↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/11

古代の匈奴の女について思う

 元上司は黙った。

 そして携帯電話をポケットから出した。「俺の待ち受けや」と元上司は言って携帯電話の画面を僕に見せた。そこには僕の元妻と元上司がディズニーランドで笑っている待ち受け画面があった。幸せな略奪婚夫婦の姿がそこにあった。

「嫁さんを愛してるんや。俺の人格を疑ってもええ。でも俺の愛だけは信じてほしい。俺は嫁さんを本気で愛してる。必ず嫁さんを幸せにしてみせる。『幸』せって字と『辛』いって字を時々、間違えんように気ぃ付けるんやけどな。字が似とるやろ。おまえも気ぃつけえ。おまえは幸せと辛いを間違ごうとるわ」

 元上司は僕が風呂にもろくに入っていないし歯も磨いていないし髭も剃っていないと知った。元上司はもう(こら)えきれないというように噴き出して(おお)(わら)いした。「おまえ、不幸のどん底やな。おもろいわぁ」と。

「あなたが一人の人間を不幸と苦しみの中に突き落としたということは知っておいた方がいい。もう帰ってください」

 別れ際、元上司はまた噴き出して大嗤いした。元上司は最後まで謝らなかった。この男はとことんまで僕を嫌っている、と気づいた。

『赦しなさい』とキリストの声が聞こえた気がした。僕はキリストを、何と人の心がわからない神だろう、と憤慨しながら風呂に入った。歯を磨き、髭を剃った。僕は幸せになっていく元妻のイメージチェンジした姿と元上司の嘲笑を思い出す。怒りが湧き上がって自分でも抑えることが難しかった。

 洗面所の鏡に映った姿は自分で思っていたよりも『まとも』だった。頬の肉が落ちて顔が細くなり、目の下にうっすらとくまが出来ていることで疲れた中年男に見える。だが伸びた髪をオールバックにした渋い中年男の姿がそこにあった。僕はもともと顔立ちがいい。(クリント)・イーストウッド氏の日本版みたいな顔をしている。むしろ僕は若返ってさえ見えた。そうか、元妻と元上司はディズニーランドに行ったのか、と思う。あの闊達(かったつ)に喋る元上司と一緒ならどこに行っても愉しいのだろう。それにしても、と思わずにいられない。

『赦しなさい』と再びキリストの声が聞こえた。地震でもないのに視界がくらくらと揺れた。僕は眩暈(めまい)を感じてその場にしゃがみ込んだ。耳の奥から激しい耳鳴りが響いた。僕は耳の中の器官の複雑さについて知識があるかどうか自分で確かめ(その知識はないと僕は断定した)、それからアナウンサーのように落ち着き振る舞えと自分に命じた。また元上司に大嗤いされることになるぞと。

 その日、耳鼻科医院で僕はメニエール病と診断された。眩暈と耳鳴りに悩まされる病気だ。その患者の半数は近くうつ病を発症するという。僕にはもう正しい生き方などわからない。正しく生きても間違って生きても、不幸はどちらにも起こり得る。ただ間違って生きた方はあの元上司のように顔が老け込み弛む。体はぶくぶくに太る。老いを隠せなくなる。本人がどんなに『老害』という言葉を嫌ったとしても間違って生きたらそうなる。

 僕は携帯電話で宝くじの当選番号を調べた。僕は元妻と離婚する直前に三万円分の宝くじを買っていた。それは以前からの習慣だった。離婚を迎えることになっても僕はその習慣を変えることができなかった。その宝くじで三万円が当たっていた。僕は何度も確かめたが確かに三万円だった。

 その時、電話があった。耳鼻科医院の事務員の女が親切にも保険証の有効期限のことで電話をくれた。僕はその電話が特にかける必要のない電話であることに気づいた。病院の待合室で事務員の女が僕の目をじっと見て受付をしたことも思い出した。まだ二十代後半の女だろう。電話の用件が終わった。女は何かを待つように黙った。この小さな親切へのご褒美を求めている。

「あの、僕は大宮高夫といいます。初めまして」僕は気づくと言っていた。「夜の十二時になった瞬間にもうお別れということでも構いません。一緒にどこかに出かけませんか。一日だけ僕にデートのチャンスを与えてください。精一杯あなたのために尽くしますから」

電話の向こうで事務員の女は黙った。それから「いいですよ」と彼女は言った。

 僕はふと古代、匈奴(きょうど)の女について思った。すぐ南に漢民族という贅沢(ぜいたく)な地に生きる民族がいると知りながら暮らす。女はその種の他者との比較により敏感な気がする。女が自らの環境が劣ると感じるならば男はそれを救わなければならない。古代匈奴の時代から男も女も大変だなとデートを前に僕は思う――。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。