雪解けの苦味と白き蕾
第十五章:雪解けの苦味と白き蕾
まだ風には冬の名残があるが、道端の雪が少しずつ黒ずみ始め、地面が顔を出し始めた頃。今夜の『赤兎馬』には、凛とした青い香りが漂っていた。
「ようやく、土の香りがしてきた。春を迎えに行く準備はいいか」
武がカウンターに置いたのは、錫のチロリで温められた日本酒。人肌より少し熱い程度の『ぬる燗』だ。酒の香りがふわりと開き、米の甘みが最も引き立つ温度。その柔らかな熱に合わせ、最初の一皿が供された。
ふきのとうの天ぷら&酢味噌和え
「これは、俺が今日、裏山で見つけてきたばかりだ」
武が差し出したのは、早春の使者『ふきのとう』。
まずは天ぷらだ。蕾を少しだけ指で広げ、薄い衣をつけて高温の油に放つ。
「衣は、あえて少し粉っぽさを残す程度にする。そうすれば、中の瑞々しさが損なわれない」
サクッとした衣の先にあるのは、鼻を抜ける強烈な土の香りと、鮮烈な「苦味」。それをぬる燗が包み込み、甘みへと変えていく。
もう半分は、酢味噌和えだ。
サッと熱湯に潜らせてアクを抜き、刻んだふきのとうを、武が畑で収穫した大豆から作った自家製味噌と、まろやかな酢、そして少量の砂糖で和えたもの。苦味と酸味、そして味噌のコクが三位一体となり、酒を誘う。
ユリ根の天ぷら
続いて出されたのは、真っ白な花びらのような『ユリ根の天ぷら』。
武は、地元の農家から物々交換で届いた上質なユリ根を一辺ずつ丁寧に剥がし、中心部の芯を外して大きさを揃えた。
「ユリ根は、加熱しすぎると溶けてしまう。外はカリッと、中はホクホク。この絶妙な瞬間を逃してはいけない」
口に運べば、栗のようにホクホクとした食感の後に、高貴な甘みが広がる。ふきのとうの苦味の後に食べるこの甘さは、まさに雪解けの喜びのようだ。
ホウボウの天ぷら
今夜のメインは、鮮やかな赤い鰭を持つ魚、『ホウボウ』の天ぷらだ。
「漁師仲間の網にかかったやつだ。歩く魚なんて呼ばれるが、身の質は白身の中でも極上だ」
武は、ホウボウを三枚に下ろし、皮を引いてから一口大のそぎ切りにした。そこに軽く塩を振ってから衣を纏わせ、余熱で火が通るギリギリのタイミングで油から引き揚げる。
「白身の旨味を閉じ込めるには、このスピードが命だ」
ふっくらと厚みのある身を噛みしめれば、上品な脂と力強い旨味が溢れ出す。仕上げに添えられたのは、武が自ら石臼で挽いた『山椒塩』。その痺れるような爽やかさが、天ぷらの脂を鮮やかに締め括った。
「苦味、甘み、そして旨味。この三つが揃って、ようやく冬が終わる気がするな」
武は、チロリに残った最後のぬる燗を猪口に注ぎ、満足げに笑った。
千円。その代金で客が手に入れたのは、冷たい土の中で春を待っていた命の輝きと、それを最高の状態で差し出す武の「目利き」。
一組限定の夜、赤兎馬のカウンターには、一足早い春の風が吹き抜けていた。




