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断層世界のパラノイア  作者: くるい
最終章 大好きなあなたへ。どうか、幸せに
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九十八話 誰もが望んだ結末で

 膨張を続けていた灰色は形を崩壊させ、至る所へと降り注いだ。それらは雨のように。触れた全てを消滅させる灰の欠片が、そこにいる全ての者を襲う。


 三姫はその崩壊に呑まれたまま――姿を、現さない。


 それどころか、視界のほぼ全てが灰色の空と化していた。

 ――欠片の一つが、大地を穿つ。


 灰に触れただけの地は、じゅう、と音を立てて消滅する。

 控えていた者達はその怖ましい光景に戦慄した。


 崩れた灰の欠片は見渡す視界の全てを完全に覆い尽くしている。

 ――あんなものが、もうすぐにここを襲う。


「逃げろ!」


 即座に反応したのはエステだった。彼は大声を張り上げて地を蹴り、倒れ伏す憐華を抱えて逃げ出す。

 できるだけあの灰から遠ざかるように。


 一歩遅れて反応したのは竹内だ。彼は自らの右腕に残された悲哀を起動し、灰を打ち払いながらエステを護衛する。

 それで避け切れるわけがない。


 逃げるエステの肌を、それを守る竹内の全身を容赦なく貫く。

 触れた箇所が文字通り“消滅”していた。

 これなら刃にでも刺されたほうがよっぽどマシとでも言えるような、絶大な喪失感。

 穿たれた肌は穴が空き――そこから血は流れ出さなかった。


 エステは舌打ちし、歯を食い縛って全力で走る。その腕に抱えた憐華の肉体には、欠片の一つも触れないように。





 アリシーの方は、翼が形を崩して散らばったその時にはリセルを抱えて逃走していた。

 ラプスと一度戦っていた彼女は本能的に悟ったのだ。


 ――アレに当たれば、タダでは済まないということを。

 そして、アレを防ぐ手段をアリシーは持ち合わせていないということを。


 今はその中心で戦っていた三姫を心配する余裕などはなかった。アリシーにできるのは、リセルを連れて逃げることだけ。

 なるべく遠く離れなければならない。

 あの灰が飛んでこない遠方まで、駆け抜けるのだ。


「……く」


 アリシーは悔しそうに顔をしかめた。


 後ろの方でエステと竹内が走っている。灰の欠片をその身に浴びながら、必死に逃げている。

 ――間に合わない。


 あのまま走り続けていても、灰に押し潰される。


 しかしアリシーはリセルを抱えているのだ。一人でならともかく、リセルを連れていては助ける余裕がない。

 全員道連れだ。


 ――と、思考を張り巡らせているアリシーに気付いたのか、リセルはアリシーの背の上でとんでもないことを言い出した。


「アリシーさん、私を降ろして下さい」

「馬鹿、何を言って――」

「駄目です。二人だけ助かったところで何の意味もありません。皆で助かって、最後に笑い合うことができなきゃいけないんです。そこに誰かが欠けてしまったら、もう笑うことが出来ませんから。私は一人でも逃げられます、アリシーさん――」

「どうやって逃げるの? 無茶言わないで」


 リセルは本当に平均の能力しか持ち合わせていないのだ。死なない肉体を持っているとしても、あの灰に呑み込まれたら確実に消滅する。

 彼女はあれから逃げる手段を持っていない。普通に走って逃げるなどできようものならアリシーが背負う前にやっている。


「すみません。本当は、私が彼らを助けられればいいのですが……アリシーさんに任せるしかない自分が不甲斐ないです。だから、お荷物にはなりません。アリシーさん――彼らの元に、早く!」

「――ば、」


 普通の身体能力で、何ができるというのか――。


 だというのに。あろうことか、リセルはアリシーの背から自らの意志で飛び降りたのだ。

 彼女が馬鹿と言うよりも早く、リセルは宙に投げ出された。しかしアリシーが駆けていた速度ではリセルが着地出来るはずもなく、地面と衝突して何度も跳ねてゆく。

 一瞬で衣服はぼろぼろになり、身体には無数の生傷を作って血だらけになる。その状態で無理矢理立ち上がり、リセルは叫んだ。


「――行って下さい!」

「ああ、もう、絶対逃げて!」


 リセルはおぼつかない足取りで、走る。本当に逃げるつもりなのだ。一人で。


 アリシーは覚悟を決め、踵を返す。

 ――どうにかして間に合わせる。


「あの二人助けて、戻ってきてリセルも助ければいい、か……よし」


 そうと決まってしまえば、今更リセルの所へは戻らない。

 全員助ける。

 それは、アリシーだって同じ気持ちだ。


 やるしかない。


 灰の欠片が降り注ぐ中を駆け戻り、アリシーは彼らに向かって叫んだ。


「その人をこっちに――」

「てめぇなんで戻ってきた、そのまま逃げりゃよかっただろ!」

「それじゃ全員助からないから来たの! 私なら一番早く離脱できるから!」


 これ以上言い争っても埒が明かない。

 エステは返事を止め、憐華をアリシーの方へ差し出す。


「さっさと逃げやがれ」

「ありがと!」


 憐華を受け取るや否や、アリシーは後ろに飛んで空中で体勢を整えつつ視界の彼方へ遠ざかってゆく。人一人を抱えているというのに、俊敏さはエステや竹内よりも高い。

 灰の欠片はアリシーにも迫っているが、その俊敏さを生かして器用に避けているみたいだ。


 エステは併走する竹内へ視線をやった。


「もう俺を守る必要はねぇ、逃げんぞ」

「ああ――分かっている」


 二人は口には出さない。

 彼らの大切な人が、この欠片の波に呑まれてしまったことを。

 どれだけ不安に思っていても、決して外面に出すことはない。


 その不安を拭い去るように、全力で走り続けた。

 逃げ続けた。






 灰の欠片が大地へと落ち切って鎮静化したのは、しばらく後でのことだった。

 アリシーはかつての樹海まで逃げ込み、リセルが受けた傷の手当てをしていた。


 ここはそこそこな高所のため、目の良いアリシーには広範囲に破壊し尽くされた戦場の跡が鮮明に見えている。

 白銀だった世界のほとんどは、壊れて失われているようだ。


「……ありがとうございます。アリシーさん」

「一歩間違えたら死んでたんだよ。リセル」


 説教というよりかは安堵の念が強く、怒るよりもまず皆が助かったという事実にアリシーはほっと溜め息を吐いた。

 幸いにして無傷。どっと疲れが全身を回っているが、灰の欠片は全て回避した。リセルも転んだ怪我だけで済み、憐華も意識を失っているだけで外傷はどこにもない。


 エステと竹内の二人がかなりの重傷を負ってしまっていたが、命に関わる致命傷ではなかった。

 二人は木を背もたれにして座り、複雑な面持ちで休息している。


 ――この面子は、無事だ。

 けれど。


「ねぇ、なんにも見えないよ」


 アリシーは、泣きそうな顔を隠さずにそう言った。

 灰に呑み込まれたその大地――そこにはラプスはいなかった。


 エクサルもいなかった。

 グリーフもいなかった。

 レイジもいなかった。


 誰も、残ってはいなかったのだ。


「信じろ。俺はアイツを信じている。この程度じゃ死なねぇよ」


 エステは戦場跡を見つめたまま、少しも迷わずにそんなことを言った。


「……そう、だね」


 そう。信じることしかできないのだ。

 どんなに絶望的であろうとも、錯乱するだなんてことは許されない。


「ああ、生きてるな。それは俺の右腕が証明している」


 そこで。

 竹内は力ない声で、しかし同時に安堵した様子で右腕を伸ばした。右腕の肘部分に取り付けられた青色の塊は鈍く光っていて、弱々しくも活動を続けている。


「こいつはグリーフが俺に与えてくれたもんだ。グリーフが死ねばこいつも止まる。そうなってないってことは――死んじゃいないってことだよ」


 それじゃあ、と。

 竹内の言葉を聞いたアリシーは、再び戦場跡へ視線を向けた。

 そこには、空間の裂け目から姿を現す三姫の姿が映っていた。


 グリーフの隔離空間――あんなぎりぎりの場面で、そこに逃げ込んでいたのか。

 出て来た三人は倒れてしまいそうなほどに満身創痍であったが――。


 生きていた。

 助かっていたのだ。


 アリシーは疲労した身体を気合いで叩き起こし、リセルと憐華を両肩に背負い直す。


「あ、いだっ……!」

「行こう。待ってなんかいられない」


 こんな所にいる暇は一秒だってありはしない。


「ああ……もう少し踏ん張ってくれよ、俺の身体」


 竹内も痛む身体に鞭を打って立ち上がる。


 三姫が戻ってきた。

 即ち、何かしらの策が成功したのだ。


「そうだな。おい、アリシーっつったか? 二人も背負う必要はねぇだろ、片方は俺が持つ」


 エステはダメージを確かめるように腕を回しつつ、アリシーへ右手を差し出した。


 戦いを、終わらせるのだ。








「――危ないところじゃったな」


 泰然とした様子で地面に立ったレイジは、黒く淀んだ大地を見下ろしてから腕を組んだ。


「もう一手でも対処が遅れていたら、どうなるかは分かりませんでしたが……」


 灰色の欠片に蹂躙された世界。エルリアが創りだした白銀の空も、大地も、ラプスに壊されて原型を留めていない。

 間一髪グリーフが能力を使わなければ、三姫も同じようになっていたであろう。


 ――が。灰の波に呑まれた際、決して少なくない量の消滅が三姫全員の存在を蝕んでいたのは確かだった。

 外面的な損傷は修復されているが、最早動くことすままならない状態だ。


 しかし、封印術は確かに成功していた。

 地面に散らばった灰色の液体が蠢き、それらがかろうじて人型を造って鈴峰律樹の形を取る――その肉体に、先程までの力はない。


 封印に成功したのだ。

 蓄えていた破壊的な力をこの世界の奥底に沈め、完全にラプスから切り離した。


 こうなってしまえば条件は一緒だ。


 彼女は虚ろな瞳でこちらを眺めている。

 三姫の誰かを見ているのでなく、誰に意識を注いでいるわけでもない。ただこちらに人が居るから視線を寄越しているような希薄さだ。


「――大丈夫ですか!?」


 三人の後ろから、数名が駆け寄ってきた。

 リセルを抱えたアリシー、憐華を抱えたエステに竹内だ。


「一体誰に心配なぞかけておる。そのようなものは不要じゃ」


 レイジは鼻で笑い、軽くそう返した。


 リセルの言葉通り、三姫は先程の行使で力の大部分は失ってしまってはいるが――まだ、人の形を保てるほどには残されているのだ。


 無茶はしても、それで自分が消えてしまえば本末転倒なのだと――三姫の誰もが理解している。

 なればこそ、誰一人として欠けてはならないように立ち回っていた。


「さあ、詰めだよ」


 エクサルがラプスに向き直る。

 ラプスは警戒も敵意も見せずにこちらを眺めることに徹していたが、向かってくることを察知すると灰色に歪んだ瞳がエクサルに合わせられた。


「どうする、の?」


 ここに来てラプスが口を開いた。感情も表情も変化すらない淡色な一言であったが、その言葉には確かな意志が宿っているように思われた。


「返して」

「……何を?」

「分からない振りをしても、意味はないよ」


 先頭に立つエクサルは間髪入れずにそう言った。

 両手にナイフを顕現させ、切っ先を彼女に突き付ける。


「私は、どうなる、の?」

「私は律樹を返して貰うだけだから、あなたがどうなるかは知らない」

「……そう、なん、だ」


 短い会話。

 ラプスはそれまでエクサルに向けていた視線を下ろし、地面へと目をやった。

 だらりと両腕の力が抜け、それきり動かなくなる。


「抵抗はないみたいですね」

「できるわけがなかろう。ありったけの力を込めてやったんじゃからな、されても困る」


 残り最小限の力でラプスを拘束し、レイジはリセルへ視線をやる。言外に今しかないぞと伝えられたのを感じ、リセルはラプスの前に立った。


「……お久し振りですね」

「私を、どうするの?」


 以前は確固たる意志の元にリセルを殺そうとしてきたラプスだが、今は全くないようだった。レイジに拘束されてエクサルが目を光らせようとも、リセルを下せるほどの力を行使することが可能かもしれないのに、だ。


 チャンスはある。

 しかし、今のラプスにはその意志を感じられない。


「どうするつもりもありませんよ。私ができることと言えば、あなたに触れて、禁忌に触れて、律樹さんに触れることくらいです」

「私は、どうなるの?」


 ラプスはエクサルにも問うたことをリセルにも言う。

 その声には一切の感情が籠もっていなかったが、リセルにはどこか悲痛そうな風に映った。

 だから、答える。


 自分を殺そうとした相手にそんな言葉を投げ掛けるつもりなど、最初はなかった。存在しなかった。

 けれど、答える。


 誰一人として欠けてはいけない――その中にはラプスも入っている、と直感的に理解していたからなのかもしれない。


「どうにもならないかもしれません。でも、どうにかなるとすれば……律樹さんの人格が表に出るだけですよ」


 リセルは答えた。

 嘘偽りのない回答。彼女にはラプスをどうにかするだけの力など有してはいない。結局のところ、干渉してそれに応じるかは――鈴峰律樹次第なのだから。


「分か、った」


 舌足らずなまま、ラプスは返事をする。

 灰色の瞳がリセルへと向けられ、ラプスは力なく口を開く――。

 小さく掻き消えてしまいそうな一言は、確かにこう言っていた。


「――ごめん、なさ、い」










 ここは――暗闇ではない。

 大地はあって、空はあって。

 人が、人が――。


「……ん」


 僕が目を覚ましたのは、最後に気を失ってからいつだったのだろうか。あんまり覚えてないな。


 ただ、そこまでの時間は経過していないんだろう。


「律樹さん……なんですね?」

「ああ、そうですよ――って」


 僕の額をなんで押さえてるんですかね。

 リセルさん。


 ゆっくりと彼女の腕をどけてやって、半ば方針状態の彼女へ「もう大丈夫」と告げる。

 辺りを見渡せばよく知る人たちが揃いも揃って集まっていた。


 レイジにグリーフにエクサルが並んでいて、ああそうなのかと納得し。憐華さんと同化しているルリさんを見て頷き。ぼろぼろになったエステと竹内に、アリシー――がいたことに、驚いた。

 どうしてこんなところまで来ているのか。


 まさか助けに来てくれた、のか?

 ――というか、リセルさんが来てるってことは、そういうことか。


「起きたばっかでなんと言ったらいいのやら……」

「妾が助けてやったんだぞ、お礼でも言ったらどうじゃ?」

「ああ、ありがとうございますレイジさん」

「ッチ――慣れ慣れしく呼ぶな、鳥肌が立つ」

「ええ……お礼言っただけなんですけど……」


 なんと理不尽な。

 折角さん付けまでして素直に頭を下げてやったのに。


 僕は苦笑し、それから自分の身体を確かめる。

 灰色の腕だ。ラプスと同じ、色の腕。


 そうか。無茶した分は――取り戻せはしないか。

 意識が戻っただけだもんな。


 更に視線を下へ移す。

 うん、ほとんどっていうか全部灰色だ……うん、ちょっと……え? ちょっと待って。


「なんで裸なの、僕」

「あれだけ暴れればそうなるじゃろ、貴様は再生できても衣類まで再生すると思うな」

「うわ……ちょっと皆僕の方見ないで、ほんと見ないで」


 慌てて大事な部分だけを隠す僕に呆れたか、レイジは溜め息を吐いた後に僕へ手をかざした。

 すると、憤怒の力から形作られた真紅の服が僕を覆う。


「ったく、調子が狂わせられるな……貴様には」

「いや、流石に裸じゃ締まらないってか、いやそもそもそういう問題じゃないっていうか……まあ、感謝します」


 ……気を取り直そう。肌も人間らしさの全く見られない灰色だし、消滅の残滓もちょいちょい残ってたし、多分どこもなにも変な部分は見られていないだろう。というか見たくないだろう。

 うん。


 僕は一度目を閉じて深呼吸をし、倒れていた身体を起こした。

 立ち上がれば、全員が容易に見渡せるようになる。


 僕が何かを喋り出すと思っているのか、全員共々僕に視線を合わせたまま静止していた。

 このままでいたら永遠に時が止まってそうな感じだ。


 僕は全員を再び見回した。

 ま、そういうことなのだろう。


 憐華さんが気を失っていて、その中にルリさんが入っているのは少々心配だが――どちらも生きているのだから。

 きっと、僕の頼みは聞き届けられた。


「えっと、じゃあ。とりあえず僕から一番近い……そこの赤黒いの」

「今すぐ貴様の服を消すぞ?」

「じょ、冗談ですよ……なんて呼んだらいいか分からなかっただけです」

「貴様はさん付けかイメージでしか名を呼べんのか? 普通にレイジと呼べばよかろう」

「あ、はい」


 どうにも調子が狂うのは僕も同じだった。

 妙に大人しく黙っている三姫など、いきなり冷静に見られるわけもない。


「仲直りはしたんですか?」

「元より仲の良かったことなど一度もないがな。貴様が言いたいことに直せば、そうじゃな。妾はもう、エルリアを殺さん」


 そう、か。


「メリーさんは?」

「同じだよ。次に同じ過ちをしたらどうなるかは知らないけど、あなたがいるから、それはないんでしょ?」

「ええ。そう、誓いますよ」


 僕がラプスに呑まれている間、確かに彼女達は話し合うということをしてくれたのだ。

 実際に僕が見たわけではないのだけれど、こうして一同に会してくれているのさえ分かれば十分。


 後は。


「すみません。僕と戦ったせいで――」


 レイジもエクサルもグリーフも、ルリさんや僕との戦いで力を使い過ぎていた。元々限界が近付いていた段階での身体の酷使に次ぐ酷使で、もう肉体を構成するので精一杯だ。

 恐らくはもう、戦う力など残ってはいない。


 そして、彼女達はもう――持って、数日。


「あなたが謝ることではありませんね。それに、前々から理解していただけのことです。それが少しばかり早まっただけですから」

「グリーフ、お前」


 竹内が目を見開いた。右腕に取り付けられた悲哀の光は失せていて、彼はそこを押さえて険しく顔を歪めている。

 もっと前から覚悟はしていただろう。だが、現実にそれが迫ってきた時、納得できるかは――全くの別問題。


 僕にだって、どうにかしてやることなどできない。


 生憎、僕を止めるのにやったことは消滅(ラプス)の封印らしく。お陰で今の僕にもほとんど残っちゃいなかった。

 でも、その役割は僕でなくていい。


 彼女がやると言ったのだから、きっと大丈夫なはずだ。


「っ――」


 目眩がした。右手で目元を押さえ、倒れそうになる身体を一歩のところで留める。


 僕としてだけではなく、ラプスも散々暴れてくれたのだ。

 この程度で収まっただけマシと言えよう。


 さて。せっかく終わったんだ、大団円と行こうじゃないか。


「すみません、迷惑掛けました」

「そうでもねぇよ。こっちこそ、悪かったな」


 エステへそう言えば、彼は軽く返してきた。


「後は僕が抱えますよ」

「そうか、なら頼んだ」


 エステから憐華さんを渡してもらい、抱き上げて固定する。

 今はどちらも気を失っているみたいで、特に反応はなかった。でもすやすやと寝息が聞こえるし、特に問題はなさそうだ。


「律樹、お疲れ様」


 しばらくそうして彼女の寝顔を見つめていると、アリシーがやってくる。若干ばかり寂しそうな目をしていたが、それでもにこりと微笑んでくれた。


「うん、やっと全部終わらせたよ。アリシーはどうやってここに?」

「そっちの赤い髪の毛のエクサルさんに連れて来て貰ったんだよ。肌、まだ灰色みたいだけど……大丈夫なの?」

「見た目は大丈夫じゃないっぽいけどね、別に異常はないよ」

「そっか」


 別に肌にヒビが入っているわけでもないし、全身に痛みが発生するわけでもない。

 どうやら今まで通りにラプスは僕の心を埋めてくれているらしい。そのお陰で僕は生きていられるし、ここに居られる。

 ラプスと交わしたあの約束――責任を持って、果たしてやらなきゃな。


「アリシー、ありがとう」

「いいのいいの、友達でしょ? 助け合いだよ助け合い、だから気にすることないよ。ま、今度ご飯でも奢ってよね」

「え、そんなのでいいの?」

「そんなのでいいんだよ。それとも――望めば、律樹はあたしに振り向いてくれる?」


 彼女はいたずらっぽく口元を歪め、挑発的に呟く。なんてことのないような軽さで放たれたその言葉にどのような意味を持っているのかなんて――僕でも分かった。


「あー……」

「でしょ? 今のは半分くらい冗談だから気にしなくていいけどね。今まで通りの関係でいいんだよ、今はそう思う。思うことにしてる。だから律樹も気にしないで、間違っても罪悪感を覚えるのは筋違いだよ」

「――だね、そうする」


 情けない返答しかできない自分に憤りつつ、精一杯の平常で言葉を続けた。


「今度、美味いもんでも食べに行こうか」

「あ、律樹が作ってくれる料理がいいかも」

「それならいつでもいくらでも振る舞うさ」

「じゃあ今からね」

「う……ごめん訂正、後日いくらでも作るよ」

「よし、それで手を打ってあげる」


 いつまで気にしても駄目なこともある。終わったことで――少なくともアリシーにとっては、終わったことにしようとしている。

 本人に真正面から断ったこの僕が、決して悩んでいいことではないのだ。


 さて。


 僕は再度憐華さんに目を落とし、彼女の寝顔を覗き見る。

 今は幻術が掛かっていないので間違いなく憐華さんの顔なのだと判別は付けられるが――というかルリさんの本来の姿はさっき一度見てるけれど――どちらも大人っぽさと雰囲気は変わらないようで。


 うん、可愛らしい寝顔だ。

 というかちょっと前に目を覚ましたみたいだけど、僕が喋ってたからわざと黙っているのかな。


 じゃあ。


「ルリさん、おはよう」


 こっちから起こしてあげよう。

 優しく頭を撫でると、憐華さんの瞼がゆっくりと開かれて――白銀に輝く瞳が、こちらを見据えた。


「全部終わったよ。ラプスも僕の中で大人しくしてる。折角ルリさんの揃えた舞台を半分以上壊しちゃったけど……」

「いえ。それよりも、律樹さん――おかえりなさい」


 彼女は力なく笑い、僕の頬に手を当ててくる。その手は暖かくて、たったそれだけで僕の全部が救われたような、そんな気持ちになった。


 長かった。

 こうして彼女と話せることを、どれだけ心待ちにしていたことか。


「うん、ただいま」


 僕とルリさんはしばらく黙っていて、互いが互いを見つめ合う時間が続く。


「あの……律樹さん? そろそろ降ろしてくれてもいいんですよ。その、この格好は……少し恥ずかしいです」

「え、あっ、そうだね」


 は、と正気に戻り、彼女を放して地面に立たせてやる。少しだけふらついたが僕が一度支えた程度で、後は心配なさそうだった。

 力の消耗が激しいことには変わりがないが、そのくらいなら支障はない、か。


 もうちょっと抱いていてもよかったんだけど。軽いし。


「憐華さんはまだ眠ってるみたいだけど、大丈夫そう?」

「私の負傷の一部を肩代わりした分疲労していますが、もうすぐ目覚めると思います」

「なら大丈夫かな」


 ルリさんの影響で災厄を行使できるようになった憐華さんだ、見た感じでも大したことはなさそうだし、彼女と話すのも後回しで構わなそうだ。


 それならば、今やるべきことを済ませよう。


「ルリさん、早急に三姫全員に処置を施そう。僕も本当に微力ながら力を貸す、それで命を繋ぎ止めるんだ」


 エクサルも、グリーフも、レイジも、既にルリさんの感情の一部としてだけの存在ではない。誰もが一人の人間であり、誰一人として欠けるわけにはいかない大切な人だ。

 消えゆく三人を助け、全員で帰るべき場所へ。


「――待った」


 レイジが僕とルリさんの間に割り込んできた。しかめた眉をそのままに、ルリさんへ顔を向けて腕を組む。


「妾はここで没することを望む。そう言ったとして、貴様はどうする?」

「……レイジ、あなたは」

「理由か? 簡単なことよ。妾は疲れた、これ以上世界を歩んでも得られるものはなさそうじゃからな。生きる意味もない。で、どうじゃ?」

「それでも、助けます」

「ふん。では理由を訊こう、貴様は死にたいと願う妾を何故生かす? 生きる理由のある奴らは抜きにして、そうでない妾を助ける理由――貴様の自分勝手な考えからくるものか?」


 レイジにしては珍しく、冷静で淡々としていて純粋に理由を尋ねているようだった。返答次第では檄が飛びそうだが――。

 僕は、ルリさんに視線を向ける。彼女の意志は、固まっているようだった。


「はい。そうですよ」


 彼女は否定しなかった。自分が自分勝手だ――そう認めた上で、彼女は動くのだ。それが彼女だ。

 でも、昔と決定的に違う。


「どんな形であれ終わりは必ず訪れます。ここで生きられる命があるというのに、それを捨てて死ぬのは……あまりにも、悲しいと思います。私はあなたにあなたのまま生きていて欲しい。ですから、命を助けます」

「ふん、なるほど。――よかろう、貴様に助けられてやるとする。その後は特に決まってはいないが、そうじゃのう。移り変わったこの世界を、純粋に楽しんでやるとしよう」


 全く面白くなさそうに笑って、レイジは組んだ腕を解いた。しかし、その表情にはどこか満足したものがあって――今のレイジに怒りなどないように思われた。

 珍しいこともあるもんだ。

 ――彼女に怒りが、憤怒がないなんてのは。


「ちなみにさっきのは嘘じゃ、妾は望んで死にたいとは思っておらん。死ぬべく時は勝手に死ぬだけで、それまでは生きているものでしかない。エルリアよ、妾が承諾したことによって貴様の自分勝手は理解された。好きにするがいい。後ろの二人も異存なぞ持ち合わせてないじゃろうからな」


 ああ、なるほど。

 僕はくすりと笑ってからそこから離れようとしたレイジを呼び止め、振り返る彼女にこう言った。


「ま、それなりのストッパーにはなりますよ。恐らくこれで、最後の禁術――ですし」

「当然のことを吐くな」


 この地に張ったルリさんの術式を修復し、起動させる。

 それで全ては終わりだ。


 僕たちの物語はこれで終わり――壮大な身内の争いは、終焉を迎えて終了するのだ。

 これからの物語は新しく始まるのだろうけど、それはそれ。


 これから続くものは全く関係ないもので、些細なことの連続で、平和な日常が開始される。

 特に語るべきこともない、その後の人生だ。


 半壊してしまっている術式へ一通り視線を巡らせ、それから僕はルリさんに向けて口を開く。


「ル――」


 ――“オツカレサマ”――


 と。

 歪な声と共に僕の脳内を引っ掻いたそれは、濁った雑音のような男とも女とも取れないようなノイズを鳴らして――僕に、侵入してきた。


 ルリさんの声が聞こえる。

 それは、次第に遠ざかっていった。










「――ルリさん……んん、と」


 ぼ、ぼく、ぼく、は。

 うん、ああ、そうそう。そうだった。


「ごめん、一瞬記憶が飛んでいたよ……」

「本当に大丈夫ですか?」

「僕は大丈夫ですよ、このくらいなら」


 僕は苦笑いを一つして、ルリさんへ微笑む。安心の合図だ。どうやらこの身体はもうそこまで無茶できないくらいには壊れているみたいだけど、少しくらいなら、許容範囲内でありそうだ。

 フルで動ける活動時間は数分数十分ってところだし。


「それでは始めましょうか」

「――ええ、律樹さん」


 ルリさんは僕に背を向け、天空天地全てに敷かれた白銀の術式を再構築させるため、両手を開いて災厄を生み出す。

 量としては僅か微量のものではあったものの、術式は鈍く銀色に輝いた。


 よし。


「ルリさん――」


 僕は身体の内にまだ残されていた、消滅をその手にまで移す。

 それをルリさんに向け、


「うふ」


 ――撃ち放った。


「――おい、やっぱりテメェかよ」


 その消滅が、確かに叩き堕とされた。

 素手で、無理矢理、力技。僕は首を傾げてその人物を睥睨し、にやりと口元を歪めて吐息を漏らす。

 懐かしいね。とっても、とってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとってもとっても。


 懐かしいね。君は。


「カオナシ、こんな場面で出てくるとはいい度胸じゃねぇかよ」

「何を言っているんだい? 僕はそんなおかしな名前じゃない。律樹っていう立派な名前があるのだけれど」

「舐めるのも大概にするんだね。こっちだって一度相対しているんだけど、気付かれないとでも思っていた?」


 懐かしいね、君も。


「だから僕は律樹――ま、いっか」


 僕は溜め息を吐く。

 二人の男と女を悠々と眺め、僕は力を解放する。

 使うものは鈴峰律樹の残り滓の全て。一滴残さず余すところなく使用し、僕は君達を手に入れるんだ。


 今までずっと狙って狙って狙い尽くして来た獲物。

 絶好のタイミングで回収しなくてどこで奪うというのだろうか。


「うふ、うふふ、ふふふ――」


 灰色の粒子が飛び散り、それを女へ真っ直ぐ振り下ろす。それが高速過ぎて反応できず、女は切り刻まれて吹っ飛んでいった。

 ――。


「君達が僕に勝てるわけないじゃないか」


 白銀に光る大地を踏み締め、僕は男へ詰め寄る。


「君はエステだね。彼女は美味しかったよ――とっても。本当に、ね」

「――テメェ」


 男はその剛腕で持ってして殴り掛かってくる。狙いに来るのは僕の心臓部――狙いも速さも重さも申し分なく、人間であれば一撃で倒されてしまうだろう。


「君も欲しいな。ちょうだい。全部、余すところまで、全て、何もかも」


 でも。この身体は人間ではないのだから――。

 そんな人間の攻撃が、通用するわけがなかった。


 そうだ。

 僕は鈴峰律樹であって鈴峰律樹ではなく、そのうち消える。


 みんな殺して、僕――。


「ふざ、け、るなよ」


 僕の意志とは反して、僕は喋った。

 確固たる意志を通して、その声は鈴峰律樹として、僕の支配領域、超え、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで――。


「既にお前が関与できる次元じゃないんだよ、消えろ」


 僕は僕に向かって、そんな汚い言葉を放つ。


「今すぐ僕から離れて――消滅しろ」

「なんで、どうやって――どうやってじゃないだろう、その気持ち悪い視線はきっと全部、お前の仕業だったんだな、カオナシ――君は僕の物――違う――僕は、君、君は僕で僕は――黙れ――大人しく、その肉体を僕に返却しろ、カオナシ」


 壊れた人形のように、鈴峰律樹は暴れる。


「ルリさん――早く、僕の――ごめん――君はもう手遅れなんだ――」


 最早誰の言葉も聞こえず、鈴峰律樹は自らを浸食しようとしてきたモノと対峙する。

 いずれ深い闇に堕ちるまで。

 延々と、永遠と。


 そうして、片方の僕はいなくなった。

 この“ぼく”は脂汗を流しつつ、首を鳴らして勝利の余韻をたっぷり味わう。


「やっと、キエた」


 まさか抵抗されるとは思わなかったのだ。けれど、それもここまで。


 どうしてか、“ぼく”を取り囲むように女と男と女と男と女と色んな人間が立っていて、先頭に立つ白銀の女が“ぼく”を睨む。

 それはもの凄い形相で、この世のものとは思えない威圧を、残していた。


「――皆さん、後は私に任せて下さい。誰も手を出す必要はありません」

「エルリア――! 貴様、そんなことをしてしまえば――」


 そうかそうかそうか、君はエルリアだった。

 エルリアだね。


 エルリア、エルリア、ボクの目をミてご覧。手始めに君から乗っ取ってあげる。


「これで、私は居なくなってしまうかもしれません。ですが、ここで律樹さんをどうにかできるのは私だけです。私が踏ん張らなきゃいけないんです」


 眼前の女は凄まじい量の災厄を噴出させ、こちらにその力を差し向けてくる。


「皆さん、私がいなくなっても決して悲嘆しないで下さい。決して消えるわけではありません、私はそう誓いました。誰にも悲しんで欲しくないから、私も絶対に消えないのです」


 ――。

 白銀が、光を強く帯びる。


「私が責任を持って、全員を守ります。そして必ず、律樹さんを助けます」


 ――。

 ――――――。


「律樹さん。聞こえていますか」


 ――キミは。


 キミは、キミはキミはキミはキミはキミはキミは、キミはキミはキミはキミはキミはキミは、キミはキミはキミはキミはキミはキミは、キミはキミはキミはキミはキミはキミは、キミはキミはキミはキミはキミはキミは、キミはキミはキミはキミはキミはキミは、キミはキミはキミはキミはキミはキミは、キミはキミはキミはキミはキミは――――……。


「ル――さ、ん」


 僕は濃くなる光の中、うっすらと見えたルリさんの陰へ、手を伸ばす。


「――大好きでした」


 災厄が迸る。

 絞り出されたその力は、命の輝きと共に術式へと吸い込まれていく。


 その光は、あたたかく優しく包み込むように――何もかもを、覆ったのだった。





「――大好きなあなたへ。どうか、幸せに」

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