十九話
変わり果てた千歳を見て、涙を流さない人はいなかった。子どももお年寄りも女も男も泣いていた。こんなことになるなら、都会になんて行かせなければよかったと全員が嘆いていた。
「ちいちゃん、もとに戻って」
早苗が呼びかけても千歳は無反応だ。もうどうすることもできない。千歳はもう人形と同じなのだ。
他人が冷たくても、家が暖かかったらまだよかった。しかし家の中も冷たかった。千歳は逃げられる場所がなかった。そのせいでこんな哀れな姿になってしまったのだ。
「許さないわ。私、絶対に許さない」
早苗は毎日何度もこの言葉を口にした。口を開くと、必ず言った。そしてどこかを睨みつけていた。遠くにいる、子どもを可愛がれないダメな息子と嫁を憎んでいた。
早苗は幼い頃から優しくて、穏やかな性格だった。早苗がここまで怒るとは相当だ。
そんな早苗を見ると、祖父は首を横に振った。
「そうやってあの二人を恨んでも仕方がないだろう。ちいちゃんが元に戻ることのほうが大切だろう」
長年付き添っていた夫に言われ、早苗はあきらめたようにため息を吐いた。その通りだと自分でもわかっているのだ。
「そうね……。そうよね……。今は、ちいちゃんが元に戻ることのほうを考えなきゃね……」
そしてがっくりと項垂れた。
千歳が元に戻れるように、田舎の人々は全員で協力して千歳を励ました。千歳が家族だと思っているのと同じく、みんなも千歳を家族だと思っているのだ。それに他人のことを思いやれない人間は、ここにはいない。
「ちいちゃん、起きて」
「また笑ってよ」
毎日金城家にはたくさんの人が訪れた。そして、どこを見ているのかわからない千歳に話しかけ続けた。みんなの優しさに、早苗は涙を流した。
特に悲しんでいたのは川瀬おばあちゃんだった。昔、夫が死んでしまって一人きりになってしまった自分に、千歳は何度も話しかけてくれた。そして、今、自分は一人でも暮らせるようになったのだ。今度は自分が千歳を助ける番だと言って、雨が降っても風が吹いても金城家にやってきた。
「ちいちゃん、あたしだよ。川瀬おばあちゃんだよ」
そう言いながら、千歳の手を強く握った。まるで自分の生きる力を千歳に注いでいるようだった。何度も何度も、涙声で繰り返し千歳の名前を呼び続けた。
誰もが、また千歳の笑顔を見たいと願っていた。
そうしているうちに、千歳の焦点の合っていない目が変わってきた。生きていこうという光が、千歳の瞳に宿った。それから千歳は口が聞けるようになり、自力で体を動かせるようになった。みんなの優しさで千歳はみるみる回復していった。そのことを、誰もが自分のことのように喜んだ。川瀬おばあちゃんは細くなってしまった千歳の体を抱きしめ、涙を流していた。みんなの笑顔を見ると、千歳も嬉しかった。
しかし、一つだけできないことがあった。「笑う」ということだ。田舎に帰ってこれたという幸せもあるのだが、やはり都会で過ごした日々の辛い想いが心の大半を占めていた。これは他人には戻せない。千歳が努力をして忘れるしかないのだ。千歳自身の問題なのだ。
心から笑えない自分が嫌で千歳は泣いた。昔は自然に笑うことができたのに、今はどうしても都会で起きた出来事を思い出してしまう。笑えない自分が自分らしくないと悲しくて仕方がなかった。
昔と同じように笑えるようになった時、千歳は16歳を過ぎていた。都会から帰ってきてから、何ヶ月もかかって元に戻れたのだ。頭がおかしくなるのには一週間もかからなかった。
千歳は都会にいた時のことを他人に話すのはやめた。嫌な思いにさせてしまうからだ。それに、あの日々のことを言葉に変えることなどできない。もし上手く話ができたとしても、田舎の人にはそれがどんなに苦痛なことなのかわからないだろう。あの気持ちは、実際に都会に行かなければ感じることはできない。それにわざわざ聞きにくる人もいなかった。
過去より未来のほうが大事だ、と千歳は思った。もう嫌なことなど忘れてしまおう。また田舎暮らしができるようになったのだ。大好きな田舎で楽しい日々を送るだけだ。
今は、あの時の気持ちは忘れている。でも、本当はそう思っているだけで完全には吹っ切れていないかもしれない。だがそんなことをいちいち考えたりしない。もうどうでもいい。
都会の人間は冷たい。
平気で人をいじめたり、騙したりする。
お金のためなら人を殺したりもする。
そして都会人の母は子どもを可愛がれない。
都会にいたせいで父も変わってしまった。
田舎育ちだと言って、人を差別する。
都会に行って、よくわかった。都会がどういう世界なのか、どういう人がいるのか、全て知った。
「何があっても、どんなことが起きても、あたし絶対都会になんて行きたくない」
回復してすぐに千歳が言った言葉だ。またあんな目に遭うくらいなら死んだほうがましだ。
「わかってる。もうあんな場所にちいちゃんを行かせたりしない。私たちが、ちいちゃんを護るわ」
早苗に言われ、千歳は頷いた。やっと、心が暖かくなった。
こうして、千歳は都会が大嫌いになったのだ。




