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二十一話

 千歳がぼんやりしていると、早苗が夕食ができたと声をかけてきた。また都会のことを言ってくるのではないかと思っていたが、二人とも何も言ってこなかった。だが何となく目線は都会に行ったほうが幸せになるんだ、と言っているように感じた。そのせいでほとんど早苗たちの顔を見ることができなかった。

 窮屈な壁に挟まれているようで、毎日うまく息もできない。都会にいた時もこんな気持ちで日々過ごしていた。田舎には帰れたが、この嫌な気分は離れていなかった。うんざりして何もやる気が起きない。

 何もかもが都会のせいなのだ。都会に行かなければ、中学時代も楽しかったはずだ。金も取られず、安心して学校に通えた。心の底から笑うこともできた。人をいじめる人にも、いじめられた人にも会わずにすんだ。そして何より、千歳がこんな性格になったりしなかった。

 都会から帰ってきてから、千歳はとてつもなく冷たくなった。昔は自分から進んで早苗の家事の手伝いをした。しかし今は早苗がどんなに忙しくしていても手伝おうという気になれない。見てみぬふりをしている。そして祖父や早苗の言葉を聞かず、反抗する。言い返し、睨み、そして後で悔やむの繰り返しだ。自分は何をやっているのかといらいらする。自己嫌悪に陥る。

 都会に行かなければ、冷たい人間と関わらなければ、千歳は昔のように優しい少女だった。

 過ぎてしまったことを悶々と考えていても仕方がない。あれはただの悪夢だ、幻だ。もうあの時のことは忘れることにした。しかし都会の冷たい空気によって変わってしまった千歳の性格を元に戻すことはできない。

「ちいちゃん」

 突然早苗に呼ばれ、千歳はどきりとした。

「な……なに……?」

 動揺しながら言うと、早苗は心配そうに顔を覗き込んできた。

「さっきから何も言わないから……。具合でも悪いの?」

 早苗の言葉に、千歳は首を横に振った。

「何でもない。気にしないで」

 また千歳は後悔した。何となく冷たい口調になってしまった。

「あたし、お風呂入ってくる」

 そう言って逃げるように立ち去った。早苗がどんな顔をしているのか怖かった。


 風呂に入っていても、悩みが消えてくれるわけではない。湯船に浸かりながら、千歳は考えていた。祖父が言っていた通り、昔一緒に遊んだ子は全員都会に行った。今はどうしているのか。きっと好きな男性と知り合い、素敵な恋をしているのかもしれない。仲のいい友達と一緒に、充実した日々を過ごしているかもしれない。田舎にいる千歳には絶対にできないことだ。

 都会にはおいしいものや綺麗なものや便利なものがある。初めて食べたお菓子に千歳は感激した。こんなにおいしいものがあったなんて、と驚いた。

 自分の住んでいるマンションが高級ホテルのようで、千歳はアイドルになったような気がした。部屋の中にあるベッドに入るとすぐに眠りにつける。

 便利なものは、数え切れないほどあった。千歳は手に入れることはできなかった携帯電話、自分を可愛くしてくれる化粧品、遠くまで運んでくれる車や電車など、とにかくどこに行ってもどこを見ても素晴らしいものが必ずあった。

 千歳は古くなった風呂場をぐるりと見渡した。都会のマンションにはシャワーがあったが、田舎にはそんなものは置いてない。自分で桶にお湯を入れなければいけない。香りのいいシャンプーもリンスもないので、石鹸で髪を洗うしかない。田舎には若者が好きそうなものは皆無なのだ。

自分は華やかな場所で過ごすことができない人間なのかと千歳は思った。一体田舎と都会、どちらが本当に幸せなのかわからなかった。

 

 風呂から出ると、祖父と早苗が居間で何か話をしていた。真剣な顔をして向かい合わせに座っている。千歳は何となく嫌な予感がした。

「あ、ちいちゃん」

 早苗が気が付いたらしく呼んだ。

「何?」

 千歳が面倒くさそうに言うと、早苗は近寄ってきた。

「今ね、おじいちゃんと話をしててね。ちいちゃんも聞いておいたほうがいいと思うから、ちょっとこっちに来てくれる?」

「話?なんの?」

「とにかく、こっちに来て。こっちに来てくれないと話せない」

 千歳は緊張した。まさか、あの話ではないだろうな、と考えていた。

「……わかった」

 震える声で答えると、ほんの少し早苗が安心したように見えた。

 千歳が椅子に座ったと同時に、祖父が深く長いため息を吐いた。まるで何かをあきらめたような感じがした。

「話って何なの?」

 千歳が聞くと、祖父は固く目を閉じた。何と言えばいいのか迷っている気がした。

「あなた」

 早苗も声をかけた。祖父は俯き、数秒経ってから顔を上げた。

「話というのは」

 千歳は思わず両手を固く握り締めていた。これからとんでもないことが自分の身に襲いかかると思っていた。

「みんな、わかっていると思うが」

 祖父の声がだんだん弱弱しく、小さくなっていく。千歳の嫌な予感が、さらに大きくなっていく。

「……桜の舞を、たたもうと思っている」

 嫌な予感が的中した。ついにこの時が来たのだ。

「待って」

 泣きそうな顔で早苗は夫を見つめた。

「去年はまだ続けるって言ってたじゃない。もしかしたらってことがあるかもって。それなのに」

「もう無理なんだよ」

 早苗の声を遮り、祖父は言った。

「お前たちだってわかるだろう。いつになったら宿泊客が来るんだ。もうこれ以上待っていても誰も来ない。こんな錆びれたところに泊まろうとする客なんかいない。周りの人だって言っているじゃないか」

「だけど」

「じゃあ逆に、お前が客だったらこんなところに泊まろうと思うか?こんなにただ汚らしい何の魅力もない馬小屋みたいな場所を選ぶか?」

 早苗は黙った。それを見てそうだろ、と祖父はあきらめたように言った。

「もうやめよう。現実を見よう」

 夫の言葉に反論することができず、早苗は頭を下げた。

 二人のやり取りを見て、千歳は胸が痛んだ。こんなに悲しげな二人を見ていたくなかった。しかし自分ではどうすることもできない。

 早苗が俯いたまま呟いた。

「……じゃあ、ちいちゃんはどうなるの……?」

 祖父はちらりと千歳の顔を見て、ため息をついた。ため息をついただけで、何も話さなかった。言葉が見つからないのだとすぐにわかった。

「……都会……でしょ……」

 恐る恐る千歳は口を開いた。

「あたしが、都会に行くことを、願ってるんでしょ……」

 無意識に言葉が出てくる。口が止らない。

「あたしがこの田舎に独りきりになってしまうのが心配なんでしょ?あたしがここにいるのが迷惑なんでしょ?」

「迷惑だなんて」

 早苗の言葉を聞き、千歳は口だけで笑った。

「あたしがいなかったら、二人きりで安心して暮らしていける。だけど千歳っていう厄介な人間がいるせいで毎日苦労しっぱなし。千歳なんてどこかに行っちゃえばいい。都会っていう名の地獄で、どんな悪いことを企んでいるかわからない悪魔と結婚させればいい。そうすれば自分たちは静かに老後を迎えられるのに……」

「やめなさい」

 祖父の低い声が聞こえ、千歳は口を閉じた。怒っている、と強く感じた。早苗も厳しい顔をしていた。

「どうしてそんなことを言うの?おばあちゃんたちは、ちいちゃんのことをすごく可愛いと思っているのよ」

 千歳が俯くと、続けて祖父もゆっくりと言った。

「ちいちゃん、性格が冷たくなったな。昔は無邪気で明るくて優しかったのに。冷たいちいちゃんなんて見たくないな」

 二人にこんなことを言われたのは初めてだった。やはり自分は冷たい人間に変わってしまったということを知った。

「……もう寝る……」

 そう言って千歳は自分の部屋に入った。ゴールのない迷路に入ってしまった気がした。

 


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