Episode16.家路
長らく更新ストップしてました。
プロットが完成したため、少しずつ更新していきます。
ざっと見積もった感じ70話ぐらいになるかもしれません。
「イグニスさん!」
最初はそれを幻聴だと思った。それはここにいるはずのない人間の声であったし、なにより仲間の声であったから。追い詰められ、仲間が救出してくれるのをあり得ないと思いつつ願ってしまうイグニスにとっては、何とも都合のいい声だったのだ。
吸血鬼に捕まらないようひたすら攻撃を避けることに専念していたイグニスは、声のした方に目を向ける。剣を両手で構えてイグニスの方へ駆け寄ろうとしているシンシアは、とても幻覚のようなぼんやりした存在には見えなかった。
「はぁっ、はぁ、おまっ、どうして……!」
「助けにきました。もうすぐアルフレッドさんとシュナイダーさんも来ます!」
「たす、けに……」
あり得ない。ネストが許可をするはずがない。自分が彼の立場だったら犠牲を最小限に抑えるために、救援など出さなかっただろう。
なら、シンシアは――シンシアと双子は、上官の命令に背いてまでここに来たのか? 下手したら全員捕まるかもしれないのに……?
いつものイグニスであれば迷いなく怒鳴りつけただろう。時には切り捨てることも必要だと諭しただろう。
しかし、今のイグニスは頭に浮かべた言葉の何一つ、発することができなかった。ただ胸が熱くなり、助けがきたという安堵がじんわりとしみる。
「イグニスさん!」
「っ……!」
伯爵の爪が横薙ぎに振り回され、イグニスは反応に遅れる。飛ぶようにして駆けつけてきたシンシアの長剣が、すんでの所で吸血鬼の右手ごと爪の攻撃を受け止めた。
まずい。まだ人間のシンシアと吸血鬼とでは腕力の差は歴然としている。このままでは力負けする。
瞬時に頭を切り換え、イグニスは片足を軸に左足を振り上げると、シンシアの長剣の上から伯爵の右手を蹴り飛ばした。
ギャアアアアアァッ!!
シンシアの腕の力に加えイグニスの蹴りの力が負荷された剣は、伯爵の右手を半分に寸断した。
さすがに痛みを感じたのか、伯爵が咆哮を上げ後ろへ飛び退いた。
「い、イグニスさん! この剣両刃ですよ?!」
「あー……平気。俺靴底に鉄入れてるから……」
「そ、それはそれで剣の方が心配なんですが……。いえ、いいです。この剣折れてもいいですから、一緒に帰りましょう!」
「その剣、確か親父さんから貰った大切な物じゃなかったか?」
「そうですけど、いいんです。剣なんかよりイグニスさんですよっ。大丈夫なんですか、その傷!」
「……平気だ」
仲間の声が聞けるというのが、こんなにも得難いことだなんて思ってもみなかった。あたたかく、自分を心配してくれる存在がいる。傷ついた身体を支えてくれる存在がいる。
こんな場所でなければゆっくりとその幸福感を噛みしめたのだろうが、生憎イグニスたちには時間がない。
既にイグニスが攻撃を仕掛けて10分が経とうとしていた。のんびりしていると吸血鬼側にも救援がやってくる。
「なんで……ふたり?」
伯爵がふらふらと身体を揺らしながら首をかしげた。顔はイグニスの発火念力によって所々焼けただれている。焦点を結ばない目も相まって、その様子には正気の欠片もなかった。
正直、今までイグニスが生きていられたのは伯爵に毒が回り正気を失ったおかげだった。今の彼は通常の吸血鬼の半分の身体能力しか出せていない。……それは同じく毒を食らったイグニスにも言えることだったが。
「ひとり、ふえた? なんで? おなかへってないのに。えさがふえた。でもたべなきゃ。それがこのほしのため。うん。にんげんたべなきゃ」
「……? なんか様子がおかしくないですか?」
「毒を食らわしたら精神がイカレた。動きも鈍くなってるから簡単に退治できるぞ。おい、双子はまだ来ないのか?」
「そ、それが、シュナイダーさんの瞬間移動でバルコニーまで飛んだら、床に足を突っ込んじゃって……今二人はバルコニーの床を壊してる最中だと思います」
「そんなことだろうと思った。ったく……仕方ない。あいつらが来るまで協力して応戦するぞ。お前が剣で攻撃を受け止めて、俺が蹴り飛ばす。攻撃は仕掛けるな、防戦だけに集中しろ」
「はい!」
吸血鬼相手に一般戦闘員ですらないシンシアを戦いに加えるなど、通常ではあってはならない。吸血鬼と相対して戦うことができるのはジョーカーだけであり、それ以外は無駄に命を散らす結果に終わるからだ。
相手が弱り、動きが鈍くなっているとはいえ、かなり無茶かもしれないな。イグニスは自嘲しつつシンシアの後ろにぴたりとくっついた。
「右だ!」
「っ……! 重いっ……」
イグニスの声に即座に反応したシンシアは右からの攻撃を剣で受け止める。重い一撃に手から剣が弾かれそうになった瞬間、イグニスの右足が伯爵の脇腹にめり込んだ。
鉄を入れた靴底で入れた蹴りは、ハンマーの一撃と同等の衝撃を与える。伯爵の身体がくの字に折れ、血走った目が見開かれた。
すかさず発火念力を伯爵の顔に向けて放てば、肉の焼ける嫌な音と伯爵の短い悲鳴が部屋に響いた。
シンシアの剣から爪を離し伯爵はいったん飛び退く。顔に着いた火は手で少し擦っただけで消火されてしまった。
だが今の攻撃で両目を焼かれたらしく、更に動きがおかしくなっている。
吸血鬼は目をやられたとしても匂いや音で敵の場所を感知する。まだ油断はできなかった。
伯爵は匂いに集中してこちらの位置を探っているようだった。普段ならぴくりとも動かない鼻が盛んに膨らんだり萎んだりしている。
「左に避けろっ」
イノシシのように猛進してきた伯爵を左に走って躱す。1秒後、イグニス達が背中を預けていた壁に鋭い爪の斬撃が残った。
伯爵は仕留め損ねた獲物に喉を鳴らし、再び匂いで感知しようとするが一瞬遅い。イグニスの発火念力が今度は鼻と耳を焼いた。
ギャアアアアアッ
慌てて消火しようとして、自身の爪で傷をつけてしまったらしい。片耳に爪が刺さりそのままもぎ取られた。ぼとりと伯爵の身体から離れて落ちるそれを見てシンシアが息を呑むが、その声はもはや伯爵には届かない。
五感のうち、視覚、聴覚、嗅覚を奪い取ってしまえば、どんなに優れた生き物でも無力な存在となる。
焼けた顔から煙を上げながら無意味に爪を振り回す伯爵に、イグニスはようやく安堵のため息をついた。
「もう俺たちを探せないが、念のため伯爵には近づくな」
「は、はい。あっ、今縄をほどきますね」
シンシアは初めての吸血鬼との戦闘に怯えていた様子だったが、唾を少し飲み込むと再び真剣な顔をしてイグニスを縛る縄と鎖に集中した。
ようやく解けた拘束に身体の力が抜ける。それを予測していたのか、シンシアがイグニスの脇に身体を入れて支えてくれた。
「だっ、大丈夫ですかイグニスさん! 手首、折れてますよね。それに右目も……」
「あと肋骨何本かやられたな。内臓も破裂してる。毒も食らった。あー……しんどい」
「しんどいの一言じゃすみませんよ?!」
顔を真っ青にして叫ぶシンシアに、少しだけ笑った。これが人間なら確かにしんどいどころではなく、命を落とすだろう。
だが自分たちジョーカーは心臓を潰されるか首を切断されるかしない限り死なないのだ。これを教えたら、どう思うだろう。自分のことも化け物と糾弾して怯えるだろうか。
急速な眠気に襲われる。命の危機が去った途端、脳が傷ついた肉体に回復のため休めと命令したのだろう。眠った後は組織を再生させるため肉を大量に食べたくなるはずだ。
――自分はこうやって、もう何十年も生かされている。
「隊長! 無事ですか?!」
双子がタイミングよく部屋に入ってきて、爪を振り回し暴れる伯爵に眉を顰める。
すかさず武器を構えたのはシュナイダーの方だった。巨大な鋏型の武器を両手で持ち直す。
普段は二刀流だが、中心を組み合わせることにより敵の首を切り落とす鋏になる、シュナイダー独自の武器だ。
「兄貴、まだ死んでねぇじゃん」
「僕が見たときには倒れてたんだけど……でもまぁ、無力化はしているみたいだ。とどめを刺そう」
「言われなくても、おらっ」
肉弾戦が得意なシュナイダーが切り込み、鋏の片刃を一閃二閃させ吸血鬼の腕を根元から断ち切った。
爪という武器をなくした伯爵は見えない目をしきりに彷徨わせていたが、背後からシュナイダーにのしかかられると力なく地面に這いつくばった。
「隊長、既に吸血鬼は一匹捕獲してあります。こいつは殺してもいいんですよね?」
「ああ。予想外に時間が経ってる。急いで脱出するぞ」
「了解。運がよかったな、畜生め」
両刃を伯爵の首筋に合わせ、力を込めて鋏を閉じる。肉と骨を断つ鈍い音がした。
ようやく絶命した伯爵だったが、シンシアの顔は相変わらず青いままだった。
最初に見せるには衝撃的な殺し方だったかもしれない。こんな場所まで命を省みず突っ込んでくるような人間だからつい忘れてしまうが、彼女はまだ17歳であり、これが初めての狩りなのだ。
励ますように肩を叩けば、紫色の唇を噛みしめて何回か頷く。小さく「大丈夫です」と呟いた。
「シュナイダー、君の瞬間移動で脱出するよ。あの丘のところへ。今度は失敗しないように」
「分かってるよ!」
シンシアが支える方とは反対側をアルフレッドが支え、バルコニーまでイグニスの身体を運ぶ。
彼等の背中をおうようにドンドンとドアがしきりに叩かれた。声から察するに、小火に気付いたこの屋敷の使用人が叩いているらしい。
今まで使用人達が来なかったのは偏に、伯爵自身が人払いをしていたからだ。イグニスがいくら叫んでも不審に思われないようにとの措置だろうが、それが功を奏した。
だがこれ以上ここに留まれば今度は人間の相手もしなくてはならなくなる。イグニスはシュナイダーに視線を向けた。
目を懲らして位置の調整を終えたシュナイダーは、両腕を広げ三人の肩に触れると、一気に飛んだ。