い。足の柔軟性が気持ち悪い。


 美怜の視ている世界を視たいだなんて思ってしまったことを、わたしはもう後悔していた。

 こんなヤバい感じの化け物を日常的に視ていたなんて思っていなかった。こんなのが毎日、いつでもどこでも視えてしまうなんて、控えめに言って地獄だ。

 だってこんな、えーと、なんて呼ぼう。人間っぽいケルベロスってことでヒトベロスでいいや。一本足りない首はサービスしてやろう。

 ヒトベロスが視える日常なんて、心休まる瞬間がないじゃん。草花は日常を彩ってくれるけど、ヒトベロスは日常を魔界に変えるだけだ。


「よし、お願い終わり。これでスーパーご利益あるかなあ?」


 わたしを見て微笑む美怜の足元で、おみくじを結ぶところにとまったカラスを見ていたヒトベロスもわたしを向いた。

 美怜を真似てか、ちょっと口角が上がってる。それでも親しみは生まれない。微笑みすらも邪悪なヒトベロス。


「う、うん、あるんじゃないかな、ご利益。むちゃくちゃ、あるんじゃないかな」


 なんせおまじないをしてすぐにヒトベロスが視えちゃったくらいだし。出血大サービスのトンデモご利益だ。

 わたしはなるべくヒトベロスを意識しないようにするために、美怜の目をガン見した。


『幽霊とかそういうたぐいのものってねえ、こいつ視えてるな、って気がついたらその人についてきちゃうんだよ。自分の存在に気がついてくれる人って貴重だから。だからもしそういうのが視えても、視えないふりをして自然に振る舞うのが鉄則なんだよ』


 と昔、美怜に言われたのを思い出して、ヒトベロスを無視、視えない、いないものとして扱うことにした。


「なんでそんなに声が上ずってるの、ひかり?なんか顔色も悪いし、だいじょぶ?」


 というか美怜はすごいな、こんなのが視えても平然としているなんて。まるで何事もないかのように、わたしを心配してくれている。

 こんなのは美怜にとっては日常茶飯時、ってことなのかな。さすが昔から視えてる美怜だ、わたしとは踏んできた場数、くぐってきた修羅場が違うのだろう。見習わなくちゃ。

 ダメだダメだ、こんなのでビビってちゃ。美怜がしっかりしてるんだから、わたしもしっかりしなくちゃ。

 しっかり視えないふりに徹しなきゃ。


「うん、だいじょうぶ。ちょっとお腹空いちゃっただけだから。満月焼き食べて帰ろ」


「おっ、いいねえ。あんことカスタード買ってはんぶんこしよ」


「お参りしながらわたしもおんなじこと考えてた」


「もう、お参りの最中に食べ物のこと考えてるなんて。食いしん坊だなあひかりは」


 あははと笑いあって、拝殿にくるりと背を向けてふたり並んで歩き出した。我ながら上手くできたと思う。怖かったけどポーカーフェイスを保てていたはず。グッジョブ、わたし。

 ヒトベロスはおすわりしたまま動かない。

 よかった、そのままそこでずっと狛犬みたいにおすわりしててください。雨の日も風の日も雪の日も台風の日も、そのまま自然の猛威にさらされて風化してください。


 わたしの切なる願いは届かず、ヒトベロスは歩き出した美怜の足元にヘッドスライディングするみたいにズザーっと飛び込んできた。でも土煙とかは上がらないし音もしない。やっぱり実体ってないんだ。

 えっ、というかどうすんの、こういう場合って。


 避けたら視えてるのがバレちゃうけど、いったいどう対処するんだろう。

 美怜はわたしに向かってにこやかに話しつつ、足はヒトベロスの真上。

 み、美怜、まさかあなた、ヒトベロスを踏むの。踏みつけていいものなの、そういうのって。なんてダイタンな子。


「ぎゃん!」


 自然な動作で足を下ろすと、ヒトベロスの背中と重なった足がぐにゃりと歪み、美怜は見事に石畳の上にすっ転んでいた。

 ああ、なるほどなあ。美怜が昔から転びやすかったのって虚弱体質のせいじゃなくて、こういうやつらからのちょっかいのせいだったのか。

 触れるとこういうふうにタタリとか障りみたいなものがあるのかもしれない。たしか霊障って言うんだっけ。

 あれでも、それなら美怜はどうして避けないんだろう。視えてるのなら、避けようはいくらでもあるはずなのに、どうして。

 もしかして、美怜ってほんとは…。いや、そんなバカな。


「いたたあ…」

 

「ちょ、ちょっと、美怜。だいじょうぶ?」


「うん、ありがとひかり。今日はよく転んじゃって恥ずかしいなあ」


 助け起こした美怜の肩に手をおいて引き寄せ、耳元に口を近づけた。

 まさかとは思うけど、確認しなくちゃ。


「ひゃっ、なにひかり。こ、こんな神さまが見てる前で、そんなダイタンな…」


 何を勘違いしているのか、顔を赤らめて手をもじもじさせているのがかわいい。かわいいけど、聞かなきゃ。


「ねえ、美怜。ここって何か変なの、いる?視えてる?」


 小声でささやくと美怜はふぇっと気の抜けた声を上げて、あははと笑ってわたしの肩をバシバシたたいた。


「やだなあ、なに言ってるのひかり。神社とかお寺の境内は神聖なところだから、変なのが入ってこられるわけないじゃん。だいじょぶだいじょぶ、ここは世界で一番安全だよ」


「そ、そうだよね。アハハハハ」


 わたしを安心させるように笑う美怜の足元には、ここにいるよとアピールするようにまとわりつくヒトベロスがいて、わたしの口からは乾いた笑いが漏れた。

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