二十話
「もう無理かな……」
祖父の小さな呟きを、千歳も早苗も聞き逃さなかった。そして、それがどういう意味なのかもわかった。もう「桜の舞」の経営を続けても無理だということだ。こんなにも宿泊客がいないなら、どんなに旅館を続けていても何の意味もない。だったら早くやめてしまえばいいのではと祖父は考えているのだ。
去年は違う言葉を言っていた。
「次がある。まだまだ経営は続けるぞ。もしかしたらってことがあるかもしれないじゃないか」
そういう祖父の姿を見ると、千歳は改めてすごい人なんだな、と思った。何年も客が来なかったら、これからだって客は来ない。金城家だけではなく、この田舎にいる人間も同じだろう。けれど祖父は違っていた。
しかしいつまで経っても宿泊する客はいない。旅館になんの魅力もないのだから、わざわざこんな場所に泊まらなくてもいいと考えるのが普通だ。もし自分が客だったら、祖父と早苗には悪いが、こんな宿を予約することは絶対にないだろうと思っていた。
「そんなことないよ。もっと一緒にがんばろうよ」
そう言って、祖父を励ましてあげたかった。元気付けられたらよかった。しかし千歳自身も、もうこの旅館は終わりだろうと思っていた。
「桜の舞」が、ほんの少しでも魅力的だったらよかった。ここはとびきりおいしい料理が食べられるわけでもなく、窓から見える景色が美しいというわけでもなく、ただ平凡な旅館なのだ。金を払ってまで泊まろうと思う客はいないだろう。
千歳が俯いている祖父を見つめていると、顔を上げた。そしてゆっくりと千歳の方に視線を動かす。祖父の目を見て千歳は緊張した。
また、いつものように「あの言葉」を言うのだと、すでに千歳は気が付いていた。
「言っておくけど」
千歳は固い口調で声を出した。あの言葉を聞く前に自分から先に口を開いた。
「あたし、都会になんて行かないからね」
それを聞いて、祖父は弱気な目をした。
「本当に、都会に行く気はないのか?」
「ないよ。あたしは、ずっとここにいる」
「でも、それじゃあ、ちいちゃん結婚も出産もできないわよ」
話を聞いていたらしく、早苗も言ってきた。
千歳は首を横に振った。そして低い声を出した。
「おばあちゃん、あたしのこと護るって言ってたよね。都会になんて行かせないって」
「そうだけど、でもやっぱり都会に行ったほうが、ちいちゃんのためになると思うのよ」
「あたしのため?」
思わず尖った言い方になってしまった。言ってから後悔した。
「そうだ。ちいちゃんが昔一緒に遊んでいた女の子たちは、みんな都会に行っただろう。だからちいちゃんも……」
「やだよ!絶対やだ!」
祖父の言葉を遮り、千歳は大声を出した。
「都会に行ったら、また頭おかしくなっちゃう。それでもいいの?またあたしが頭がおかしくなってもいいんだね」
「違うの。せっかくちいちゃん女の子に産まれたのに、素敵な恋も結婚もできないなんて悲しいでしょ?おばあちゃんたちは、幸せなちいちゃんの姿が見たいの。ちいちゃんが産んだ子どもが見たいのよ」
早苗の言っていることはよくわかっている。けれど、どうしても都会に行くことは嫌だった。
「素敵な恋とか、結婚とか、別に興味ないし」
ぶっきらぼうに答えると、早苗は俯いた。
「たまたまだったんだ」
横から祖父が話しかけてきた。千歳は祖父の目を見た。
「あの時、ちいちゃんの周りにいた人間が冷たかっただけだ。都会にだって、優しい人は大勢いるんだぞ。冷たい人だけしかいないわけじゃない」
千歳は自分の目がつり上がっていることに気が付いた。母と同じ目をしているのかと思うと気分が悪くなった。
「どうして、そんなことわかるの?」
「えっ?」
「おじいちゃん、都会に行ったことあるの?都会の人と一緒に過ごしたことあるの?」
祖父は黙った。祖父が都会に行ったことはないはずだ。早苗もない。想像で言ったことなのだ。
「それは……」
「もういい。もう話しかけないで」
そう言って千歳は自分の部屋に逃げ込んだ。
部屋の中に入ると、自己嫌悪のため息を吐いた。こんなにも祖父と早苗は自分のことを大切にしてくれている。それなのに今の態度は何だ。こうして後悔するのは何回目だろう。
都会に行ったほうがいいのか………
また千歳は考えた。祖父の言うとおり、全ての人間が冷たいわけではない。優しい人だっている。けれど、出会えるかどうかはわからない。上手く付き合えることができるのだろうか。また冷たい人間に囲まれて、孤独な日々を送る羽目になったら……。
祖父と早苗は、自分たちはもうどうなってもいいと思っているのだろう。もう年をとっているし、これから何か始めるようなこともないだろう。ずっとこの田舎にいてもいい。しかし千歳はまだ17歳だ。まだまだこれから先が長いのだ。都会に行くべき人間なのだ。
それに、もし自分たちが逝ってしまったら、千歳は独りきりになってしまう。仕事も持っていないし、金も稼いだことがない。助けてくれる人もいない。
そうならないために千歳を都会に行かせようとしているのだ。都会に行けば、気の合う相手が見つかるかもしれない。上手くいったらその相手と結ばれて、家庭を築けるかもしれない。そうすれば千歳は独りにならないですむ。
祖父と早苗が自分のことを大事に想ってくれていることはわかる。どこかの自分が恥をかかないために子どもに無理をさせる人間とは違って、とても優しい。都会に行って、千歳が幸せになった姿を見たいというのも本当だ。
しかしやはり都会に行こうという気持ちは起きなかった。
何も答えが出せないまま、ただ時間だけが過ぎていった。




