樹林の中のデッキチェアを思う
*
日曜日、女は駅の改札前に現れた。
彼女は若かった。明るく染めた髪を頭の後ろで束ねていた。その髪型は彼女のうなじの繊細さを感じさせた。彼女は細身で、岩手沿岸の人間の多くがそうであるように少し背丈が小さく、しかしお洒落だった。西洋人由来の瀟洒な衣服を、それがスーツであれセーラー服であれ日本人が着こなすには体は細くなければならない。彼女の若さは腰から尻へのラインの線の華奢さにも表れていた。男に求められる女の多くが時を経ずしてそうなるように、彼女はメイクが上手だった。彼女は元妻の三万倍は外見が良かった。僕は宝くじで三万が当たったので何にでも三万倍とか、数字を当てたくなってしまう。
「とてもお綺麗ですね。眩しく見えます」僕は女に言った。その時、元妻の腋が少しばかり匂ったことを頭の隅で思い出した。女の体は彼女たちがお洒落な衣服で男の注意を惹きつけるほどには綺麗ではない、と僕は思った。働く男の汗の匂いとは質が違う。中年男は女について理想を抱かない。少なくとも僕はもう十代の少年ではないということだ。
我々は喫茶店に入って話をした。
「コーヒーを飲む前に舌を出してください」いきなり女は言った。「舌の色を見れば健康状態も大まかな人柄も私、わかるんです」
へえ、と僕は言って間抜けにも舌を出した。昔は血液型で人の性格を類型したものだが、今は血液型ハラスメントという言葉がある。令和現代の人間たちが血液型でなく、どのように人間を類型しているのか僕は知らない。犬派とか猫派とか、当たり障りのない類型を用いるのだろうが、舌の色からその人間を判断する、という類型もあるのかと思った。
わかりましたと女は言った。何がわかったのかと僕は舌を引っ込めて当然の質問をした。
「血色が良くて舌苔のない舌でした」女は答えた。「自然の中にアウトドア的に行くのが好きな人の舌です。健康な血色のいい舌の人は活動的な趣味や仕事を好みます。唾液の量も十分にあってお体が若いです。口臭もなく、酒や煙草を飲む男性でもありません」
「郵便配達の仕事をずっとしていて、今は新聞配達と営業をしてるんだ」僕は答えた。「活動的な仕事を好むというのは当たっていると思うな。アウトドア好きというよりも仕事で毎日強制的に外に出ている。そしてその仕事を好んでいる。煙草はやらないけど酒は少しだけ飲むよ。身体やら舌やらに影響が出ないくらい嗜む。だから大体、当たっている。君のことについて知りたいな」
彼女は名前を教えてくれた。名前は松本桜良といった。若い女の子らしい名前だね、と僕は言った。悦子とか、典子とか、昌代とか、昭和に少女時代を生きた女の子たちとは名前そのものが違う。松本桜良。綺麗な名前で似合っている、と僕は朴訥に伝えた。
コーヒーはもう飲んでもいいかな、と僕は聞いた。いいですよ、と女は答えた。
『いいですよ』と僕は頭の中で繰り返してコーヒーを飲んだ。僕は元妻との夫婦関係が許可制だったことを思い出した。元妻はよく言ったものだった。そこに座ってもいいよ、冷蔵庫の麦茶飲んでもいいよ、ご飯食べてもいいよ、もう寝てもいいよ、等など。世の中には男に許可を与える種類の女が存在する。
それから我々はゲームセンターに入り、ゾンビを射撃するゲームとマリオカートを何回かしてからカラオケ屋に向かった。松本さんは僕の知らない若い人の歌を唄った。僕は若い女性が歌を唄うのを見るのが好きだ。小学生が体育館のステージで課題曲を唄うのを見るのも同じくらい好きだ。そこには何かしら心惹かれるものがある。自分が若かった頃の弾むような息を思い出すせいかもしれない。
中年男とは――。中年男は樹林の中に持ち出されたデッキチェアを僕に思わせた。僕は想像する。森の葉と下草の匂いの中でデッキチェアに腰かける。そして周囲の人々を見守る。年取った今、若い頃のように樹林の中を駆けまわったり探索したりというわけにはいかない。小学生には体育館のステージを、若い女性にはカラオケの室内を。それぞれの世代の人々を中年男は見守る。樹林の中のデッキチェアに腰かけてただ見守る――。