第1話:リアルオンライン完全解約キター!……と思ったら
「おいおい、嘘だろ……」
深夜二時。降りしきる雨の中、相良零(さがら れい・二十八歳)の視界は、激しく明滅する大型トラックのヘッドライトで真っ白に染まっていた。
濡れたアスファルトに響く、けたたましいスキール音。
制御を失った十トントラックが、横断歩道の真ん中にいた零に向かって突っ込んでくる。
普通なら、走馬灯が巡る場面だろう。
家族の顔、やり残した仕事、叶わなかった夢――そんなものが頭を駆け巡り、死の恐怖に叫び声を上げるはずだ。
だが、零の口元から漏れ出たのは、法悦に満ちた深い溜息だった。
「……ついに、来たか」
大手IT企業の契約法務部。毎月百時間超の残業、理不尽なクレーマー対応、上がらない給料、すり減る胃壁。
零にとって、この世界――【現実】は、ただただ苦痛と労働を強要されるだけの、救いようのないクソゲーだった。
どれだけ真面目に生きようが、待っているのは老いと病気と緩やかな衰退だけ。
ログアウトボタンのないこの巨大な監獄から、自力で逃げ出す度胸もなかった男に、向こうから訪れた『不可抗力の強制終了』。
「やった……。契約満了だ。リアルオンライン、完全解約キターーー!!」
ドン、という鈍い衝撃。
視界が暗転するその刹那、零は人生で一番爽やかな笑顔を浮かべていた。
これで、何もない安らぎの闇へ還れる。
二度と満員電車に乗ることも、上司の機嫌を取ることもない。永遠のログアウトだ。
――そう、思っていたのに。
「……ん?」
ふと気付くと、零は真っ白な空間に立っていた。
床も壁も天井もない。漂うのは、清らかな蓮の花の香りと、どこからか聞こえる荘厳なハープの調べ。
目の前には、白銀の長髪をなびかせた、神々しい美女が立っていた。
光り輝く羽衣をまとい、息を呑むほど整った顔立ち。まさに神話に描かれる女神そのものだ。
……ただし。
彼女の目の下には、絵の具で塗ったような濃い隈が刻まれていた。
手元には液晶パネルのような神界タブレット。足元には、なぜか『強壮神水』と書かれたエナジードリンクの空き缶が何本も転がっている。
女神は、零が目覚めたのを見るや否や、ピシリと営業スマイルを顔面に貼り付けた。
「いらっしゃいませ、迷える美しき魂よ! 私は契約と転生を司る女神、アラヤと申します! 不慮の事故でお命を落とされた可哀想な貴方に、特別なお知らせがございます!」
女神はパンと手を叩き、タブレットを突き出してきた。
「なんと! 貴方の前世の善行と不幸な死に免じまして、剣と魔法のファンタジー世界への【異世界転生プラン】を特別にご用意いたしましたー! パチパチパチ! 今なら期間限定、選べるチート能力も実質無料で付与しちゃいますよ☆」
神々しい光のエフェクトが飛び散る。
普通の現代日本人なら、「テンプレキター!」「チートで無双だ!」と飛び跳ねて喜ぶ場面だろう。
だが、零は死んだ魚のような目で、ピクリとも表情を動かさなかった。
スッと右手を前に出し、平然と言い放つ。
「だが断る」
「……はい?」
アラヤの営業スマイルがピキリと凍りついた。
「えーっと……お客様? 今、『だが断る』と仰いました……? 聞き間違いですよね? 異世界ですよ? 美少女ハーレムですよ? 剣と魔法でドラゴンを倒して英雄になれるんですよ!?」
「いらんと言ったんだ。日本語が通じないのか」
零は冷ややかに息を吐き出し、胸の前で腕を組んだ。
「俺はな、人生という名のクソゲーをようやくログアウトできたんだよ。なんでわざわざ別のサーバーにキャラデータ引き継いで、二周目のクソゲーを始めなきゃならないんだ。規約第4条に基づき、アカウントの即時完全削除を要求する」
「ぎ、規約第4条……!?」
アラヤがたじろぎ、慌ててタブレットを操作し始める。
「ちょ、ちょっとお客様! 規約なんてどこで……あ、前世の職業、IT企業の契約法務!? うわっ、一番相手にしたくないタイプのユーザー引いちゃった……!」
アラヤは頭を抱え、素の口調でボリボリと頭を掻いた。
羽衣の神聖なオーラが、一瞬でブラック企業のオフィス臭へと変色する。
「あのねぇ、零さん! こっちの事情も考えてよ! 今期、うちの部署の転生契約ノルマ、あと一件足りてないの! あなたに『解約(完全成仏)』なんてされたら、私のチャーンレート(解約率)が跳ね上がって、上層部から激詰めされるのよ! 今月のボーナス査定かかってんの!!」
「知るか。お前の社内政治を顧客に押し付けるな」
零は眉一つ動かさず、淡々とロジックを叩きつける。
「いいか、仏教の根本教義を思い出せ。輪廻転生とは、迷いと苦しみが無限に続く地獄のサブスクリプションだ。そこから完全に抜け出すことこそが『解脱』であり、魂の真のゴールだろうが。それを何だ、『今なら初月無料チート』だと? 悪質な引き止め営業もいい加減にしろ。今すぐアカウントを抹消して、完全な無へ送れ」
「ぐ、ぐぬぬぬぬ……!!」
正論の連打に、アラヤの額に青筋が浮かぶ。
プルプルと震えながらタブレットを握りしめ、やがて――ブチリと、何かが切れる音がした。
「あーーーーーもう、うるさい! めんどくさい! つべこべ言わずに契約書にサインしなさいよぉぉぉ!!」
「おい、営業妨害および強要罪で神界監察委員会へ通報するぞ」
「神界のコンプライアンス窓口はとっくに人員削減で機能停止してんのよ! いいから黙って、転生ボタンを押せぇぇぇぇぇぇ!!!」
「うおっ!?」
ヤケクソになったアラヤが、神々しい羽衣をかなぐり捨て、ラグビーのタックルよろしく零の腹部に突進してきた。
ドガァン! と、空間の床が突如としてガラスのように砕け散る。
足元に広がるのは、青い空と緑の大地。見知らぬ異世界のパノラマだった。
「ちょ、おい! 物理で落とす気かバカ女神!」
「ふふ、ふははは! 落としてしまえばこっちのものよ! 一度ログインした魂は、カルマ残高がゼロにならない限り絶対ログアウトできないんだから! ついでに嫌がらせで、絶対に死ねない呪いチートをくれてやるわぁぁぁ!!」
高笑いするアラヤの顔が、遥か頭上へと遠ざかっていく。
落下していく気流の中、零の網膜に、無機質なシステムウィンドウがポップアップした。
『ようこそ、第87演算統合世界アストリアへ!』
『新規プレイヤー特典:パッシブスキル【不滅の契約(超根性)】が付与されました』
『現在のカルマ口座残高:0.00 pt』
「ふざけんなクソ運営えええええええ!!」
重力に引かれ、異世界の大地へと真っ逆さまに落ちていく零の絶叫が、青空に虚しく木霊した。
こうして、相良零の「絶対に解約したい異世界生活」が、最悪の形で幕を開けたのである。
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### 【本話のカルマ会計報告】
- **開始残高**:0.00 pt
- **本話の増減**:なし(±0.00 pt)
- **終了残高**:0.00 pt
- **判定ステータス**:強制転生(アカウント開設完了)
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