11.頭に棲む蜘蛛
「ごめん!先に行く」
私は猛然と走り出した。
「待って、あたしも!」
葉子が追いすがる。
「お嬢さま、気いつけてくんなはれ!ワテもすぐ追いつきます」
ホピじいは短い足で走り始めた。
現実世界で七菜子は暴君だが、セブンスだけが生身の意思を持つこの世界で、彼女がどのような立場に立たされているのか分からない。
ひどく気が急いた。
美子を始め、第一世代の生き残りについては、噂でしか聞いたことがなかった。
他の数人の生存者とともに、防衛研究所で感覚遮断を施され、延命措置を受けているという見方がもっぱらだった。
他方、同盟国であるユーラシア人民共和国に引き渡されたという噂を聞いたこともある。
その先は、人民軍情報機関の管理下にあるとか、実験台になって解剖されたとか、感覚器官培養のための“細胞株”と化したとか、様々な憶測が囁かれていた。
いずれにしても、現実世界では良くて植物状態のはずだ。
ファンタジアの中で“お姉さま”と呼ばれ、第二、第三世代の少女たちに対して厳然と影響力を持っているとは驚きだった。
“美子さま”の屋敷は、モミの丸太を高床式に組み、大きく十文字の形に棟を広げていた。
その中心だけが二階建てになっており、彼女の居宅になっている。
デジタル被造物のドワーフたちがせわしなく働いていた。
武具を運び出したり、組み立てたり、並べたりしている。
輝く湖に棲みついたブラッド・ワームとの戦いに備えてのことだろう。
彼らはホピじいに比べると背が高く、整った顔立ちだ。ヒゲを三つ編みにしてシルバーのビーズで飾っていた。
私が屋敷に近づくと、リーダー格らしきドワーフが黙って慇懃に腰をかがめ、先に立って屋敷の中へと案内した。
「あら、潔子。遅かったのね」
「美子が寝ないで待ってたのよ?」
二人の“お姉さま”が現れた。
双子なのだろう。
姿かたち、声や仕草もそっくりだった。
二人とも、細かい刺繍をあしらった黒いドレスを着流し、腰にナイフを差している。
他のセブンスとの明らかな違いは、手首にバングルを着けていないことだった。
どこかに仕舞っているのだろうが、バングルを操作しないと、現実世界との連絡やアバターからの離脱ができない。
もっとも、噂どおり本体が植物状態なのであれば、現実世界に戻る必要がないのかもしれない。
「雨が降らなくても、襲ってくるかもしれないわ」
「湖から赤い悪魔が、上がってくるかもしれないわ」
「ブラッド・ワームがね…」
「そう、七菜子の子どもたち」
「違います」
私は遮った。
「ファンタジア全体に異変が起きているんです。昨日、実りの森に…」
双子が私の両側に立って身を寄せてきた。
「口答えするのね?」
「美子は許さないわよ?」
葉子がそっと後ずさりしたようだ。
背後で遠ざかる気配がした。
「そういう問題じゃないでしょう?」
私は苛立った。
「美子さまに会わせてください」
二人を押しのけ、ドアを開けた。
美子の部屋は、広大だが薄暗かった。床は新緑色の象嵌タイル張りで、石灰の漆喰を塗り固めた白壁に囲まれていた。
入ってすぐのところに籐編みのピーコックチェアがあって、美子が膝を抱えて座っていた。
美子のアバターは、痩せっぽちの、ひどく幼い少女だった。
身に着けているのは、柔らかい生地の白いスリップだけだった。
やはりバングルは着けていない。
「潔子」
「はい」
「七菜子のお仕置きをお願いするわ」
私は一呼吸置いた。まだ偽装を知られたくない。
「なぜ、あの子なんですか?」
美子は微笑んだ。
「あたしには解る。解るのよ。
なぜ解るの?
そう。
あたしのように、
光も快感も、そよ風も芳醇な葡萄酒も、
すべてが地獄だった者には解る。
あの子は現実世界に囚われている。
あの子が信仰しているのは悪魔よ」
私はゴブリンの首を床に置いた。
ゴルディアスと呼ばれたゴブリンだ。
美子の眼球が一瞬動いたが、退屈そうな表情は変わらなかった。
「実りの森に現れたゴブリンです。見てください」
私は剣を一振りし、ゴブリンの頭部を両断した。
脳が収まるべき頭蓋骨の中は空っぽで、蜘蛛の巣が張り巡らされていた。
蜘蛛の糸は破れ、一匹の蜘蛛が死んでぶら下がっていた。
蜘蛛糸は神経繊維を模した配線、蜘蛛の本体はSoC型の集積回路だろう。
ゴルディアスが自ら破壊したものだ。
「ファンタジアは素晴らしい世界です。
リンゴを囓れば、果肉があって、香りと味がします。古くなれば味が悪くなるでしょう。
すべてに中身があります。
本物なのです」
「それを言うの?
誰に?
ああ。この世界の設計者にね」
美子が皮肉に口を歪めた。
「その美子さまだからこそ、お分かりのはずです。
このゴブリンは、アバターです。そうですよね?
外の世界からの侵入者がいます。
仲間を疑っている場合じゃありません!」
私はゴルディアスの手首を見せた。鋼鉄の鎖が幾重にも巻きついている。
「こいつも、バングルを着けてます。この世界のアバターのルールです」
「現実世界からの侵入者?
おやおや、気をつけよう。
潔子の雰囲気がずいぶん変わったみたい。
なぜ潔子なの?
そうそう、あなたは七菜子を憎んでいるはずよ。
本物ならね」
美子が指し示した先に、いつの間にか窓があった。
私は促されて窓の外を見下ろした。
薄暗い。だが、見覚えがある場所だ。
地下鉄永田町駅の地下二階。
埃だらけのフロアに、椅子が並んでいる。
その一つに男が座り、少女を抱きかかえていた。
少女は脚を広げ男にしがみついている。
華奢な身体が熱を帯び、暗闇に白く輝いていた。
私は振り返った。
「七菜子は、あなたの男を奪った。
ひどい子ね?
そう、ひどい子。
いつもあたしを苦しめる」
美子は微笑んだ。
「さあ、潔子。
七菜子にお仕置きなさい。
頭をちょん切って、
一緒に、この子の頭の中でうごめく蟲を見ましょうよ。
蟲はあたしが貰うわ!」
美子が横に動くと、その背後に天井から吊るされた七菜子の姿があった。
両手首を縛られ、腰から下は木樽に浸かっている。
この状態では、七菜子はバングルを操作できない。
そして、身体を奪われ、頭蓋から無傷の集積回路だけを取り出されてしまえば、永遠にディープウェブの暗闇を彷徨うことになる。
現実世界で再起動をかけて強制的に離脱させることは可能だが、ファンタジアの束縛が強いため、七菜子の脳にダメージを与えかねない。
七菜子が浸かった樽には水が満たされていた。
その水面がぬらりと赤く動いた。
ブラッド・ワームの幼体が一匹、七菜子の肌を這い上がろうとしている。
太ももから腰まわりを締め付け、乳房に向かって吻を伸ばそうとした。
「てめぇ!」
私はブラッド・ワームを樽から引きずり出して切り刻むと、美子と向き合った。
美子は口を押さえて笑っている。
「このクソガキ!」
吐き捨てた。
次の瞬間、私の腹から刃が飛び出した。
背後から刺したのは、さっきのドワーフだった。ニヤニヤ嗤って剣を構えている。
私の一撃をかわすと、ドワーフは横ぶりに剣を振ってきた。
私の、いや潔子の左腕の上腕が切断され、どたりと落ちた。
私は自分の剣をドワーフに投げつけると、転がった左手首のバングルに飛びつき操作した。
「あら、残念。
あっちに逃げるのね?」
美子の声が聞こえた。
すぐに戻る。
そう言いたかったが、声にならなかった。




