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030 四半期決算

 

カチンッ!

 

分厚いガラスのジョッキがぶつかり合う音が、カジノフロアの天井に響き渡る。

 

「おおーっ! 肉だ肉だ! 食え食えー!」

 

株式会社ダンジョンの社員、準社員たちが、ジョッキのビールを滝のように喉の奥へと流し込んでいる。

 

ルーレットのテーブルには、異世界から仕入れた巨大な肉の丸焼きや、日本のケータリング業者から取り寄せた最高級のA5和牛がこれでもかと並べられていた。

 

株式会社ダンジョンが迎えた、第一期決算の大宴会だ。

 

「……見事なものだな」

 

フロアの隅の壁に背中を預け、紙コップのコーラを飲んでいたハルの隣に、矢良内が歩み寄ってきた。

 

「ヤラさん。お疲れ」

 

「異世界の王との包括契約も無事に締結した。地上からの物流ルートも完全に確立されている。このダンジョンは今や、二つの世界の経済を繋ぐ巨大な心臓だ」

 

矢良内は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、淡々と成果だけを口にして踵を返した。

 

「……ああ、本当に。とんでもないところまで来ちまったな」

 

ハルは紙コップのコーラをあおり、喉の奥で弾ける炭酸の刺激に目を細めた。

 

口の中に広がる安っぽい甘さが、かえって今の現実味のない成功を際立たせている。

 

つい数ヶ月前まで、その日食べる百円の半額弁当すら手の届かない幻だったのだ。

 

それが今や、視界の端から端まで、極上の肉と酒の匂いが充満し、歓声が壁を震わせている。

 

胸の奥からこみ上げてくる熱い塊を、ハルはコーラとともに飲み下した。

 

「マスター。第一期決算、誠におめでとうございます」

 

澄んだ鈴を転がすような声とともに、漆黒の夜会服を纏った銀髪の吸血鬼──パイが、グラスに注がれた赤い液体を掲げた。

 

「ああ、パイも現場監督お疲れ様。その赤いのは、ワイン?」

 

「いえ、第一総合病院から回していただいた、期限切れ間近の輸血パックです。室温に戻すと風味が際立ちます」

 

パイはグラスを揺らし、血の香りを確かめるように目を細めた。

 

「……そ、そうか」

 

「ハル社長。我々現場部門としても、この偉大な区切りに立ち会えたことを誇りに思います」

 

背後から、低いバリトンボイスが響いた。

 

振り返ると、グリーンのスリーピーススーツをビシッと着こなしたオークが、巨大なトレイを片手に立っていた。

 

トレイの上には、綺麗に切り分けられたA5ランク和牛のステーキが、山のように積まれている。

 

「相変わらずスーツが似合ってるね」

 

「恐縮です。本日は祝いの席ゆえ、塩分と脂質の制限は解除し、炭水化物とともに存分に摂取する所存です」

 

オークは優雅な手つきでフォークを操り、分厚い肉の塊を口へと運んだ。

 

「現場の士気も最高潮です。これもすべて、社長が構築されたこの完璧な労働環境の賜物でしょう」

 

パイが輸血パックの血を喉に流し込み、オークに向かって軽くグラスを傾けた。

 

「ええ、パイ殿の緻密なコンクリート配合の指示があればこそ、我々も安心して巨大な鉄骨を組むことができます」

 

オークもまた、肉を飲み込んでからグラスの冷水で乾杯の仕草を返した。

 

ハルは、スリーピーススーツの巨漢オークと、夜会服の吸血鬼が、互いに敬意を払いながら和牛と血液を嗜んでいる光景を見上げる。

 

思わず、声を上げて笑い出した。

 

「あははっ! ボクらは本当に、とんでもない国を作っちゃったな!」

 

ハルが紙コップを掲げると、オークとパイも嬉しそうにグラスを打ち合わせた。

 

ハルは、喧騒に包まれたフロアを改めて見渡した。

 

ゴブが両手でフライドチキンを抱え込んでかじりつき、ミノタウロスが器用な手つきで寿司をつまんでいる。

 

ぽよんっ、と色とりどりのスライムたちが、こぼれたビールの泡を求めて床の上を跳ね回る。

 

ほんの数ヶ月前、財布に百円玉が二枚しかなく、スーパーの半額弁当を奪い合っていた自分。

 

それが今や、これだけの数の従業員を食わせ、二つの世界にまたがる会社を動かしている。

 

ふいに、甘い花のような香りが鼻腔をくすぐった。

 

振り返ると、白いキャミソール姿のリンが、両手でティーカップを持ちながら隣に立っていた。

 

透き通るような白い肌が、魔石ネオンの極彩色の光を反射して柔らかく輝いている。

 

「リンちゃん。どうしたの?」

 

「少し、あちらへ行きませんか? ここは少し、騒がしすぎますの」

 

リンは小さく首を傾げ、上目遣いでハルを見つめる。

 

深い碧色の瞳が、ゆらゆらと揺れていた。

 

「そうかな。リンちゃん、何か話したいことでもあるの?」

 

ハルの優しい問いかけに、リンはこくりと小さく頷いた。

 

「わかった。ちょっと抜け出そうか」

 

ハルはコーラを飲み干し、リンの歩幅に合わせてカジノフロアの喧騒から離れていった。

 

     ◇

 

防音扉を一枚隔てただけで、空気はしんと静まり返った。

 

向かったのは、ダンジョンの最奥にハルが作り上げたVIPルームだ。

 

足が沈み込むほど、敷かれた絨毯の毛足は長い。

 

壁に埋め込まれた水色の魔石が、部屋全体を水の中のような穏やかな光で満たしている。

 

「ふう。やっぱりここが一番落ち着くね」

 

ハルは、革張りの巨大なソファに腰を下ろした。

 

リンはハルの隣に座り、膝の上で両手を小さく握りしめている。

 

いつもは堂々としている彼女の肩が、微かに強張っているように見えた。

 

ハルは、何か真剣な話があるのだと察し、居住まいを正して彼女に向き直った。

 

「あ、そうだ。リンちゃん、ちょっと手出して」

 

ハルが作業着の内ポケットに手を突っ込んだ。

 

「え……? 手、ですか?」

 

リンが戸惑いながら、白く細い両手をハルの前に差し出す。

 

ハルは、その小さな手のひらの上に、一枚の薄いプラスチックのカードを乗せた。

 

漆黒の券面に、鈍く金の文字が光っている。

 

『株式会社ダンジョン 役員専用』と刻印されていた。

 

「これ……」

 

「会社の口座から直接引き落とせるカードだ。限度額は、ウチの会社の口座残高そのままにしてある」

 

ハルは、リンの碧い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

 

「一番最初の面接の時、約束しただろ? 『利益は山分けだ』って。だからこれは、リンちゃんの取り分だ」

 

「ハル……」

 

リンの肩がビクッと跳ねた。

 

彼女は、手のひらに乗せられた黒光りするカードと、ハルの顔を交互に見比べる。

 

「リンちゃんがいなきゃ、ボクは今頃、公園の水道水ですすったモヤシを吐き出しながら野垂れ死んでたよ。ボクの稼いだ全財産は、リンちゃんのものだ」

 

ハルはソファから少し身を乗り出し、ニカッと白い歯を見せて笑った。

 

「ボクは、この会社とダンジョンをもっともっとデカくしたい。異世界も日本も、全部ウチの経済圏に飲み込んでやるんだ。……だからこれからもずっと、ボクの隣にいてくれよな」

 

それは、命の恩人であり、絶対的な信頼を置く相棒への、嘘偽りのない真っ直ぐな言葉だった。

 

だが、その言葉がリンの耳にどう響いたか、恋愛という感情の機微に疎い男には知る由もなかった。

 

リンの頭の中で、異世界の常識が猛烈な熱を持って結びついていく。

 

それは全財産の共有を意味する。

 

そして、これからもずっと隣にいてほしいという真摯な願いが込められている。

 

それは王族や貴族にとって、人生のすべてを預け合うという、最も重く、絶対的な伴侶への誓い──求婚の証明に他ならなかった。

 

リンの碧い瞳に、じわりと熱いものが滲む。

 

胸の奥で、心臓が早鐘のように打ち鳴らされていた。

 

「……ハル」

 

リンは、手のひらの上のカードを両手で包み込むように胸に抱きしめ、花が咲くように柔らかく、そして熱を帯びた笑顔を向けた。

 

「ええ。喜んで、お受けいたしますわ」

 

リンの白い頬が、はっきりと薄紅色に染まっている。

 

「わたくしも……あなたのこと、愛しておりますわ。ハル」

 

甘い吐息とともに紡がれた、ストレートな愛の言葉だった。

 

潤んだ瞳が、ハルを真っ直ぐに射抜く。

 

「え?」

 

ハルは、数秒だけポカンと口を開けた。

 

だが、すぐに顔をほころばせ、心底嬉しそうに目を細める。

 

ハルにとっての『愛』は、底辺のどん底から救い出してくれた恩人であり、命を預け合う絶対的な相棒への、巨大な親愛の情だ。

 

だからこそ、一切の照れも、動揺もなく、真っ直ぐに頷き返した。

 

「おう! ボクも愛してるぜ、リンちゃん! 世界で一番の、最高の相棒だからね!」

 

一点の曇りもなく、堂々と返ってきた言葉だ。

 

リンの胸の奥から、甘い痺れが指先へとじんわり広がっていく。

 

「ええ、そうですわね。最高の、相棒ですわね」

 

リンがそっとソファの上の距離を詰め、ハルの肩に自分の頭を預ける。

 

「お、重いよリンちゃん」

 

ハルは肩の柔らかな重みと甘い香りに少しだけ戸惑いつつも、信頼する相棒のスキンシップを当然のように受け入れ、そのまま天井の水色の光を見上げた。

 

「……これからも二人で、ガッツリ稼ごう!」

 

少しだけ距離のある二人が、それでも確かに互いの体温を感じながら、同じ天井の光を見上げている。

 

リンは、肩口から伝わるハルの体温をじっと感じ取っていた。

 

薄い作業着の布地越しに、彼の規則正しい心音と、微かな汗の匂いが鼻先をくすぐる。

 

トクン、トクン。

 

重なり合う心臓の音を聞きながら、リンは水色の魔石の淡い光を見つめる。

 

どうして自分は、魔力を持たない彼に惹かれているのだろうか。

 

彼と出会った最初の日の記憶が、頭の中に浮かんだ。

 

迷宮の奥底に現れた彼は、飢えと疲労で今にも倒れそうな、ひ弱な人間だった。

 

異世界の常識で言えば、ただの弱い獲物だ。

 

ダンジョンの冷たい土の養分にしかならない存在でしかなかった。

 

だが、彼は違った。

 

血と暴力が支配する迷宮に、彼は誰も見たことがないやり方を持ち込んだ。

 

迷宮に足を踏み入れた人間たちを、罠や魔物で殺さない。

 

眩しい光で迎え入れ、温かい食事と心地よい寝床を与え、人間の欲を刺激する。

 

人間たちは自ら喜んで財布の口を開き、笑いながらこの空間にDPを落としていく。

 

暴力で命を奪うよりも、はるかに効率的で、確実に人間たちを動かしている。

 

誰も血を流さずに世界を飲み込んでいくその大きさに、リンは深く息を呑んだ。

 

そして、彼は誰に対しても平等だった。

 

人間を食い殺す魔物であるミノタウロスやスキュラを、彼は決して恐れない。

 

彼らに黒いタキシードやドレスを着せ、同じ目線で話しかける。

 

種族の違いや魔力の有無など、彼には意味がない。

 

同じ場所で働き、同じように利益を求める仲間として、まっすぐに向き合っていた。

 

「みんなで一緒に稼ごう。そして、うまい飯を食おう」

 

その言葉には、裏表も計算もなかった。

 

ハルという人間は、どんな王侯貴族よりも、どんな勇者よりも、広くて深い器を持っていた。

 

そんな彼が、今、自分に向けている眼差しは真っ直ぐだ。

 

そこには、迷宮の主に対する恐れも、利用しようとする欲もない。

 

彼が差し出したのは、黒いプラスチックカードだった。

 

彼が知恵と汗でかき集めた全権を、迷いなくリンの手のひらに預けてくれたのだ。

 

その事実が耳に届いた時、リンの胸の奥が熱くなった。

 

ただの迷宮の主としてではない。

魔力の供給源としてでもない。

 

この野望を共に歩む相棒として、自分を必要としてくれた。

 

その事実が、リンの全身を温かい喜びで満たしていく。

 

リンはそっと目を閉じ、ハルの肩に深く顔を埋める。

 

彼の体から伝わる鼓動が、自分の心臓の音と重なり合う。

 

この温もりを手放したくない。

 

彼が切り拓く未来の先まで、どこまでも寄り添って歩いていきたい。

 

「ええ。最高の、相棒ですわ」

 

リンは誰にも聞こえないほどの小さな声で呟き、水色の光の中でそっと微笑んだ。

 

二つの世界を股にかける株式会社ダンジョンは、こうして歩み始めた。

 

どこか噛み合っていないようで、ガッチリと噛み合っている二人のビジネスは、まだ始まったばかりだ。

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