魔女
曇天に覆われた空は、間もなく黒雲へと変わり、穏やかな海面を天の雫が激しく叩いた。視界はほぼ黒で染まり、周囲は闇の涙で閉ざされていく。
生温い、塩気を多く含んだ海風を纏った波がちいさな影を揺り籠のようにあやしているようだ。
次第に籠は激しく揺られ、最早どちらが天か地かすらも判らないほどになっている。
霊峰アルグレリスの南方に位置する海域には、まだ初夏には早いこの時期にたびたび発生する気象の変化があった。
伝承によれば、南を守護する二人の女神、水の女神ウリーシアとその妹である氷の女神シセルアのふたりが「宴」をすることで起こるのだという。
一般に「女神の宴」と称されており、この時期は海が激しく荒れる為、漁師や貿易商も船を出さないようにしている。
強い風雨と波の怪物は、程なくして影を飲み込んだ。あとにはただ、荒れ狂う海が残るのみだった。
あいにくの天気だが、今日いっぱいはお天道様も機嫌を損ねないだろうと、軽く見積もっていた。
俺は周りが止めるのも聞かず、なんとかなるだろうという安易な打算の元、船を出し、当然のように嵐に遭ってしまった。
荒ぶる波に食われ、小舟は分解し、それでもなんとか見つけた木片にしがみついていた。
打ち付ける雨と、まだ冷たい海水に体温を徐々に奪われ、もはやこれまでかと意識が朦朧とする中で死を覚悟した。
薄れる記憶の中で、声が聞こえた。
「…の、大丈夫ですか?」
重たい瞼を開けると、空中に浮かぶ黒馬に乗った女が霞んで見えた。
最後の最後で女神がお迎えにきて下さったのか。悪くないな。
再び最期を覚悟し、目を閉じると、今度ははっきりと声が聞こえた。
「生きたいの?!生きたくないの?!」
悲痛な声が届く、おれは最後の力で叫ぼうとした。だが紫色に変色した唇は上手く動いてくれない。それでも、喉を震わせて絞り出した。
「…しに、たく…な…い…」
そこで意識は途切れた。
気がつくとそこはベッドの上だった。半身を起こし、身体のあちこちを確認する。とくに傷や痛みはないようだ。
「…俺は助かったのか」
つぶやいた俺の声に反応するように、黒い霧が部屋の床から浮き上がり、出ていった。
「なんだ?しかし、ここは一体…。」
天井や壁は滑らかな岩肌で手が入っていないように見える。それに比べると大人3人は横になれそうな大きいベッドや豪華な敷物が異質に見える。伝承にある巨人の里にでも迷い込んでしまったのだろうか。
もしそうであるならば、巨人族のお宝にありつけるかもしれない。
などと不遜なことに思考を巡らせていると、黒い霧が出ていった穴から、女が入ってきた。白銀色の長い髪の女で、金色の瞳がかなり魅力的で好みだ。
上から下までなめ回していると眼があった。途端、吸い込まれるような妙な感覚が身体を襲う。
女は微笑を浮かべて側まで来て、ベッドの横にある椅子に腰を落ち着かせた。
そして、落ち着く、甘く優しい音色の声で囀った。
「あなたは3日間眠っていました。外傷はなかったのですが意識が戻りませんでした。」
男は問う、ここはどこか。
女は答える、ここは私の住処であり、お店だと。そしてさらにこう付け加えた。
「まだ体調が優れないでしょう。治癒の術を施してあげますね。」
言うや否や、おもむろに手を取り呪文を唱え始める。
祝詞のような呪禁のような、抑揚の効いた良くわからない言葉が紡がれ、終わると手の甲に口づけされた。
すると、手の甲が一瞬水色に光り、跡形も無く消えた。
「これでアナタは私のものになりました。」
「え?それはどういう…」
「治癒というのは本当です。それに加えて夫婦の印を紡がせて頂きました。よろしくね、旦那様」
ずっとお側に、と微笑むのが可愛い。
いやいや、そうじゃない。今そこは重要じゃない。
「ちょっと待ってください、話がよく理解できません。俺と貴女が夫婦?」
不審顔がもろに出たが、助けて貰った恩がある。でも、それでいきなり夫婦といわれて「こちらこそ、よろしく」とはならないだろう。話が全てを飛び越している。
「…一目惚れというやつです。私のことはお嫌いですか?」
嫌いでは無い、その上目遣いも可愛い。…まてまて焦るな。
「むしろ、好みですけど…、いや、そんな急に。」
おもわず本音がポロリしてしまったが、彼女は構わず言葉を繋いだ。
「嬉しい。末永くお願いしますね、旦那様。」
彼女はにっこり微笑んで、そのまま抱きつかれた。柔らかいものを感じながら、まぁいいかと思い、よろしく、などと口走っていた。
彼女の名前はリシュエラ。「旦那様、リシュとお呼びください。」とのこと。
銀髪金眼で、エルフ族はちょっとだけ長い耳が特徴だ。さきほどの黒い霧は使い魔のクロイス。
普段は霧に擬態し、リシュの周りにいるが、本来の姿は黒い一角獣だという。いちおう、念話で意思疎通が可能らしい。
本来は主人であるリシュとしかできないが、夫婦の印の効果により、俺とも出来るようになったらしい。
まだ試していないが、そのうち機会もあるだろう。
リシュは薬師で、この洞窟を手直しして、お店兼住居としている。
お店では主に薬や雑貨を販売しているのだという。薬といっても薬草を煎じているわけでは無いのだという。では何か。
術法により特殊効果のある魔法薬を生成するのだという。すごい技能だな。
落ち着いた後、リシュは調薬するというので、少しの間だけ店番を任されることになった。
店番と言っても、良くわからない色とりどりの瓶が棚に置かれているので、お客が来たら呼んで欲しいとのことだった。きっと、触ったら危険なものもあるだろう。
しばらく店番をしていると、お店の扉に取り付けられたベルが、心地いい音を奏でた。
入ってきたのはリシュと同じエルフの女性だった。水色の霧のようなものを纏っている。あれはリシュと同じ使い魔の類だろうか。
俺を見たとたん、顔を赤らめて眼をチラチラとする。動きもなんか、しおらしい。いや、怪しい。
観察していると、商品棚から突然すごい剣幕と早足で俺に近寄ってきて「あの」と喋りだした。
「はじめまして、私はパスティーナと申します。パスティって呼んでください。話はリシュから聞いてます。お元気になってなによりです。あの、それで、わ、私、治癒が得意なんです。まだ顔色が優れない様子、ちょっと癒しを掛けてあげますね」
すごく早口でまくしたてられ、言葉が頭で咀嚼される前に、彼女は手を掴んできた。
聞いたことがあるような言葉が紡がれるが、途中で手に電気が走ったようにビリっとした。手が離れる。
「あっ!まさか…」
「その通りよ、この方は私の旦那様です」
奥からリシュが落ち着いた様子で歩いてきた。
「そう、残念だわ」
パスティは両手を握り、胸の前でわなわなしている。目に涙を溜めているようだ。
二人を見比べて、眉をひそめる。
「どういうことなんですか?」
俺が訪ねるとリシュが優しい笑顔を浮かべながら、子供に聞かせるように説明してくれた。
「パスティは夫婦の印を結ぼうとしたのです。でも、旦那様は既に私と結ばれていますので、印が弾かれたということです。」
エルフという種族は会ってすぐに夫婦になろうとする種族なのだろうか。
その疑問にもリシュが答えてくれた。
「実はエルフ族は法力枯渇の危機に晒されているのです。」
「絶滅じゃ無くて、法力の危機?」
頷くリシュが説明してくれたことをまとめると、エルフ族は大きく分けて2つの種族に分かれている。
主に森と共に暮らしているのが森エルフ族。水辺を好み、海と共に暮らすのが水エルフ族なのだという。
どちらのエルフも共存という形で森と海に依存しており、お互いの関係は良好らしく、リシュは水エルフ族に属しているそうだ。
そして、同種族での婚姻が古来から続く風習であるエルフ族は、世代を重ねるごとに内包する術法の法力が弱まっているのだという。
特に近年はその傾向が顕著に表れていて、両エルフ族の長老達も頭を悩ましていた。
そこで多種族の術位段階の高い者を取り入れるという案が提唱されたのだそうだ。
神の見えざる御技なのか、いたずらなのかはわからないが、女性がエルフ族の場合は生粋のエルフが必ず産まれる。男性がエルフ族の場合は相手の種族の子が必ず産まれるのだという。
なので最近の女性エルフは法力の高い男性と婚姻するものが増えているし、エルフ族としてもそれ推奨しているのが現状なのだそうだ。
「それで、私は旦那様と添い遂げることにしました。」
リシュがにっこりと笑む。可愛い。パスティはむっとしている。しかし…。
「俺は法力は高くないのだが…」
適性のある水の術法ですら、術位段階は3でしかない。
「いいえ、旦那様の潜在術位段階は5以上ありますよ。身体を覆う『気』を見ればわかります。」
「えええ?そんなのわかるのか」
「エルフ族は相手の気を読むのに長けておりますので。」
「じゃあ、パスティさんも、それを見て?」
パスティの方を見る。すると顔を赤らめながら頷いた。
「そういうことです。その法力の豊富さ、…私の旦那様になってほしかったです。」
俯きながらパスティはリシュに向けて恨めしそうな眼を向けた。
しかし、リシュはそれだけではない、という。
「私は本当に一目惚れなんです。漂流しているところを助けた時から。」
リシュは顔を赤らめる、可愛いな。
衰弱しているときには『気』が弱まっており、見ることは出来なかったらしい。
家に連れ帰り、介抱していて、その潜在術位段階の高さに気がついたという。
「ですから、私は法力だけではありません。それに、その碧眼も吸い込まれそうに美しいです。」
碧眼は特に珍しいものではないが、俺を見つめてくる瞳に熱が籠もりすぎてて、つい目を逸らしてしまう。
逸らした先を見ると、パスティの水色の霧と、リシュの黒い霧が混ざったり追いかけ回したり、くるくるまわったりしている。
どうも水面下で使い魔同士の戦いが発生していたようだ。
その後パスティはいくつかの薬を買い、お店を後にした。
一体何を買っていったのかは俺には判らないが、二人が時々ニヤニヤしていたので、明らかに怪しい薬だという事は想像がついた。
「今日は店仕舞いにしましょう。」
リシュが表の掛札を準備中にひっくり返して、扉を閉める。
入口扉の小さな窓をのぞき込んで、誰もいないのを確認すると、扉についた小窓のカーテンを引いた。
リシュが振り返る。
「旦那様、お疲れ様でした。特製ハーブ茶を持って行きますから、奥で夫婦水入らず、ゆーっくりしましょうね。」
潤みを含んだ金色の瞳は限りなく細められ、薄い唇は濡れたように光っている。
銀色の髪は絹糸のように透き通っているようだし、落ち着くような良い匂いも仄かにする。
調薬だなんて言って……
――魔性の女がそこに居た。




