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029 王の視察

冷たく湿った土の匂いがする暗い洞窟を抜け、た瞬間。

 

灰色のローブのフードを深く被った王と王女の肌を、快適な涼しい風が撫でた。。

 

「……なんと。ここは本当に、迷宮の地下なのか」

 

王が、ローブの隙間から見えた光景に息を呑み、しわがれた声を漏らす。

 

足元には、ふかふかとした毛足の長い赤い絨毯が敷き詰められている。

ゴツゴツとした岩肌は清潔な白い壁紙で覆い隠され、はるか頭上の天井からは、無数の魔石をガラス管に閉じ込めた極彩色の光が、太陽のように眩しく降り注いでいた。

 

どこからか、軽快で心地よい弦楽器の調べが静かに流れてくる。

 

「お父様、見てくださいませ。あの方たち……」

 

王女が、震える指先を前方に向けた。

 

エントランスの入り口。

そこに立っていたのは、身長三メートルを超える、漆黒の毛並みを持った牛頭の巨人だった。

 

迷宮の奥底で冒険者を血祭りにあげる恐ろしい魔物、ミノタウロス。

 

だが、彼は血塗られた斧を持つ代わりに、シワひとつない漆黒のタキシードを身に纏い、白い手袋をはめた手で銀色のトレイを優雅に掲げていた。

 

「いらっしゃいませ、お客様。長旅、大変お疲れ様でございました」

 

ミノタウロスの太く低い声が、上質な楽器のように鼓膜を震わせる。

 

「当館では、皆様に安全におくつろぎいただくため、武器の持ち込みを固く禁じております。こちらでお預かりいたしますね」

 

彼の隣には、銀色に輝く装甲をメイド服の形に整えた鋼鉄のロボットたちが控え、美しいカーテシーでお辞儀をしている。

 

さらに奥では、漆黒のイブニングドレスを着たスキュラが、六本のタコの触手を滑らかに動かし、客の上着を素早くハンガーへと掛けていた。

 

「……暴力の欠片もない。ただひたすらに、洗練されたおもてなしだ」

 

王は、己の腰に帯びていた護身用の短剣を、自ら進んでミノタウロスのトレイの上へと差し出していた。

 

圧倒的な武力を持つ魔物たちが、一切の殺気を見せずに自分たちを客人として扱っている。

その事実が、王の張り詰めていた警戒心を、春の雪のように静かに溶かしていった。

 

     ◇

 

番号札を受け取った二人は、ロビーを抜け、煌々と光り輝く店舗区画へと足を踏み入れた。

 

「良い匂いですわね……。お腹が空いてしまいそうです」

 

王女が、フードの中で小さく鼻をヒクつかせる。

 

油が弾ける香ばしい音。

甘辛い醤油の匂い。

コーヒーの苦く深い香り。

 

立ち並ぶ飲食店の中で、王の目を引いたのは、オレンジ色の看板を掲げた店のカウンターだった。

 

グリーンのスリーピーススーツをビシッと着こなした、筋骨隆々のオークが座っている。

彼は箸と呼ばれる二本の細い木の棒を太い指で器用に操り、大きなどんぶりから肉と白い穀物を口へと運んでいた。

 

「オークが、あのように衣服を身につけ、道具を使って食事を楽しんでいるだと……?」

 

王の常識では、オークとは知性の低い野蛮な獣であったはずだ。

だが、目の前のオークは食後にナプキンで口元を拭い、隣に座る日本の作業着姿の男と、何やら熱心に話し込んでいる。

 

「その第三区画の配管ですが、強度が少し足りません。我々のアースゴーレムを二体回しますので、基礎のセメントを少し厚めに打ってください」

 

「助かるよ、オークさん。あんたの現場の仕切りは本当に正確で早いや。今度、上のコンビニで高い方のコーヒー奢るよ」

 

種族も出身も違う者同士が、対等な立場で仕事の打ち合わせをし、笑い合っている。

 

「……魔物たちを奴隷としてこき使っているわけではないのか。彼らは自らの意志と誇りを持って、ここで働いている」

 

王が感嘆の息を漏らした、その時だった。

 

「あのトラクターという機械の図面、本当に素晴らしい! これがあれば、我が領地の麦の収穫量は現在の三倍に跳ね上がるぞ!」

 

少し離れた丸テーブルから、よく通る若い男の声が聞こえてきた。

 

「あの者は……!」

 

王は思わず声を上げそうになり、慌てて自らの口を両手で塞いだ。

 

テーブルの席に座っていたのは、紛れもなく、自国の貴族だった。

 

彼は、二枚の丸いパンの間に肉が挟まれた料理──ハンバーガーを大きく口に頬張りながら、目の前に座る日本のエリート官僚と、紙の資料を突き合わせて熱弁を振るっている。

 

「ええ。その代わり、貴殿の母国で産出される素材を安定的にこちらへ輸出していただきたい。こちらの農業用ドローンと組み合わせれば、無人での広域農薬散布システムが完成します。互いの国の農業に、革命が起きますよ」

 

「素晴らしい! すぐにでも本国の王に親書を送ろう!」

 

貴族は、甘い白い液体の入った紙コップにストローを刺して勢いよく吸い上げながら、目をキラキラと輝かせていた。

 

王は、胸の奥から湧き上がる熱い感情を抑えきれず、深く何度も頷いた。

 

このダンジョンは、単に客から金を巻き上げるだけの場所ではない。

互いの世界の価値を交換し、新たな富を生み出す巨大な『市場』なのだ。

 

     ◇

 

王と王女は、さらに奥へと進んだ。

 

消毒液の清潔な匂いと、微かなクラシック音楽が漂う白い空間。

 

『第一総合病院』と書かれたガラス張りの施設の前に、彼らは立っていた。

 

自動ドアが開き、中から車椅子に乗ったドワーフの重戦士が、日本の作業員に押されて出てくる。

 

「いやあ、助かったよ。重い鉄骨を足に落とした時はどうなるかと思ったが、あの先生の光を浴びたら、折れた骨が一瞬でくっついちまった」

 

「本当にな。ウチの地上の病院より設備がすげえし、何より魔法での治療があるからダウンタイムがゼロだ」

 

二人は明るく笑い合いながら、牛丼屋の方へと去っていった。

 

王は、そっと病院のエントランスを覗き込んだ。

 

奥の診察室で、真っ白な白衣を着た小柄な黒髪の女性が、患者の腕に淡い緑色の光を当てている。

 

「はい、これで傷は完全に塞がりました。でも、念のためこちらの抗生物質も飲んでおいてくださいね」

 

黒目妹紅は、以前のような死んだ魚の目ではなく、生き生きとした真剣な眼差しで患者と向き合っていた。

 

「ありがとうございます、クロ先生!」

 

「……お父様。あそこにある巨大な白い筒のような機械は、なんですの?」

 

王女が、診察室の奥に設置されたMRI装置を指差した。

 

「あれは、ゲンダイの『イリョウキキ』というものらしい。人間の体の内部を、切らずに透かして見ることができるのだそうだ」

 

王は、以前貴族から聞いた報告を思い出しながら答える。

 

「異世界の治癒魔法と、現代の精密な医療技術。その二つが融合することで、ここではどんな大怪我も、不治の病すらも克服しようとしている。……これほどの恩恵を、我が国の民にも分け与えることができれば」

 

王の頭の中に、怪我や病で苦しむ自国民の姿が浮かぶ。

 

武力でこの場所を制圧し、彼らを敵に回すことが、いかに愚かな選択であるか。

王はもはや、完全に理解していた。

 

     ◇

 

さらに奥、岩肌が剥き出しになった拡張工事の現場。

 

カキン、カキン

 

ズゴォォォン!

 

アースゴーレムや人間たちが、一定のリズムで重いツルハシを振るい、岩盤を次々と崩している。

 

その少し手前で、黄色い安全第一ヘルメットを被ったゴブリンが、大きな図面を広げていた。

 

「ゴブゥ! ココノ鉄骨、モウ1メートル右! キジュンホウニ引ッ掛カル、ゴブ!」

 

ゴブリンの指示に従い、日本の作業員たちがクレーンを慎重に操作し、巨大な鉄骨を定位置へと下ろしていく。

 

「よし、完璧だ。ゴブ監督の指示はいつも正確だな」

 

「ええ。基礎が完璧であれば、その後の強度は盤石となりますから」

 

作業員に声をかけられ、頭に白いタオルを巻いた吸血鬼の女──パイが、トランシーバーを片手に涼やかな顔で頷いた。

 

彼女は夜会服のような漆黒の外套を羽織っているが、その足元は泥にまみれた安全靴だ。

だが、その美しい銀髪と透き通るような肌には、汗ひとつ浮かんでいない。

 

「ゴブリンが、あのように堂々と……しかも、人間のために汗を流しているなど」

 

王女が、信じられないというように両手を胸の前で組む。

 

「彼らは強制されているのではない。互いの得意分野を活かし、一つの巨大な都市を創り上げるために、自らの意志で協力し合っているのだ」

 

王は、深く息を吸い込んだ。

 

ここは、悪魔の巣窟ではない。

誰もが自らの役割を持ち、正当な対価を受け取り、笑顔で明日の豊かさを語り合う。

 

まさに、王が長年夢見てきた、理想の国家の姿そのものが、この地下空間に広がっていた。

 

「……見事だ。完敗だよ」

 

王が、ローブのフードを静かに下ろした。

 

     ◇

 

「お待ちしておりました。異世界の王よ。そして、王女殿下」

 

不意に、背後から静かな、しかし威厳のある声が響いた。

 

王と王女が振り返る。

 

そこに立っていたのは、一切のシワもないネイビーのスーツを着こなし、銀縁の眼鏡をかけた男──矢良内だった。

 

「……我々の正体には、とうに気づいていたか」

 

王が、王者の威厳を纏い直して向き直る。

 

「この空間の監視システムと、我々が集めた異世界の情報を照らし合わせれば、変装など無意味です。どうぞ、こちらへ」

 

矢良内は右手を差し示し、二人を静かなVIPルームへと案内した。

 

     ◇

 

ふかふかの絨毯が敷かれた、豪奢な応接室。

 

王と王女が革張りのソファに腰を下ろすと、金色の髪を美しく結い上げた少女が、銀色のトレイに乗せたティーカップを運んできた。

 

「長旅、お疲れ様でございました。わたくしがこの迷宮の主、リンと申します。日本の高級茶葉に、わたくしの魔力を少しだけブレンドした特製のお茶ですわ。どうぞ」

 

リンが、優雅な所作でカップをテーブルに置く。

 

立ち昇る湯気から、深く澄んだ茶の香りと、体を芯から癒やすような微かな魔力の波動が感じられた。

 

「……頂こう」

 

王がカップを手に取り、一口すする。

 

「……っ!」

 

その瞬間、王の全身の細胞が歓喜に震えた。

長年の執務で凝り固まっていた肩の痛みが消え、頭に重くのしかかっていた霧が、一瞬にして晴れ渡っていく。

 

「美味しい……! お父様、これ、世界中のどの紅茶よりも美味しいですわ!」

 

王女もまた、目を丸くしてカップを両手で包み込んでいた。

 

「お口に合って何よりですわ」

 

リンが、花が咲くように微笑み、矢良内の隣の椅子に腰を下ろした。

 

「さて。本日は、我が社の社長は、地上にて新たな物流ルートの確保に向けた会合に出向いておりまして、不在にしております。代わりに、経理および事業戦略担当の私、矢良内がお話を伺います」

 

矢良内が、テーブルの上に分厚い書類の束を置いた。

 

「……単刀直入に聞こう。貴様らは、その圧倒的な経済力と技術力で、我が国を飲み込み、領民を奴隷とするつもりか」

 

王が、鋭い眼光で矢良内を射抜く。

 

だが、矢良内は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、極めて冷静に首を横に振った。

 

「まったくの逆です。我々は、生かさず殺さずの搾取などという、非効率で古いビジネスモデルには興味がありません」

 

矢良内は書類のページをめくり、美しいグラフの描かれた資料を王の前に提示する。

 

「我々の目的は『共生』と『市場の永続的な拡大』です。貴国が我々の技術を取り入れ、農業やインフラを発展させ、民が豊かになればなるほど、彼らは我々の提供するより高度なサービスや娯楽に、喜んで対価を支払うようになります。貴国が豊かになることこそが、株式会社ダンジョンの最大の利益となるのです」

 

「誰も血を流さず、誰もが豊かになる。それが、わたくしたちのダンジョンの誇りですのよ」

 

リンが、胸に手を当てて真っ直ぐに王を見つめた。

 

「魔物は人間を襲うもの、人間は魔物を狩るもの。そんな野蛮な時代は、もう終わったのですわ。これからは、手を取り合い、互いの足りないものを補い合う時代ですの」

 

リンの言葉に、王は深く目を閉じた。

 

圧倒的な力を持つ者が、その力を振りかざすのではなく、共に栄える道を示す。

それは、長年国を治めてきた王にとって、最も理想的で、かつ最も難しい統治の形だった。

 

「……見事だ。余の負けだ。いや、最初から戦いにすらなっていなかったのだな」

 

王は目を開け、威厳に満ちた顔で矢良内とリンを見据えた。

 

「株式会社ダンジョンよ。我が国は、貴社、ならびに日本国との間に、正式な国交と交易条約を結ぶことを、ここに宣言する。我々は素材を提供し、貴国からはその素晴らしい技術と、そして……」

 

王は、少しだけ頬を染め、咳払いをした。

 

「……その、肉の円盤と、甘い泥のような冷たい飲み物を、定期的にもたらすことを約束してほしい」

 

「ええ、もちろん。我々は良きビジネスパートナーとなれるでしょう」

 

矢良内が立ち上がり、王に向かって右手を差し出した。

 

王もまた立ち上がり、その分厚い手で、矢良内の手をしっかりと握り返す。

 

「素晴らしいですわ! これでまた、ダンジョンが大きく、豊かになりますのね!」

 

リンが立ち上がり、嬉しそうに両手を合わせた。

 

血みどろの戦争ではなく。

暴力による侵略でもなく。

 

圧倒的なサービスと、互いを思いやる経済の力が、二つの異なる世界を強く、そして平和に結びつけた瞬間だった。

 

「さあ、硬い話はここまでにして。お父様、わたくし、あの『スライムエステ』というものを早く受けてみたいですわ!」

 

王女が、興奮した様子で王の腕を引く。

 

「うむ! 余も、その肉の円盤というものを腹いっぱい食してみたいぞ! さあ、案内してくれ!」

 

王もまた、王冠の重さを忘れたかのように、少年のように目を輝かせていた。

 

日本の資本と技術、そして異世界の魔力が融合した地下帝国。

 

株式会社ダンジョンの快進撃は、二つの世界を巻き込みながら、今日も果てしなく続いていくのだった。

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