三十一話 ヒーローは遅れてやってくる
凍竜の全長は約二十メートルだ。常に水を含んだ外皮は柔らかく、ぬめっとしている。普段は折り畳んでいる巨大な翼は、警戒時と冷気を散布する時は広げるみたいだ。二度偵察しただけなので戦ってはおらず、未だ向こうの戦力は未知数とのこと。それが町付近の森を住居にし、夜になると必ず冷気を送り込んでくる。
これが敵の大まかな情報。作戦はこうだ。
まずは弓使いが遠距離から敵の目を狙い射つ。その際にはフードが念動力で凍竜の動きを止め、一定時間行動不能にする。
目に矢が直撃したのを見計らって、全身装甲の男が真正面から突貫する。引き付け役だ。
そこから一秒間を置き、リベルと筋肉男が左右に散開して両脇から凍竜の懐を狙う。
「――ここまではいいな?」
リベルが五人の動きを説明したところで、確認を取った。頷く僕とアリシーを見て、彼は次を話す。僕の役割、か。
「アリシーの暗殺……ってのが、どの程度凍竜に通用するかは分からん。相手が俺らなら首を一刎ねしておしまいだが、今回は相手が人ではないからな。だから、その速さを活かしてサポートに回ってくれ」
「分かった。じゃあ私は牽制しつつ、できれば始末するよ」
「無茶はするなよ」
「うん」
真剣さの中にもどこか嬉しそうな表情を内包させているアリシー。何故だか少し、楽しそうだ。
「それじゃあリッキー。お前には選択肢が二つある、いいか?」
「はい」
やることが二つもあるのだろうか。
「一つ目は、お前も弓を持って遠距離から攻撃することだ。目を狙えとは言わない。最低限矢を放てる力があり、仲間に当てなければいいぞ」
ただでさえ足手まといの僕だ。強力な武器を持つのは道理だな。それで弓使いの人と一緒になって遠距離から射てるのはいいが……。
「射てますかね」
弓は素人じゃ扱えないと聞く。何でも、弦は腕力だけでは絶対に引けないらしいのだ。よしんば引けたとして、上手く狙いが定められるか。第二射を放てるか。戦いの最中、冷静に全ての行程をこなせるか。そこまで考えると、現実的ではない。素手よりはマシ、という程度か。
正直言って面目ない。雷を操れるという触れ込みで入った奴が、この程度じゃな。
「そりゃお前次第だ」
ごもっともです。
「もう一つは、投げ槍を放って貰いたい」
「投げ槍ですか?」
そのままの意味だろうな。弓矢を放つか槍を放つか、ってことか。
「ああ。槍の穂先に爆弾を引っ付けた物だ」
「それならリベルさんが持っていた方がいいのでは?」
「そうしたい気持ちはあるが、爆弾のストックがない。残りは一個だけだ。槍に関しては、俺の拳より劣る武器を使うつもりはないのでな」
あっさりと拒否された。槍より素手のが強力だってのも可笑しな話だが、彼の拳にどれだけの破壊力があるのかは、以前にこの目で見ている。一撃でカウンターを粉砕するからな。
「爆弾はエステさんが町に残した物だ。だから俺らは作り方を知らないし、誰も使わない。だが、威力があるのは誰もが認める。どうだ?」
ここでまたエステの名前が飛び出してきたが、その人はいったいどれだけ凄い人物なんだ。彼が一人いれば凍竜もなんとかなるというのだから、余程強いのだろうが……。
それはいいとして。以上の二つ、か。どちらも僕のレベルに合わせて出してくれた案だ。まあ、やるなら槍だろうが。
だったら。
「爆弾が一個しかないというのなら、弓矢に取り付けて弓使いの人に射たせた方がいいんじゃないですか?」
「矢に爆弾を取り付けて放つ、というのは思ったより難しいよ。矢自体が軽く、付けた爆弾の影響で重心がずれるから軌道が読めない。身体の中心を狙えば当たるが、それなら的確に急所を狙えた方が役には立つ。それに、武器は一人で何種類も保有するもんじゃない」
とのことだ。弓使いの人から直接そう言われた。……うん、そうだよな。それくらいの案は、僕が言い出す前に一度は出ているだろう。
「分かりました。なら、槍の方でお願いします」
ならば他に道はない。それぞれがそれぞれの役割を果たすんだ、僕もこれでできる限りのことはしなければ。
「よし、決まりだ。槍はここの最上階にあるから俺が取ってこよう。夜も深い、持ってきたら直ぐに出発だ」
言い残して、彼は受付の方へと歩いていく。二言受付嬢と会話をした後、奥へと消えていった。
「アリシー」
僕は、静かな声で彼女を呼んだ。不思議と落ち着いていられる。ずっと抱えていた懸念が取れたのもそうだが、それだけでもないようだ。
「なーに?」
いつものように、アリシーは返事をくれた。
「帰ったら、腹いっぱい飯でも食べようか」
「うん!」
◇
満天の星空の下。
ムードの欠片もない物騒な集団が、野を闊歩していた。デカイ直剣を背中に抱え、ガチャガチャ盾と装甲を鳴らしながら先行する者が一名。両脇で殺気を全開にしている者が二名。後ろで多様な武器を持ち、怪しい格好をする者が四名。
合計七名。これが今宵、凍竜を討伐するメンバーだ。そのメンバーの一番後ろ。両手で槍を抱えていた僕は、自分のすべきことを反芻していた。
何、やることと言っても弓使いの合図に合わせて凍竜の足元に槍を投げるだけだ。出発前に真っ直ぐ投げる練習はした、大丈夫、落ち着け。
「そろそろ森だ」
リベルが更に気を引き絞った。視線の先には、目的地の森が広がっている。内部は背の高い木々の葉に隠れて更に暗くなるだろう。皮のコートを片手で羽織り直して、僕は槍を右手に構える。
町から幾分離れた距離にあるここは、凍竜の影響下にはないので寒くはなく、正直暑い。が、コートを脱ぐわけにもいかない。凍竜との戦闘時、また必要になるからだ。気休めかもしれないが、防寒と防具の機能がリベルチョイスのこの服にはある。
「入るぞ」
前衛の三人を筆頭に、僕らは森に侵入した。
「敵は私が探る」
フードがそう言った。念動力を扱えるらしいが、それが敵の探知にも発揮するらしい。
進行を邪魔する草木を掻き分け、道なき道を進んでいく。
「リッキー、なるべく気配消して」
「……できる限りはしてるよ」
森に入って数分後。隣で気配を潜め、無音歩行をしている彼女に指摘された。それがあまりにも唐突だったので驚いたが、すぐに落ち着いて返事をした。
そればっかりはどうしようもない気がするけどなぁ。
「てか、前からは恐ろしいくらいの気迫を感じるんだけど?」
リベル達三人からは、僕でも分かる程にピリピリした空気を周囲に放っていた。これではいくら気配を断っても意味がないんじゃないのか。
「相手には敵が三人だと認知して欲しいから、あれでいいよ」
ああ……なるほど。敵の警戒を彼らだけに向けようとしているのか。そんな作戦は聞いてないんだけど、これが普通なのかな。
「分かった、善処する」
アリシーのような高等技術が僕に使えようはずもないので、足音だけは小さくなるように頑張った。だがほとんど暗闇の森の中だ、足下に落ちている小枝をぱきりと折ってしまうこともしばしば。アリシーはどうやってるんだ。
他の二人も、アリシーまでではないがちゃんと気配を断っている。気を抜くと、二人のことなんか全く目に入ってこない。
いや、本当にどうやってるんだ。
――森の中の静けさは、気持ち悪さが漂っていた。時折見せる虫の鳴き声が心を鎮めてくれるが、そうでない時は静か過ぎて怖い。幽霊でもいそうだ。
ここで、フードが口を開いた。
「百メートルほど前方。広場のように開けた場所で、凍竜と思われる反応が一つ」
「こっちに気付いてる様子は?」
すかさず質問を投げたリベルには、フードの代わりにアリシーが答えた。
「気付いてるよ。かなり警戒されてるから、そろそろ何かしてくるかもしれないね」
「そうか。こんな距離で警戒されるようじゃ、計画通りには運べんな」
さも当然のように彼は呟いた。そこに焦燥や落胆の意は一欠片もない。想定外になるのが当たり前、といった風だ。
「じゃどうすんだ」
もう一人の筋肉が次の指示を仰ぐ。
「奇襲が無理なら不意打ちだ。最初に前衛の俺らが突貫するから、後の四人はゆっくり着いてこい。そこからやることは一緒だ」
「承知した」
弓使いが告げると、先頭の中心に位置する装甲の男が剣を引き抜いた。背中から解き放たれた直剣は、白銀の刀身を煌めかせて、獲物を斬りたそうに疼いている。
「そんなら、ちょっくら行ってくるぜ」
その言葉を合図に、彼らは雄叫びを上げて前方へ突っ走っていく。後ろ姿はすぐに見えなくなり、静寂が返ってきた。
マジか。
「……なんの躊躇もせずに、行ったね」
あまりの突拍子さに、僕だけが着いていけてなかった。他の皆は平然としている。
「作戦を練るってのは、気持ちを落ち着かせたり意識を固めたりする意味でもあるんだよね。だから、結局は臨機応変さが大事なんだよ?」
そんな僕に、アリシーが説明してくれた。
「作戦自体に意味がないわけじゃないけど、作戦通りに行かなかった場合に狼狽えるようじゃ駄目だからね。じゃ、先進もうか」
まるでアリシーがリーダーみたいだ。今度は彼女を先頭に、気配を消した集団が後から向かう。
その際、新たに作戦が組まれた。
提案したのは弓使い。通常通りのケースと最悪のケースを想定して、大まかに二つの案が出された。
一つは前衛の三人が無事に生きていて、尚且つ凍竜相手に戦える状態の場合だ。
その際は、持ち前のスピードを駆使してアリシーが凍竜に突っ込み、向こうの注意の全てを彼女に向けさせる。
本来ならば最初からフードの念動力で凍竜の動きを止めたかったのだが、警戒が強過ぎたりすると念動力を行使する前に阻害されたり対抗されたりするらしいのだ。これがただの人間であれば警戒されたところで意味はないのだが、相手は二十メートルの大物。どう転ぶかは分からないし、通常では有り得ないことも想定して挑むことになった。
その時に巧くアリシーに注意が向けば念動力を掛け、そうでなければ僕と弓使いが応戦して注意を引く。
念動力で凍竜の動きを止めたら、弓使いは従来通りに敵の目を奪うべく、弓矢で眼球を射抜く。
前衛が凍竜の懐にいない場合は、僕の槍で凍竜の腹を爆破する。それで弱った敵を注意しながら無力化する。
これが作戦その一。
だが、問題は最悪のケースにある。それは、三人が重傷若しくは死んでいた場合の作戦だ。
全員が生きていたのなら、弓使いに注意を逸らした隙を狙って僕、アリシー、フードの三人で皆を救出する。二人か一人だけ生き残っていた場合は、僕以外の全員が助けに入る。悔しいが、その場合僕では役に立たないのだ。本当なら、できれば待っていて欲しいとアリシーには言われた。
彼女は明言しなかったが、確かに僕は“足手まとい”だ。
――で。三人が既に殺されていたら。
そうなってしまうと、後衛の僕らも生き残れるか分からない。屈強な前衛が短時間に潰されるようでは、凍竜の力を後衛だけで押さえるのは不可能に近いのだ。
だから、死体は回収しない。各自が己の全てを使い、凍竜からの逃走を優先するということになった。
リベル達が死ぬなどあまり考えたくはなかったが、それも視野に入れなければいけない。
これは命を懸ける戦いだ。僕を含め、全員が“死”は覚悟している。だから、リベル達が死んでいたら逃げねばならない。その後、力を蓄えて敵を倒すためにも。
「――いた。やるよ」
視界の奥に、開けた場所が見えていた。広場だ。そこだけが白銀の空間に包まれており、ここからでも青白い物体が見えていた。
「……」
ごくり。生唾が喉を通って口内が乾く。あれが、凍竜か。
なめくじのようなぶにぶにした体躯に、背中から生える巨大な翼。それらを覆うように氷が全身に隈無く張り付いたその姿は、まるで天然の装甲。その頭部の先、氷で形作られた厳めしい一本角が、竜を象徴していた。
……戦いの時には、ああやって弱点を氷が覆うのか。ここだけ気温が低い。零下何度だ。これじゃ動きが鈍る。
だが――三人は無事だ。苦戦しているが、まだ一人としてやられてはいない。
そこで。
化け物の黒目が、ギロリとこちらを向いた。刹那、アリシーが隣から消える。
「――ふっ!」
目にも止まらぬ速度で凍竜の頭上に出現したアリシーは、踵落としを角の上から叩き込んだ。上等な角が真っ二つに折れ、凍竜の頭ががくんと下がる。
「アリシー、避けろ!」
リベルの叫び声がして、即座にアリシーは凍竜の頭部を蹴っ飛ばして後ろに飛び退いた。先程までアリシーが居た場所に前足が横凪ぎに振り回され、白銀が舞って空気が凍り付く。
……何だよ、そりゃ。
今、一瞬でも避けるのが遅れてしまったら、アリシーは確実に“アレ”に吹っ飛ばされていた。恐らく、当たってしまったら、死ぬ。
あんなのと戦うってのか? 冗談じゃないぞ。
「オラァ!」
僕が戦慄している間にも容赦無く戦闘は続く。
筋肉野郎が凍竜の攻撃の隙を狙い、後ろ足の関節部分に拳を振り抜いた。いくら氷で体表面を覆っても、関節までは守れない。痛みに唸った凍竜が尻尾を叩き付けようと身体を捻る。
そこを、銀光が駆けた。地面とプレスさせんばかりの勢いで振られた尻尾は巨大な盾に防がれ、太い直剣に半ばまで切り裂かれている。尻尾に氷の装甲は張られてはいないみたいだ。
「……ッチ、効くねぇ。あんまり無茶はしないでくれよ?」
「わりぃ、助かった!」
彼らはその場には留まらず、散開。一足遅れた凍竜の爪が地を抉り、苛立たしげにまた唸る。そうして二人に隙を作らされた凍竜の逆側から、リベルとアリシーの波状攻撃が繰り出された。リベルは装甲の隙間を狙って拳を入れ、アリシーは装甲などお構い無しに連撃を側頭部にぶち込む。
なんというコンビネーションだ。二十メートルもある巨体が、たった四人に防戦を強いられている。しかし、これといって深いダメージは見られない。尻尾の傷も、氷で覆われて既に塞がっている。
「行けそうか?」
戦いを見るのに熱中してしまっていた僕は、弓使いの一言で我に返る。そうだ、何呑気に観戦してんだ。自分も渦中にいるのだ。
「大丈夫」
強く頷いたフードが、片手の平を凍竜に向けた。
すると――多分、何かしらのことをしていたんだろう。全く把握できないが、凍竜の動きがぴたりと止まった。いや、びくびく痙攣はしている。成功だ。
「早く」
辛そうな呻き声を洩らしたフードは、くい、と顎を凍竜へ差し向けた。それを合図に槍を構えた僕は、懐に誰も来ないのを確認。行ける。殺れる。今しかない。
筋肉を怒張させた。槍を振りかぶり、投擲の準備を完成させる。
時を同じくして、弓矢が物凄い速さで射ち放たれた。びゅん、と空を飛んだそれは乾いた空気を切り裂き、凍竜の眼球に直撃――。
誰もが予想できないタイミングで、事態は起こった。
『――嘗めるなよ、劣等種族の出来損ないが!』
それは、確かに咆哮とも捉えられる叫びであった。天地を揺るがす程の、雄叫びだった。
「なん……だって?」
槍を持ったままでは耳を塞げない。キィンと鼓膜を貫いた影響で、不快さと共に音の世界を失う。だから、そう驚きの言葉を発せたのかも分からない。
けれども。聴音機能を一時的に失う前。耳には届いていた。だがそれは、リベルでもなく全身装甲でもなければ、筋肉野郎でもない。ましてや隣の弓使いからであるはずかない。
そいつは。
“凍竜”から発された、確かな言葉だった。
ソイツは、僕ら全員の動きが停止したのを舐め回すようにして見ていく。眼球の黒目がころころと位置を変え、一人一人を見定めている。それを貫こうと迫っていた矢は、寸前で新たに展開された氷の壁に防がれてしまっていた。
まずい。直感的にそう思ったが、先の咆哮で硬直させられた身体は動くことを知らない。既にフードの念動力は解け、敵は自由になってしまっている。寧ろ、動きを止められたのはこちらの方。
だが。全滅という二文字が脳で反響している中、一人だけ動いた者がいた。圧倒的なまでに戦況を崩された戦いの中、冷静さを欠かずに動いたのはアリシーだった。
彼女も聴覚は失っているに等しい。それでも尚、俊敏な脚力を以てして地を跳ね、黒き残影と化したアリシーは懐から抜いた短剣を逆手に身体ごと突き刺しに掛かる。その行動が、油断していた凍竜の片目を抉る結果となった。
同時に、片方の視力を奪われたことで憤怒を露にした凍竜が、アリシーに反撃した。突如としてアリシーの周りが氷に包まれ、彼女をも凍らせるように冷気が増殖する。
それが右腕から肩までを凍らせた辺りで、彼女は氷を蹴って凍竜と距離を取ったが。
――ぐわん、と鈍く不快な音が頭に侵入してくるのを境に、次第に戻っていく聴覚。時間を稼いでくれたのもあり、僕らの聴力は次第に復活していた。
「ご……めん……っと、ま……ずい」
僕の隣によろめきながら着地したアリシーは、声を震わせる。彼女の両耳からは血液が流れ、左手で押さえた右腕は服まで凍っていた。
まずいぞ。先の咆哮を一番至近距離で受けたのは彼女だ。鼓膜が両方とも破れている。更に右手はナイフを掴んだまま青白く変色し、服ごと氷が覆って肩まで侵食してしまっている。
だから、何も言わずに彼女を左腕で抱き寄せ、木の陰まで移動させて座らせた。幸いにしてリベル達が硬直から回帰し、再び凍竜と対峙してくれているからそれをするだけの時間はあった。
アリシーが付けた傷は甚大だ。敵も、視界を半分奪われた状態では実力を発揮できない。だけど。
「……りっ、き」
痛々しく微笑むアリシーのダメージは、それ以上に深刻だった。戦おうと立ち上がろうとした彼女の肩を押さえ、静止させる。もう駄目だ。いくらアリシーでも、手負いでは凍竜の攻撃を避けられない。
目を潰してくれただけで十分なのだ。あのまま戦い続けても、弓矢では一生傷を負わせられないのは確かだった。それを、凍竜がもっとも安堵し油断しているタイミングを見計らって追撃をしてくれた。
普通であれば、あんな場面で反撃に転じるのは不可能だ。それを可能にしただけではなく痛手を負わせて帰ってきたのだ。もう十分だ。
僕の言わんとすることが分かったのか、彼女は立とうとするのを止めた。
……あれ。
ふと、自分の瞳から涙が溢れていたことに気付き、左手で拭う。そうしてアリシーの顔をもう一度見やり、手のひらを彼女の頬に当てた。
「行ってくる」
恐らくそれは聞こえてはおらず、口元の動きで察したのだろう。アリシーは、ゆっくりと頭を傾けて頷いた。
槍を握り締め、僕は振り返る。
アリシーの戦線離脱は痛かった。息も凍る温度の中で戦い続けるには体温が足りず、全員の動きが鈍り始めている。片目を失った凍竜も同じく動きは鈍っており戦力は拮抗しているようだが、この均衡もいつ崩れることか。
「あの娘は大丈夫か」
「一応は。破れた鼓膜と右腕を覆っている氷が気になりますが、戦闘範囲からは逃がしました」
「助かる」
継続して弓を射っていた彼は、眉間に縦皺を刻んでいた。狙いは正確なのだが、矢が凍竜に傷を付ける寸前、空気中に氷の壁が発生して攻撃の全てを防いでしまうのだ。これではじり貧となってしまう。矢が切れるのも時間の問題だ。
思わず槍を締める手に力が篭る。ギチギチと悲鳴を上げる持ち手を忌々しく思う自分が居た。ここで何の考え無しに出てっても邪魔にしかならない、ひたすら機会を窺うだけしか今の僕にはできないのだ。
「早まるなよ」
弓使いに静止され、凍竜と三人の戦闘を眺め続けていた僕は槍を構え直した。
「分かってます。変なタイミングで投げても意味がないですから」
焦り逸る気持ちは抑えなければならない。ここで雄叫びでも放って突っ込めば気も紛れるのだろうが、それでは駄目だった。
――この寒さの中、爆弾が起爆してくれるのか。不発でもしてしまえば、いよいよ決め手が無くなってしまう。そこはエステとやらの技術に賭けるしかないのだけれど。
「駄目。全て弾かれる」
少し離れた場所で手を掲げるフードの瞳の内には、どうしようもない怒りと憎しみが沸き立っていた。
どうやら根気よく念動力を掛け続けていたみたいだったが、最初の一回以降は到達する前に不可思議な力によって遮断されてしまうらしい。
このままでは無理だと判断したフードは、物力戦にシフトチェンジした。とは言っても、自然から拳大の石ころや木の枝を念動力で動かし、遠距離から凍竜へ飛ばすだけ。残念ながら弓と同じく氷に防がれるだけになっている。
「あの敵……知能がかなり高いみたいですね」
凍竜は人間の言葉を喋っていた。となるとそれくらいの頭はあると思った方がいいのだろう。少なくとも、念動力や普通に遠距離攻撃を放つだけでは氷の壁に阻まれてしまうというのが現実だ。僕の槍も同じように対処してきそうだな。
爆弾に、氷を破壊して凍竜に傷を負わせるだけの威力があるのかは、やってみないことには分からない。
前衛は押され始めていた。全身装甲の装備は度重なるダメージで所々がひび割れており、剣は返り血で切れ味を悪くしている。瞳をたぎらせる炎は少しも衰えていないが、肉体の活動能力が下がってきている。リベルら二人も同様だ。
「これは、機会を狙わせてもくれなさそうですね」
「そのようだ」
「槍、どうした方がいいですか?」
「やばいと思ったら投げてくれて構わない。その時は撤退だ」
弓使いは肯定した。流石の狩人も顔には焦燥が浮かんでいて、有利に運ぶ手段なんかないと言いたげだ。それよりも逃げた方がいいとさえ言ってもおかしくない。
だがリベルら三人は勇猛果敢に戦い続けている。その甲斐もあって相手もかなり辛そうに応戦してはいた。このまま攻めて持久力負けするのはこちらなのが濃厚でも、逃げるのは違うと三人共々胸に刻んでいるに違いない。
しかし、それも紙一重のチームプレイがあってのこと。一つでもミスをしてしまえば、この戦いは一気に終わりを迎える。
「がっ……」
その時は、とうとう訪れた。
リベルの口から大量の血液が吐き出された。腹からは美しくも残酷な氷の刃が飛び出し、彼の身体の中心を貫いている。遂に凍竜の爪が、動きを緩慢にしていたリベルを捉えてしまった。
「リベル!」
僕の叫びも空しく、背中から突き入れられた爪が抜かれる。どばっと腹から赤黒い血をこぼした彼は、力なく地に倒れ伏した。統制が乱れた前衛の戦士達は、リベルがやられたことに動揺する。
そこに生まれた隙を見逃す敵ではない。誰もが息を呑む中、氷の流線が駆け巡った。一層強まる凶悪な冷気と共に、銀が中空に飛び散った。
続いて飛び出したのは赤。白一面に真っ赤な斑点が付着し、その中心は血だらけの湖に変貌してしまっている。
そこでは。銀色の装甲が、見るも無惨に大破していた。鎧の中身はがっくりと頭を下げ、ぴくりとも動かない。
無情にも竜の巨大な顎が最後の一人に向けられた。氷で強化された刺々しい外郭は見る者を動けなくさせる勢いと迫力があり、大口を開いてそこから覗かせる牙は、餌を前にビクビクと奮わせていた。
『このような劣等種族に命を脅かされるとは想定外だったが、目にも慣れてきた。戯れは終わりだ』
今度は誰の耳にも聞こえるように言葉を放った凍竜は、知性を湛える瞳をそれぞれに突き刺す。そして、それは硬直している筋肉野郎を――。
横から飛び出した一撃が、ばくりと閉じようとした口の方向をずらした。黒い閃光となって跳び蹴りを喰らわせたのは――アリシーだった。
「ばっ……」
鼓膜と右腕の負傷をそのままに飛び込んできた彼女へ言葉を掛ける寸前、苛立ちを露にした凍竜の振り回した尻尾が進行上に位置する二人を凪ぎ払った。強力な打撃に打ち据えられ、衝撃は易々二人を場外へ吹き飛ばす。そのまま、見えなくなってしまった。
「クソッ!」
悪態を吐く僕を嘲笑うようにして、凍竜の牙がこちらに矛先を突きつける。
『残るは貴様らのみだ』
我が身に余裕が出てきたのか、凍竜の口から言葉がこぼれることが多くなっている。虫けらを踏み潰すかのような口調に、僕はこめかみに青筋を這わせた。
弓矢のストックはなくなり、念動力は使い過ぎたためか本人が息を切らしていて全ての攻撃は止んでいる。
僕は覚悟を決めて槍を握り直した後、まだそれを投げようとはせずに――ゆっくりと口を開いた。
「残りは、だって? ただいたずらに人間達をなぶって……楽しいのか?」
人語を話せる竜だ、僕の会話が通じない道理はどこにもない。だが、話をする理由も特にない。コイツは敵だ。アリシーをあんな目に遭わせた化け物だ。僕は何故、そんな相手に言葉を投げかけたんだろうな。人間でもないのに。
『……? 人間よ、この言葉が分かるというのか』
ぐるると喉を唸らせた凍竜は、如何にも不思議そうな面持ちで感嘆した。覆う氷の上からでも、この竜が心の底から感心している様子が見て取れる。
そこまで馬鹿にするというのか? 知能は高いみたいだが、相当に捻くれた性格だな。
「楽しいのかって聞いてるんだよ。ナメクジ野郎」
罵倒を混じらせ浴びせると、ソイツはまた低く唸った。
『それは、貴様の方に私が問いたい質問だな』
そして、訳の分からない答えが返ってきた。
「僕はそんなことをした覚えはない、聞いているのは僕の方だ」
『フン。貴様がしていなくとも、他の人間がしているのは事実だ。現にこうやって私をこんな辺境の森まで送り込んだであろう』
こいつは何を言っているんだ?
疑問が浮かぶのも束の間、凍竜の背で広がっていた翼がはためく。それが冷気を流し、凍て付く空気が森に侵食する。
「そんなものは知らない。少なくともそれはこの町の住人がやったんじゃないだろうが!」
一つだけ確かなことがあった。こいつは僕の敵だ。意思疎通が可能だとか、関係ない。
『ならば私も貴様の事情など知らぬ。愚かな人間は駆逐し消し去るだけだ』
天に向かって、凍竜が咆哮した。びりびりと鼓膜を震わせたそれは、しかし先程よりかは強くはない。ただ、身体一つをすっぽり覆ってしまえそうな純白の翼を広げたその姿は、異様な威圧を持っている。
コイツが何を言いたいのかは朧気にしか理解していないが、何の確執もない無害な人間までもをその戦禍に巻き込む存在ってのは分かった。それだけで十分だった。
「こっちは死にかけるくらい迷惑してるんだ。死んでくれ」
言い放った終わりに、凍竜目掛けて槍をぶん投げた。それからすぐに逃げる体制を整える。こんなものであっさり死ぬはずがない。案の定氷の壁に阻まれて弾かれた槍は、凍竜の足元にぽとりと落ちる。
『それで仕舞いか?』
残念だが、それは違う。
――間を置いて、槍先がそこらの照明器具よりも光り輝いた。そう、不発かと肝を冷やしたが、しっかり穂先の爆弾は反応してくれたのだ。何かに勘付いた凍竜は上空へ身を翻らせたが、爆弾の輝きは凍竜の全てを飲み込む。
それは咆哮にも引けを取らない大音声で、爆弾が煙と焦熱を上げた。爆散して抉れた地面は周囲に散らばり、凍竜の立ち位置を塵と化す。
「――まあ、そうなるよなぁ」
逃げるには絶好のチャンス。しかし一歩も動けなかった僕は、その神々しい姿を垣間見た。
背の翼を羽ばたかせ、足元には氷の壁を張り、優雅に滞空する無傷な奴の姿を見てしまったら、もう逃げる気も失せる。
『それで、仕舞いだな?』
凍竜の顔面がにやりとひしゃげたようにも見えた。再び同じ台詞を吐き出した口元から、発した熱を冷ますようにかのように冷気を周囲にばら撒いていく。
やがて、大口を開いた凍竜の口と同等の大きさの力の塊を眺めながら、僕は奥歯を噛み締める。
ブレスだ。口元のすぐ先に集められた、絶対零度の冷気を僕へと発射しようとしている。今更逃げようとしても、遅かった。
――そのはずだったが。
「――っと、なんだなんだぁ、突然どうしちまったんだ?」
戦場に似つかわしくない素っ頓狂な声。それに僕は眉をひそめ、凍竜は真下へと視線を張り巡らす。
「……え?」
煙が薄れて爆発地が明瞭に見えたところで、僕は情けのない呟きを洩らした。
壊れて抉れていたはずの地面は、どこにもない。そこにあるのは森に似つかわしくない、無機質な鉄の床と柵。中心には、ほとんど全裸に布切れのみを申し訳程度に身に巻いた男。それはどこからどう見ても、牢屋と囚人だった。
『まだ抗うか、人間!』
忌々しそうに唸る凍竜が放ったブレスは、僕から標的を変え、全てを凍り付かせつつ新手の男へと迫る。
「《プロミネンス》」
しかし。それらは、紅蓮の炎に呑まれて消滅した。
声の発信源は、壊れた牢屋の中から。
「なんだか知らないけど、こいつは逃げるチャンスなんじゃね?」
空中に飛んだその男はくるりと一回転し、僕の目の前に着地する。頭を痒そうに両手で掻き毟りながら、彼は僕をちらりと見た。
「お前がやったの?」
どう返事もできない疑問がこちらに向けられ、事態に着いていけない僕は口を閉ざしたまま固まる。
「ちょっと、どした? てかお前顔色悪くね?」
そこに、凍竜の爪が飛来した。空を切り裂く冷たき爪が、男を切り裂かんと繰り出されるが。
「……邪魔すんじゃあねえよ。《炎剣》」
剣の形に整えられた炎が下から切り上げられて、氷の装甲ごと凍竜の前足が両断された。ずしりと重たい前足が地に落ち、赤い鮮血がぶちまけられる。
苦しそうに苦鳴を発した竜が翼を羽ばたいて後退し、鉄柵を破壊して広場の中央に逃げていく。突然現れた男が、嬉しそうに口端を歪めて笑った。
「久々の獲物だ、こいつはシャバのウォームアップに丁度いいぜ。かかってきな」
『ほざけ!』
事態が掴めぬまま、見知らぬ男は炎を纏って突貫する。それに迎え撃つ凍竜を見て、僕は佇むことしかできなかった。




