怪の十三 頼もしかった先輩
さっきトイレで見た蘆屋先輩と今のちょびる発言と線で結ばれてしまい、わたしの頭の中で最低な誤解が生じた。
まさか、そんなわけないでしょ。いつでも冷静沈着、クールガールの蘆屋先輩がそんなわけない。
ちょびるって、わたしがイメージしているものじゃなくて、何かもっと深い意味があるはず。そう、たぶん何か知らない外国語を、わたしが聞き間違えてしまっただけだ。
「あれは私が小学生だったある日のことだ」
遠い目をした蘆屋先輩がふいに語り出した。たぶん、ちょびるに至った経緯を。
どうかわたしの思うちょびるとは違っていてくれ。
「とんでもなく怖いものに遭遇したことがあってな。そのときは授業中で、さり気なくその場を離れたりすることができなかった。虚無僧のような格好をしたそいつは教室中の生徒一人ひとりの前に立ち、手にした錫杖を頭に振り下ろして回っていた」
「えっ、なにそれ。怖すぎじゃないですか」
「震えるほど怖かった。私は教科書を読むふりをしながら、目の端っこで虚無僧の様子を伺った。そのころにはもう、視えると気付かれると厄介なことになると知っていたからな。虚無僧は機械的に生徒たちの頭に錫杖を振り下ろして回っていた。振り下ろされた生徒たちに異変はなく、何もなかったかのように授業を受け続けていた。でも怖いものは怖い」
「痛くはなくても、怖いですね…」
錫杖って要は鉄の棒でしょ。そんなのを頭に振り下ろされるなんてとんでもない。
「怖すぎて私は保健室に逃げ込もうと思った。でも手を挙げようとしたところでひと足早く男子が手を挙げてトイレに立った。すると虚無僧を順番を飛ばしてその男子に迫り、錫杖を振り下ろした」
「あぁー…逃げ場なし…」
「私は震えながら膝の上に手を置いた。シャンシャンと錫杖についた輪が音を立てて、刻一刻と順番が迫ってくる。あと四人、あと三人、恐怖に震えながら待つしかない順番。そのあたりで、私はふと気がついた。パンツが生暖かく、湿っていること」
それは無理もないだろう。小学生の女の子が我慢するには怖過ぎる。
「それでなぜだかひどくリラックスした気持ちになれてな。もう漏らしているんだから何も怖くないやと、迫る錫杖を無の境地で受けることが出来たんだ。悲鳴ひとつ上げず、身じろぎすらせずに」
蘆屋先輩はやけに爽やかな顔を窓の外に向けている。窓の向こうには暮れ始めた空が広がり、遠くの方は茜色に染まってきている。
カラスがアホーアホーと鳴くのが聞こえてきた。
「いいかい、御子柴くん。恐怖体験をしたとき人の自律神経は急激に乱れてその結果、膀胱が収縮し尿が排出される。それは人としてとても自然な反応なんだ。それに逆らわずちょびることが、気持ちを落ち着けて無の状態でいるための秘訣なんだ」
あっ、やっぱりちょびるって、そういうことだったんだ。
蘆屋先輩がさっきトイレでパンツ履き替えてたのって、そういうことだったんだ。
「あっ、もちろん周りにはキチンと気を遣ってちょびっているぞ。この私の相棒とも言える防臭吸水パンツはNASUと日本のメーカーが共同開発したもので、洗って繰り返し使える宇宙飛行士も御用達の品だ。ついでにこの防臭防水袋もメイドインNASUだ」
「NASUの…!?」
蘆屋先輩がバッグから取り出したパンツと袋を受け取ってしげしげと眺めた。NASUと言われると、ダサいとしか思わなかったパンツが途端にすごいものに思えてくる。
よく見るとパンツにも袋にもNASUのロゴが入っててちょっとカッコいい。
「よかったらお近づきのしるしに一枚あげよう。クセになるぞ」
気のせいかな、蘆屋先輩の顔がちょっと赤らんで、ほんのり息が荒くなってるように見える。
「いりません。わたし、ちょびりませんから」
「そうか、欲しくなったらいつでも言ってくれたまえ。替えはいつも何枚か持ってきているから」
残念そうに言って蘆屋先輩はNASUのパンツをバッグにしまった。あのバッグには何枚の未使用のパンツと、使用済みのパンツが眠っているのだろう。
戦々恐々としているとヴヴヴとスマホが震える音がした。
「むっ、いかん。塾の時間だ」
蘆屋先輩はバッグから取り出したスマホを平然と見つめた。あのバッグの中って、当たり前だけどパンツセット以外にも教科書とかノートとかも入ってるんだよな。いや、深く考えまい。
「名残惜しいが今日はこのあたりにしておこう」
「それはしょうがないですね。またお話してください」
よかった。これ以上とんでもない話をされたら、内に秘めていられる自信がなかった。
「うん。すまないが御子柴くん、窓を閉めて鍵もかけてくれるかな」
「はーい」
紅茶やお菓子を片付ける蘆屋先輩に背を向けて、わたしは窓に近づいた。
「ここのところ戸締りにうるさくてな。三階の窓なんてわざわざ鍵までかけなくても、入ってこられるものなんているわけないのにな」
ハハハと笑う蘆屋先輩の声を背中で聞きながら、わたしは窓枠に手をかけて凍りついていた。
窓の外をうろついていた白装束と、ばっちり目が合ってしまっていたから。




