同じリンゴの赤を見ているのか?
この文章は自戒を目的としたものだ。本題へ入る前に、一つ、しばしばSNS上で流れてくる話をしてみよう。
「わあ、パンケーキですわ!」
このセリフを一読したとき、発言者の姿を想像してみれば、「ですわ」という語尾から可憐なお嬢様が浮かんでくるかもしれない。しかし、次のセリフの場合はどうだろう。
「わあ、たこ焼きですわ!」
たちまちにお嬢様の姿が霧散し、恰幅のいい関西人のおじさんが登場してくるはずだ。同じ語尾のはずなのに、なぜか? 答えは明白だろうが、「パンケーキ」と「たこ焼き」、登場する名詞によって想起される状況が違うからだろう。
我々の頭の中では、セリフに示された内容よりも、ずっと広い世界が構築されているはずだ。パンケーキがあるのだから、その上にはバターや蜂蜜がかかっているかもしれない。あるいは、紅茶の入ったティーカップが側にある。対面しているお嬢様は、それを優雅な手つきで口へ運び、湯気へと息を吹きかけてから飲んでいるかもしれない。彼女は清楚な服を身にまとい、高校ではマドンナとしてもてはやされているが、それを鼻にかけるような傲慢さはなく、その謙虚な姿勢がまた人を惹きつけるのだ。「なぜ自分がこんな人とパンケーキを」と、共にいる自分までへりくだってしまう様である。
たこ焼きの場合はもう少し雑多な世界だ。そこは年季の入った居酒屋で、壁にはずらっと品書きが並んでいる。ほんのりと油の滲んだ机の上には、これまた歴史を感じさせる調味料群が置いてある。注文したたこ焼きが来るまでの間、対面しているのは五十代の男性である。笑うときは豪快に口を開けて笑い、些細な悩みでも身を乗り出して聞いてくれるのだが、たまにそこが鬱陶しいこともある。阪神タイガースを数十年間応援しているが、負けた日の機嫌はすこぶる悪く、特定の選手を「アホンダラ」と貶すが、それ以上の誹謗中傷はしないのが憎めない所である。
長々と私がしてしまった妄想を書き連ねたが、完全に同意できる人は数少ないだろう。ひょっとしたらいないかもしれない。人によっては、お嬢様は意外とコーヒー派なのだと考えたり、パンケーキにはクリームだろうと考えたり、そもそも出先ではなく自宅なのだと考えているかもしれない。おじさんの場合は自宅派が増えるだろうか、あるいは減るだろうか。自宅にたこ焼き器を備えている人も少なくないだろうし、出先でたこ焼きを食べることは考えないかもしれない。一方で、お嬢様が自宅にいるよりも、タイガースファンのおじさんがいる方が想像しがたい(想像したくない)人もいるだろう。
以上の話で何が言いたいか。
「わあ、パンケーキですわ!」
「わあ、たこ焼きですわ!」
これらのセリフにより想像される状況は二種類だ。しかし、大まかに言って二種類なのであって、実際のストーリー展開は星の数ほどあるはずだ。先程の想像を振り返ってみて欲しいが、食べ物と発言者だけを思い浮かべる人は少ないだろう。
私たちはセリフの裏にある設定を補完するが、その内容に個々の感性がにじみ出るのだと思う。そこを小説に書き起こしてみれば、状況説明、情景描写、心理描写等の役割を担う、いわゆる「地の文」になる。ライトノベルではセリフの分量を増やし、テンポ良く読ませてくれる作品もあるが、私としては地の文にこだわったものが好みだ。そちらの方が、その作者の本を選び取っている「意味」になり得るからだ。
話は変わるが、最近の私の小説では、地の文に奇をてらってしまいがちである。大抵は校正の際に直し、ひねくれすぎた部分は削除しているのだが、細かな灰汁のように取り切れないものもある。無理のある擬人法、数行に渡るようなエピソードトークもどき、決め台詞めいた寒々しいモノローグ。問題点はあらかた把握しているつもりだが、徹底して取り除きすぎないようにはしている。
それはなぜか。地の文がない方がテンポがいいし、読者の視力を損なうこともないし、得られる評価も高いだろうに。
一つ、セリフだけを書いてみる。
「このリンゴ、美味いなあ」
なんてことはない内容だ。だが改めて、「パンケーキとたこ焼き」のように脳内へと関心を向けて欲しい。あなたの想像では、誰が、どこで、どんなリンゴを、どう食べているだろうか。ちなみに私の場合、松重豊が、青森あたりの道の駅で、真っ赤に熟れたリンゴを頬張りながら、お決まりのナレーションでセリフを発している。
私は、この情景が共有されない可能性を避けたがっている。
「同じリンゴの赤を見ているのか?」という恐れがあるらしい。
気持ちよくタイトル回収を終え、余韻に浸りたいところだが、追加で説明しておきたい。私がなぜ、このような恐れを抱えてしまっているのか考えると、そこにはやはり、自作への愛着があるからではないかと思う。
例えば勇者が魔王を倒した後、涙を流していたとする。そこに感想が来て、「勇者のうれし涙、感動しました!」と呑気に言ってくる。だが、もしもその涙が「やるせなさ」を想定して書かれていたら? そんな場面を想像するだけで、嫌な気持ち――その欠片とも言いがたい、もっと小さな粒のような感情――が芽生えてくる。自ら書いた作品だからこそ、解釈より一段上にある、絶対的な正解を知ってしまっている。だからこそ、他者がのたまう「解釈違い」が「間違い」と化し、そのインパクトが増すのである。
しかし、この「間違い」は本来、受容されるべき点なのだろうとも思う。長年親しまれている小説やマンガには、たいてい読者によって解釈が割れる点がある。それが何年、何十年に渡って語られるための種となっている。また、国語の試験で定番となっている「登場人物の気持ちを答えなさい」。この問題の対象とされるのは、繰り返し読むに値するような名作が多い。名著の作者たちは、そんな問題を作られる「隙」をあえて作ったのだろう。その一手によって、作品の奥行きは格段に広がったはずだ。
地の文だけで全てを語り、読み手が全知全能の神となってしまうような、作品の世界を端から俯瞰させられているような、そんな作品はつまらない。明確な根拠を用意せずとも、直感的にそう思う。現実世界で心が読めるわけでもあるまいし、目の前の人間が何を考えているかなんて想像でしか語れない。だからこそ、想像という作業に取り組みがいがあるからこそ、読書体験は楽しいものになるのだろう。
最初に述べたとおり、この文章は自戒用であり、私が多種多様な解釈を受け入れるための第一歩とするつもりだ。
だが、そうだとしても、急に地の文を削り出したり、セリフ主体の小説ばかりを書いたりするつもりはない。「まあ、青リンゴくらいは許してやるか」なんて、少し驕った寛容さを確保するだけである。




