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雨傘を持った高校生を思う

     *

 その日、僕は朝刊の配達を終えてパンを齧っていた。

 パンの耳というのはどうしてこんなに堅いのだろう。むっし、むっしと奥歯で噛み潰す間に歯と歯茎が悲鳴をあげ始めるのがわかる。あるいは僕は厳しい現実を咀嚼(そしゃく)することに苦しんでいるのかもしれない。僕は歯の痛みを抑えるために鎮痛剤を飲んだ。

 元上司が僕のアパートを訪れて来たのはそんな時だった。ドアベルが鳴らされ、僕が玄関ドアを開けると元上司が立っていた。僕の元妻と不倫を重ねていた元上司だ。元上司と目が合った。元上司は言葉を発せず、まるで空を飛ぶ不思議な列車にでも遭遇したかのように僕を見た。僕に向けて、この男はなぜこんな貧乏アパートで惨めな暮らしをしているのか、全く理解できないと言うかのように。

 元上司は以前よりも太っていた。半袖のワイシャツの腹が出て、ズボンのベルトがしがみつくように下腹に巻き付いている。元上司はもう五十代の半ばだ。髪は染めて黒くしているのだろうが顔にははっきりと(たる)みが現れている。元上司が『老害』という言葉を嫌っていたことをふと思い出す。そんなに老いるのが嫌なら地道にダイエットすればいいだろうに、と僕は思った。

「ほいでな、うちの新しい嫁(僕の元妻のことだ)が胸騒ぎがする言うんや」元上司はまるで昨日の会話の続きでもするように言った。「しつこく、しつこく言うてくるもんやから俺も嫌々、おまえのとこを訪ねに来たわけやけど。胸騒ぎは当たったな。おまえ、まともな生活出来てないやろ」

「言っていることがよくわかりません」僕は答えた。「何しに来たんですか。僕のサイン入り色紙でも貰いに来たんですか」

「ええの? ほな親戚にも配るから十枚だけ貰える? ……ってサイン貰いに来たん違うわ。とにかく中に入れてくれへんか。外は暑すぎるし、ドアずっと開けてたら蚊が入るやろ。何も迷惑はかけへんから」

 僕はしぶしぶ元上司をアパートに入れた。

「若い頃にこんなアパートに住んでたわ」元上司は1Kの部屋を見廻した。「俺の家は母親がいなくて父親一人やったから、大阪から上京した時、貧乏アパートに入ってん。今思えばええ経験やったわ。まさかその東京から岩手の郵便局に飛ばされるとは思いもしてへんかったけどな。で、茶ぁも出えへんのやな」

「当たり前です。茶はなしです。あなたにほっとしてもらいたくないです。早く帰ってほしいくらいです」

「そう言わんといてや。嫁さんに言われて来て、すぐに帰るわけにもいかんやろ。嫁さんは今、家の掃除中やしな。俺も何かせな」

「あと二十歳、若かったらあなたをぶん殴っていたと思います。殴って、蹴って、あなたを叩きのめしたと思う。でも今の僕はそれをしません。試合終了の笛はもう鳴ったんです」

「そりゃ、殊勝な心掛けや。生活は惨めに落ちたみたいやけど心はまだしっかりしとるな。おまえらしい。うん、おまえらしい」

「でも僕についてあなたは何も知らない。僕は人を斬る刀は持ち合わせていない、と今知った以上のことは何も知らない。あなたは何も知らない」

 そして言ったきり僕の心は灰色に曇った。

 (うれ)いとは――。憂いは雨傘を持った高校生を僕に思わせた。僕は想像する。僕が少年の頃、雨傘を差した黒い詰襟の高校生を見かけた。まだ時代の空気が理屈っぽくて若者にも一定の読書量が求められた時代だった。昭和の高校生には憂いがあって格好良かった。僕の内には未だにあの時代の高校生の像がある。そして自らの人生に憂いを持って生きていく。今の離婚もまた憂いだ。雨傘を持った高校生を思う――。



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