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若い女性との突貫工事を思う

 僕と松本さんは親父たちの集まる居酒屋に行き、酒を飲んでつまみを食べた。

 松本さんは珍しそうに油と煙で汚れた居酒屋の内壁を見廻した。こういうところ、初めて来ますと彼女は言った。店の客の親父たちは若い松本さんをじろじろと見た。僕は気にしなかった。もし若い女に手を出したいストレスがあるならば女を買うなり何なりすればいいと僕は思った。頭の天辺の蓋を開けて外にストレスを噴出してしまえばいい。中年になったら自分に合ったやり方は当然もう知っているはずだ。

 夜の八時を過ぎた頃に我々は店を出て駅まで一緒に歩いて別れた。

「一日、付き合ってくれてありがとう、心配だから家まで送って行きたいな」と僕は言った。彼女は、「職場の耳鼻科医院まで毎日列車で通っているから慣れています、大丈夫です」と言った。(たの)しかった、と僕は言ったが今日一日のデートを思い出してみても突貫工事をした工夫のように忙しかったという感想しかなかった。若い女の子とデートしたのは元妻がまだ若かった頃以来だ。若い女の子とのデートは『突貫工事のように忙しい』。

 松本さんは僕をじっと見上げていて、僕は思わずその唇に軽く口づけをした。僕ははっと気づいてまわりを見た。タクシーがうしろのロータリーを通り過ぎて行った。駅に集う人々も我々に注意を払ってはいなかった。

「僕は初めて女性とデートする時には自分が人間の服を着た猿にならないように気をつける。次にデートに誘う時も礼儀正しくするよ」

 僕は言った。だが松本さんは次のデートの約束も、また誘ってほしいの一言も言わなかった。彼女は自分が男性に求められていると確認するために、ただ口づけを受け入れてくれただけだ。やっぱり若い男の子の方がいいと思ったのだろう、と僕は思った。僕はここからさらにもう一押し、二押しするだけの精神的なエネルギーがない。仕方がない。僕は中年なのだから。

 その夜、アパートの台所で洗い物をしている時に激しい耳鳴りが鳴った。そして眩暈がした。僕は立っていられず台所のシンクの前に(うずくま)った。そして僕はそのままうつ病を発症した。僕はもう働くことができなかった。

 翌日、どうしても具合が悪いと言って朝刊配達を休んだ。僕はもう新聞配達も郵便配達もできなかった。心療内科に行ったが処方された抗うつ薬は効かなかった。抗うつ剤は、三か月は飲み続けなければ新しい薬が試せないという。人が活発に働くエネルギーを奪われて苦しんでいる時に、三か月もの期間を置け、とは長閑(のどか)な話だと思った。

 その日も僕は心療内科の小綺麗な待合室に座っていた。病院は交通量の多い国道に面している。患者のプライバシーを守るために窓にはブラインドが下げられて、スピーカーから無害なイージーリスニングの音楽が流れている。毎日の新聞配達に比べたら天国の雲に座っているかのような心地よさだ。

 その時、不動産屋から電話があって、家が売れそうです、あとは契約をする段階です、期待していいと思いますよ、と言われた。やっと安アパートの窮状きゅうじょうから脱することができると僕は思った。ローンが軽くなりアパートのランクも上げられる。その幸運に僕は必死ですがった。僕は幸せな元妻と元上司の嘲笑を思い出した。うつ病の僕の心に怒りは湧かなかった。ただ不快な感情が夕暮れの薄闇のように僕の心を暗く染めて覆った。そして僕は電話を切った。

 この時、僕は僕の窮状を知った元上司が同情をして家を買ってくれた、と知らなかった。元上司は元妻にせがまれたのだろう。元上司は元妻の趣味が込められた家を手に入れて元妻の機嫌を取ろうとしたのだろう。元上司のその判断は僕を経済的に救うことになったが僕はまだその事実を知らなかった。

 僕の人生には何の救いもないけれど。けれど。けれど。けれどです、イエス様と僕は祈った。人生がどん底の悪い時にあるからこそ祈らなければならないと僕は思うのです。

 僕はうつ状態で心療内科の待合室に蹲って動けなくなった。ただ動けないままに心の中で神に祈っていた。


 

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