014:教会へ行こう
「さて、と」
アイリスが『チーハ魔』二巻を夢中で読み始めてから、数十分が経ったタイミングで神様は動いた。
「ギンちゃん?」
「みさき、オマエはそのままでいろ」
「あ、うん、わかった」
「よし」
がりっ、と舐めていた蜜石を噛み砕き、美咲ちゃんの膝から俺の方へとやってきたギンコ。
俺に向かい合う形で膝に座り、ギンコは気楽な感じに言った。
「そうご、散歩行くぞ」
「え? 今からか?」
ちらりと俺は窓の外を窺う。
ウルドガルドの空は大分暗くなっていた。
「いいだろ、付き合え」
「構わないけどさ」
さすがに暗くなってからも余所者が村の中を歩くのはどうなんだろう。
そんな俺の思考が伝わったのか、アイリスがスマホから目を上げた。
「えっと、ごめんなさいっ。ギンコさまっ、退屈させてしまいましたかねっ? でも、その、お散歩は――」
「気にすんな、ただの日課だ。ちょっとその辺を歩きたいだけで、建物の中に入りゃあしねーからよ。それでもダメか?」
「えっ、あっ、その……」
アイリスは少し困った様子で、迷った後に。
「……絶対に建物の中に入らないと、約束してくださるのなら……いいですよ」
そう、許可をくれた。
「おう、約束するぜ。あいりす。安心しろ、神は約束を破らねーんだ」
ギンコは、はっきりと誓う。
それに対し、アイリスは「ああ、それは安心ですねっ」と微笑んでくれた。
「心配すんな、すぐに戻るからよ。おら、行くぞ、そうご」
「はいよ、神様」
俺は、アイリスから借りて読んでいた『チーハ魔』一巻の文庫本をそっとテーブルに置く。
美咲ちゃんやアイリスが面白いというのならと読んでみたのだが、確かに楽しい話だ。
まだ三人目の魔王を倒したところだが、ピンチの女の子たちを主人公が次々と助けていくという、勧善懲悪のストーリーは読んでいて痛快で心地がいい。
続きは、また後で読ませて貰おう。
「ふたりとも、いってらっしゃい。あたしはアイリスちゃんと待ってるから、ギンちゃんは想護くんをよろしくね」
……よろしくされるのは俺なのか。
美咲ちゃんの言葉に軽くショックを受けつつ、俺はギンコと散歩に出るのだった。
◆ ◆ ◆
「着いたぞ」
アイリスの家を出て、しばらく歩いたところでギンコはそう告げた。
「ここは、あれだよな。村に入る前から目立っていた――」
教会。礼拝堂。
十字架はないけれど、そういった類いの存在であることは間違いないように見える。
どこか厳かな雰囲気の建造物。
ギンコは、ここに来たかったのだろうか。
「……なるほどな」
妙に低い声で睨みつけるように。
ギンコは、しばし厳重に鍵の掛けられた教会をじっと見つめてから。
ひとつ息を吐いて、言った。
「……よし、そうご。さっさと帰るぞ」
「えっ? もういいのか?」
「だいたいわかったからな」
「なにが?」
「オマエはまだ知らなくていいよ。気にすんな、後で教えてやっから」
「まあ、ギンコがそう言うなら」
本音を言うと超気になるが。
後で教えてくれるというのなら、そのタイミングで知った方がいいことなのだろう。
神様の言葉だ、ここは素直に聞いておこう。
「じゃ、帰るか。ギンコ」
「おう。なんか腹へったな。晩めしはなんだろ」
この神様、夕飯まで食わせてもらう気だ。
◆ ◆ ◆
ちなみに。
俺たちがアイリスの家から教会までの道を往復する際、いくつかの建造物を通り過ぎたが――
アイリスの家の他に、明かりのついている建物は存在しなかった。
やはり、今この村には彼女以外の人間は存在しないのだろうか。
……いや。
俺の気のせいでなければ、だが。
二ヶ所、気配らしきものを感じた建物があった。
アイリスとの約束があったから、その建物を確かめることはしなかったが。
ひとつは、ギンコの見つめていた教会。
ここからは、なんとなく嫌な感じがした。
あるべきものがなくて、いてはいけないものがいるような――そんな違和感があったのだ。
バチが当たるといけないから、口には出さなかったけれど。
そして、もうひとつ。
教会のすぐ近くの住宅から、人の視線のようなものを感じたのだが――こちらは不思議と不快には思わなかった。
むしろ、なんだろう。
ああ、本当に何故かはわからないけれど――
とても懐かしい、ような。
そんな気がしたんだ。
◆ ◆ ◆
アイリスの家に戻ると、美咲ちゃんが笑顔で出迎えてくれた。
「お、案外早かったね。ふたりとも、お帰り~」
「おう、まーな」
「ただいま、美咲ちゃん。……なに読んでるんだ?」
美咲ちゃんの手には、なにやら古そうな本が握られていた。
「ウルドガルドの本だって。アイリスちゃんが貸してくれたの」
「へえ」
彼女の隣の椅子に座って、ページを覗きこむとそこには見たことのない言語が並んでいる。
見たことのない言語、なのだが。
何故か、内容が即座に理解できた。
「……あれ? 俺、読めてる? これ、花畑がどうたら~とか書いてあるよな?」
「そりゃ読めるだろうよ。オマエ、この世界に《最適化》されてんだから」
美咲ちゃんの膝を再び定位置としたギンコが、なんでもないことのように言う。
ああ、なるほど。
英語ですら満足に読めない俺には不思議な感覚ではあるが、これは便利だ。
字面の感じからすると、一定のルールはあるようだし、少し練習すれば書くのも難しくなさそうだった。
同じように、アイリスには日本語の意味が、即座に脳内に刻まれるのだろう。
違いは、《最適化》が人間の方にかかっているか、本の方にかかっているかだけで。
「ただ、この本も読めるは読めるけど、言い回しが難しいね。『チーハ魔』ほど、サクサクと読めないや」
「まあ、それもそうだろうな。書き手だって違うわけだし――そう言えば、アイリスは?」
俺たちが散歩に出る前にはスマホ片手に『チーハ魔』を読んでいたはずだが。
「『チーハ魔』読み終えて、奥で晩ごはん作ってくれてるよ。手伝おっか? って言ったんだけど、丁重に断られちゃった」
さっきまでアイリスが持っていたスマホを俺に見せつけて、美咲ちゃんは「残念」と舌を出す。可愛い。
ギンコはと言えば、晩ごはんというワードが出た瞬間、「やったぜ」と小さくガッツポーズをしていた。
まったく、現金な神様だ。
「もう読み終えたのか、ずいぶんと早いな」
「ま、『チーハ魔』は台詞多目で読みやすいし、アイリスちゃん夢中で読んでいたからねぇ」
「ははっ。美咲ちゃんがスマホを貸してあげた甲斐あったな」
「あったあった。アイリスちゃん、ページを捲る度に表情変わるから見てて飽きないし、超可愛かった」
それはそのまま、普段の美咲ちゃん相手に俺がいつも感じていることなんだぜ。
とは、さすがに言わなかった。
美咲ちゃんが照れちゃうし、さすがに俺も少し照れくさい。
と、そこで。
「――あっ、お帰りなさい。想護さん、ギンコさま。無事に帰ってきてくださって、よかったです」
ひょっこりと奥から顔を出したアイリスが、ほっとしたような表情を見せる。
ちょっとした散歩なのに、大袈裟だなあ。
それもまた、彼女の優しさの証だろうが。
「もう少しだけ待っていてくださいねっ。お夕食、すぐにご用意しますからっ」
それだけ言って、すぐに引っ込むアイリス。
台所の方からは、ぐつぐつと材料が煮える音が聞こえていた。