1-24 光に背を向けて
清々しい気分だった。
何しろ仕事を辞めると決めた日の夜だ。
すべての重荷から解放された。そんな気がしていた。
「さぁて……」
ひとまず俺は宿屋に戻った。傍らにサラはいなかった。
「あ、おかえりなさい!」
「おう、リースか」
声をかけてきたのは、宿屋の娘だ。名前はリース。
この宿を借りていた頃からの昔馴染みだった。
最近は忙しそうにしていたから、あまり会話を交わすことはできなかったけれど。
金髪ポニーテールを揺らすリースは、俺を見て快活な笑顔を向けた後、何だか不思議そうに小首を傾げた。
「……どうか、したんですか?」
「何か気になるか?」
「いえ……何も、ないならいいんですけど」
リースの心配そうな顔が、やけに印象に残った。
「荷物、置いてくるわ」
「はい。……そういえば、サラちゃんは一緒じゃないんですか?」
「……もう俺は、あいつの傍にはいてやれない」
「えっ……?」
「サラはきっと凄い冒険者になる。こんな俺とは違って、サラにはそれを為すだけの覚悟がある。お前も応援してやってくれ」
「ロイドさんは……!?」
リースの質問に、俺は振り向いて彼女と視線を合わせる。
「辞める、ことにしたんですか?」
「ああ」
「そうですか……あたしは、止めませんよ」
リースの言葉を背に、俺は階段を昇っていく。
「あたしはいつでも、ロイドさんの味方でいるんだって決めてますからね」
「ありがとなリース、そいつは嬉しい言葉だ」
でも、と俺は言う。
「俺なんかの味方をする意味はない。俺はお前が思ってるような奴じゃないから」
「……意味があるかないかは、あたしが決めます。これでも、ここに泊まっていたあなたの姿はずっと見ていた。あなたの弱さと――強さは、よく知っているつもりです」
リースは俺の後ろをついてきていた。
俺は部屋に入り、迷宮探索用の装備を脱ぎ捨て、普段着に着替える。
再び外に出ると、リースはまだ扉横の壁に背を預けていた。
「――これから、どうするんですか? 仕事」
「明日になってから考えるさ。冒険者よりマシな仕事なんて、いくらでも見つかる」
肩をすくめてそう言うと、リースはふふ、と微笑を浮かべた。
その笑みが寂しそうだったのはいくら俺でも分かったけれど、触れることはしなかった。
「うちで働きますか?」
「そんなに余裕があるのか?」
「あ、バカにしてますね? 従業員を増やす余裕ぐらいはありますよっ!」
「お前の母さんがもうちょっと動けなくなってからだったら、考えさせてもらうよ」
と、客の注文を聞きながらキビキビ動き回る店主の婆さんを見て、苦笑する。
「ありがとな、リース」
心配かけてごめんな、と。言外に告げて、俺は彼女の前を通り過ぎた。
そうして宿屋の外へ。
まだ夕刻だというのに、かなり暗くなっている。空は雲に覆われていた。
今にも一雨降りそうなその天気は、今の俺の気分には相応しくないものだった。
歩く。
宿屋からアールの酒場まで、だいたい徒歩五分ぐらいだろうか。
足は軽かった。裏路地をするすると潜り抜け、俺は酒場の扉を開ける。
「よう」
「ロイドか。まだ営業してないんだがね」
「いいだろ、多少は。そろそろ始めるんだろ?」
俺が言うとアールは肩をすくめて外の看板をくるりと反対にする。準備中から営業中へ。
「注文は?」
「とりあえず、エール」
まだ営業が始まっていなかったのだから当然だが、客はまだ俺一人だ。
静かな雰囲気の中で、アールがジョッキにエールを注ぐ音だけが聞こえてくる。
「そういえば、飯は頼まないのか。もう食ったのかね?」
「……あ」
「おいおい、どうしたのかね?」
「……単に、腹がそこまで減ってなかっただけだろ」
「なら、量は少なめで適当に作っておくかね」
アールは俺が座っているカウンターの前にジョッキを置き、つまみの豆を出してくる。
エールを一息に呷り、二杯目を要求した。今日は飲みたい気分だった。
祝杯を上げよう、新しい人生に。
「これは俺の持論なんだがね」
そんな時。アールは料理を作りながら、唐突に語り始めた。
「思うに冒険者――特に下層を目指すような連中は、総じて愚かだ」
「……そうだろうな」
「夢か、理想か、未知の探求か、使命か、運命の導きか――俺に、その理由までは分からない。だがね、わざわざ安定した狩場を作らず、ひたすら奥を目指すなどという効率の悪いことをしている以上は、相応の理由があるはずだ」
カラン、とグラスが音を立てる。俺はワインが注がれたそれに、口をつけた。
「そして相応の理由があってなお、挑む連中は愚かだと断言できる程度には、下層は地獄だ。人の生きられる環境ではない。どんな強さがあっても、死ぬ時はあっさりと死ぬ」
アールは元冒険者だ。俺たちがその背中を見てきた、第一世代の一人。
「俺は二度と訪れようとは思わないし、軽々と人が死ぬ仕事なんてうんざりだった。だからこの商売を始めたんだがね――その選択は正解だったと今でも断言できる」
俺もそうなりたいものだ。もう冒険者なんてうんざりだった。
「けれど、たまに思う。あの時、俺が冒険者を辞めていなければ、今頃どんな景色を見ていたのだろう、と。……つまらない感傷だがね」
「そうだな」
そんな仮定に意味はない。隣の芝生は青く見えるというだけ。それは冒険者という職業の、良い面しか見ていない――ありえないifの話だ。
料理を平らげると、俺は酒を追加で頼んだ。種類は何でも良かった。
「俺と君は、愚かではなかった。夢を追うよりも、現実が見える人間だった……これはそれだけの話なのかもしれないがね」
「……誰かから、俺のことを聞いたのか?」
「いや、君に何があったのかなんて、私は何も知らないよ」
――けれど何かがあったことだけは見ていれば分かる、それだけだとアールは言う。
「そうだな。元々、俺に冒険者は向いてなかったんだ」
皆は、俺が臆病になったと思っている。
アリサが死んだことで、仲間の死に対して過剰に怯えるようになった、と。
けれど、そんなことはないのだ。むしろ今までが無理をしていただけだ。俺は、最初から臆病な人間だった。それを冒険者への憧れで誤魔化していた。――だから、これは正確に言えば化けの皮が剥がれたというだけの話なのだ。
俺にあいつらのような勇気はない。あいつらのような英雄には、なれない。
――俺は、サラが思っているような奴じゃない。
俺の心は弱い。恐くて、怖ろしくて、自分の力だけでは何もできないのに、けれど仲間を死なせるのが怖い。仲間を危険に晒したくない。だから信じることができない。
誰よりも弱いくせに、自分よりも強い仲間たちの死を怖れている。
それでも、これまでは恐怖を乗り越える勇気をもって、立ち向かってきた。
けれど俺は弱いから、その心の灯――冒険へと赴かせる勇気と呼んでいたものは、どこかに消えていってしまったのだ。
『勇気を失った冒険者が、先に進むことはできない』
それがレックスとの最後の会話だった。
周りの連中に何を言われようと慣れているけれど、仲間の糾弾は堪えた。
酒の量が増えている。その自覚はあった。
来店を告げる鐘の音が鳴る。ぞろぞろと冒険者が入ってきた。
どうやら新人のパーティらしい。青臭い語りは、正直聞くに堪えなかった。
「アール」
「会計は……ざっとこんなところかね」
「随分と安いな」
「今日はまけておく。早く帰って寝るといい」
外に出ると、小粒の雨が降っていた。しとしとと身に降りかかる。
結構な量を飲んだ割に、意識は明瞭だった。
酒に飲まれないのは果たして良いことなのか、たまに分からなくなる。
近道のために裏路地を通っていると、酒臭い香りがぶわっと広がってきた。
大声を上げて、顔が赤らんだ男たちが笑っている。酔った冒険者たちだろう。
俺は彼らを無視して通り過ぎようとしたけれど、
「勝手に通ろうとしてんじゃねえよ」
酔ったごろつきのような大柄な男に、胸倉を掴み上げられた。
最初は周りの男たちもへらへらとしていたが、背の低い男が何に気づいたのか、急に怯え始める。
「お、おい……手を離せ。まずいって、こいつ、支援術師のロイドだぞ……」
「あん?」
大柄な男は胡乱気な目で俺を見たが、直後に冷静になったのか俺の胸倉から手を離す。
さぁっと、顔から血の気が引いていった。
「元勇者パーティの、一流冒険者……」
「す、すみません。こいつ、いつも見境がないもんで、へへ……」
そそくさと。
彼らはぺこぺこと頭を下げて、俺の前から消えていく。
普段は勇者パーティの寄生虫だの何だのと俺を馬鹿にしていたくせに、いざ目の前にすると文句の一つも言えないらしい。
「一流冒険者、か」
バカバカしい。所詮、一人ではさっきのごろつき連中にすら勝てないというのに。
あいつらは俺を見ていない。レックスたちと並び立つ俺を想像して、過大評価していただけだ。いくら普段はバカにしていたとしても、勇者パーティに所属していた以上それなりの実力はあると、そう思ってしまうらしい。
俺にそんな力なんてないのに。――培ってきた称号だけが、俺の力を誇張する。
雨は強くなっていた。いつの間にか土砂降りだった。
ざあざあと降りしきる雨の中で、傘も差さずに俺は立ち尽くしていた。
壁に背を預け、ずるずると俺は座り込む。体を叩く雨音が、ずっと耳元で響いていた。
「……弱いんだね、ロイドは」
気づけば。
雨の中、俺の前に、一人の少女が立っていた。
差していた傘を俺の上に掲げて、蒼い髪からぽたぽたと水滴が垂れている。
「知らなかったのか、俺が誰よりも弱い臆病者だってことを」
「……うん。わたしは、きみのことを全然知らなかった」
サラは雨に打たれていた。
風邪を引いてしまいそうだった。
だから、傘は自分に差してほしかった。
「わたしが見ていたのは、わたしの理想だった。今ここにいるきみじゃなかった」
「そう、だな……なら、分かるだろ」
俺は言う。本当はサラの途轍もなく大きな才能、その成長を傍で見ていたかったけれど。
「お前が本当の冒険者を目指すのなら、俺なんかの傍にいるべきじゃない」
「きみがもう冒険者でいられないのなら、わたしには何も言えない」
だけど、とサラは言う。
「――わたしは、きみを見て冒険者になろうと思った。きみに助けられて、憧れた。それがたとえ本当のロイドじゃないんだとしても、それだけは変わらないから」
サラは姿を消した。前なんて見ていないから、足音だけでそれを判断した。
雨が俺を叩くことはなかった。立てかけられた傘が俺の体を守っていた。――彼女は雨に濡れて帰ったのだろうか、と気づいた時にはもう遅かった。
起き上がる。
やけに体が重いと感じたけれど、服が水を吸っているのだから当然だった。
俺は宿屋に戻った。
リースは驚かなかった。何も言わずにタオルを貸してくれた。
サラが借りている部屋から音は聞こえなかった。この雨の中、どこかに行っているのだろうか。俺は体を拭くと、冒険者用の装備に服を着替えた。
サラが残していった傘を差して、俺は再び外に出た。
雨は少しだけ止んでいて、雲の切れ間から僅かに星が見えた。
「……行くか」
だから俺は――迷宮に向かった。
本当の意味で、冒険者を辞めるために。
想いを、断ち切るために。




