四十二話
千歳は思わず立ち上がった。信じられなかった。
「東京に帰る……?」
「そう」
貴広はじっと千歳の顔を見つめながら言った。
「こんな状態の明子をここに置いておくわけにはいかない。だから東京に連れていかないと」
「ということは貴広さんも……」
「うん」
貴広は残念そうに俯いた。
「仕方ないよ。僕だけしか東京に行ける人はいないし……」
千歳は愕然とした。体が小刻みに震えだした。
「待って……待ってください……」
自分が何を言ってるのかもわからない。もうわけがわからない。
「そんな……。だってまだあと三日くらいはいるって言ってたじゃないですか……」
貴広は少し黙ったが、首を横に振った。
「残念だけど、あの絵は完成できない。仕方ない……」
「嫌ですっ」
貴広の声を遮り、千歳は叫んだ。涙が瞼に溢れた。
「じゃあやっぱり今日中じゃないですか……。ひどい……ひどい……」
「ごめんね。千歳ちゃん」
貴広は千歳の肩に手を置いた。千歳が倒れそうになったからだ。
「せめてあと三日はいるんだって少しほっとしてたのに……」
千歳の涙は止まらない。こうなってしまったのも全て明子のせいだ。
「そうか……。だけど、もう僕は東京に帰らなきゃいけないんだ。こんな姿の明子がいたら、千歳ちゃん嫌だろう?ひどいことをさせて本当にごめんね。でも帰らなくちゃ」
そう言いながら貴広は困った顔で笑った。それを見て千歳は怒鳴った。
「何笑ってるんですかっ」
はあはあと息が熱く、荒くなっていく。涙を流しながら千歳は大声を出した。
「お……お別れなのに……どうして笑うんですか?寂しいのに……。もう二度と会えないのに……。あたし……すごく……か……悲しい……のに……」
涙で言葉が上手く出せない。さらに息が苦しくなっていく。
「ちいちゃんっ」
早苗が飛んできた。千歳の大声に気が付いたのだろう。
「どうしたの?ちいちゃんっ。遠藤さんまで……」
そこまで言って、早苗はひゃっと小さく悲鳴を上げた。足元の明子に気が付いたのだ。
「勝田さん、どうしたの?」
おろおろしている早苗に、貴広は静かな声で答えた。
「大丈夫です。気を失ってるだけです」
台本を読んでいるような口調だった。顔も無表情だ。
「どうして気を失っているの?」
泣きそうな顔でもう一度早苗が聞くと、さらに冷たい言葉を言った。
「ちょっと疲れたみたいです。怪我とかはありませんから。気にしないでください」
「でも、だったらどうしてちいちゃんの部屋で……?」
早苗は全く何もわからない状態で千歳と貴広と明子を見た。
「金城さん、ちょっと言いたいことがあるんですけど」
口調はそのままで、貴広は早苗の顔を見た。
「すごく急で悪いんですが、東京に帰ることになりました」
「えええっ」
早苗は目を見開いた。すぐに千歳の方を向いた。
「どうして……?」
早苗が震える声で言うと、貴広は即答した。
「こんな状態の明子がここにいたら迷惑ですよね。明子は僕の……恋人ですから」
しっかりとした口調だったが、千歳には怒りと悲しみで叫びたいのを抑えているように聞こえた。
「ちいちゃん、遠藤さん、東京に帰っちゃうんだって」
「もう話しました」
貴広はそう言い、千歳の顔を見つめた。
「すごく残念です。せっかくこんなに自然がたくさんある場所に来れたのに。千歳ちゃんとも仲良くなれたのに寂しいです。だけど明子がこんな状態になってしまったので、東京に帰らなくちゃいけません」
「そんな……」
早苗の顔にも信じられないという文字が現れていた。あまりにも早い別れに早苗も悲しんでいるのだ。
「これはもうどうすることできません。明子がこの旅館の邪魔をするなんて、僕は絶対に嫌ですから。仕方がないことです」
千歳は貴広が泣いているように見えた。貴広も千歳たちと別れるのが辛いのだ。
しばらく三人は何も言わず、そのまま俯いていた。何も言葉が見つからなかった。
「明子さんがいなければよかったのに」
「明子がいなければよかったのに」
「勝田さんがいなければよかったのに」
千歳と貴広と早苗の声が同時に出た。驚いてお互いの顔を見合い、やはりみんな同じことを思っているのだなと気が付いた。千歳の初恋を台無しにし貴広の自由を奪い早苗の悪口を言ったこのどうしようもない女を見下ろした。
三人を不幸にしたのはこの勝田明子のせいなのだ。そして勝田明子という悪魔のせいでこの三人の未来は不幸になる。この女がいなければ三人は幸せになれるのだ。いろいろな人間が嫌な思いをしなくてすむのだ。あの絵だって完成することができたはずだ。全て勝田明子一人のせいだ。この女が存在するせいでみんなが不幸になる。
「どうして優しい人は悲しい目に遭って、性格の悪い人間は楽しく生きていけるんだろうね……」
貴広がぽつりと呟いた。千歳は大声を上げて泣きじゃくった。それに連られるように早苗も涙を落とした。




