十四話 三人の姫
朝です。
どうして朝なのかって? そりゃ決まってる。僕の努力も虚しくルリさんの力であっさり彼女の部屋に戻ってきた後、お話や適当な雑談をして、疲れ切った身体を癒すため自分の部屋に帰ってから寝続けたのだ。
しかしながら備え付けの時計、タイマーが鳴らした八時の合図はけたたましく鳴り響いて、見事に僕を深い眠りから叩き起こしてくれちゃったのだが。
「……はぁ、ねっむ……」
眠いものは眠い。あれだけ身体を酷使したのだから丸二日くらい眠っても全然問題はないんじゃないか。
てかそこまで疲労していたら、普通は起きないけどさ。では、何故起きたのか。
それは。八時になった瞬間、目覚ましと重なってインターホンのチャイムが鳴らされていたからに相違ない。寝起きでよく頭が回らなかったのだが、きっと僕が起きたのは時計のタイマーじゃなくてインターホンのせいだろう。
今もピンポンピンポン鳴り続けてる。
とまあ、そんなことを“八時”きっかりにしてくる人は一人しか身に覚えがな
。
僕は玄関扉を開けた。
「おはようございます。二分遅刻ですよ、律樹さん」
「おはよう、ルリさん。ところで律儀にインターホンを押すのは何故?」
「八時になったと同時に私が直々に起こしてもいいのですが……。それでは律樹さんが可哀想だと思いまして」
「ん、いやいやそこに追加で大人しく寝かせるって選択肢が欲しいんだけど」
そう、今日は学校登校日である。行く義務はないのだが。
「寝過ぎは身体に毒ですよ」
まあいいや。もう寝られないし。起きたついでに、昨日の出来事でも整理してようか。
「それもそうだね。ごめん、着替えるからちょっと待ってて」
「外で待ってますね」
まずは、僕が尋ねた彼女らのことから。
この断層世界には、元々三人の姫がいた。一人目は僕でも知っているが、エクサル。二人目はレイジ。三人目はグリーフ。
昔。それぞれの国の姫が強大過ぎる力を所有し、その国間で戦争が行われていた時期があった。国獲り合戦、三つ巴の大戦争。
エクサル――メリーさんを見れば分かるが、同じように、レイジ、グリーフの姫も規格外の戦力を誇っていたらしい。
しかも、三人とも【ルーイン】と呼ばれる『三頭龍』を別々に所持していたのだ(メリーさんを例に上げれば、龍の恐ろしさは言わずとも分かるはず)。エクサルは【ローンギング】、レイジは【ディスペア】、グリーフは【アスピレイ】という龍を持っていたようで、三人の力は拮抗していたように思われる。
さて、そんな化物同士で派手に互いを削り合ったらどうなるのか? もしこれがペーパーテストで問題として出題されたのなら、僕は迷わず書くね。星が消滅します、と。
その通り。たった三人の争いで、三つの国は愚か、星が壊滅する危機にまで陥ったのだそうだ。しかしそれでも戦争を止めない三人に呆れて、アヤクスィダント――つまりは、ルリさんが動いた。
まずはとんでもない代償を産み出す魔法とやらを行使して、三人同時に彼女らの“半分”を強制的に封印。だから、今は彼女らの力は半減されているし、記憶も大部分を失っている。次に【ルーイン】の永続封印。あの輝く玉に龍を閉じ込め、ただの力の塊に変貌させて世界各地に封印した。
僕はこう聞いた時、まずこの質問をした。
「代償ってのは、何ですか?」
僕だって、エクサルや【ローンギング】の絶対的で一方的な恐怖を味わっている。それを四体も追加して、一気に封印したのだ。代償が軽いわけがない。
「ええ。ですから、私は肉体も、魂も、記憶も殆ど失いました」
こうあっさり言って退けたルリさんだったが、僕はどう返せばよかったのか言葉に詰まってしまった。
本題に戻そう。それでも、そこまでしても――世界は、既に手遅れ状態だったのだ。
魔法によって封印された、三人の姫と三体の龍。それで世界の滅亡は防げるかと思っていたが。
それだけでは、駄目だった。
世界は、今までの戦争の傷が深すぎて深刻なダメージを負ってしまい、既に自壊を始めていたのだ。何もせずとも地形は歪み、破壊され、収束し。生物はそれら天変地異とも取れる現象に呑み込まれていく。それを防ぐには、苦汁の手段を講じるしかなかった。
星が自らを消し去る一歩手前、ルリさんが取った手段はとある“禁術”の使用。僕からしてみれば何を言われても理解不能だが……何、核兵器が使用禁止みたいなところだろう。
で、先の代償魔法によってほぼ全てを失い始めていた彼女は、なりふり構わずその魔法を発動させた。本来の目的は物質召喚、そんな魔法を自らの星全域に張り巡らせて、“他世界”と世界をリンクさせ、こちらへ呑み込む。そうすることで、崩壊を一時的に防いでいるらしい。
これが所謂神隠しの正体。色んな世界の存在がここに集められるのは、そういう裏事情があってのこと。
この世界は今も崩壊に向かってはいるが、そうならないのは一重にルリさんのお陰なのである。そのお陰で、僕もここに来られた、ということなのだが。
制服に着替えた僕は、軽くうがいをしてから外に出る。そこには、相変わらず笑顔のルリさんが待っていてくれた。
「遅いですよ律樹さん、待ちくたびれてしまいました」
――彼女の記憶は、本を読んだだけのような知識しか残っていないのだと、本人が言っていた。つまりは他人事。自分でも何故そうしたのか分からないし、そうした時の感情も沸き上がらないのだ。【ルーイン】の存在を思い出したのも、メリーさんが【ローンギング】を出した時だったと言うのだから、よくもまあの短い時間で対処に臨めたもんだ。
まぁこの断層世界が存在している意味が分かっただけでも、収穫である。
「ごめん、ちょっと昨日のこと考えながら着替えてて」
てことは……僕は、とんでもない龍の封印を解かせてしまったわけだ。まさか知らなかったじゃ済まされないし、世界滅亡の駒を復活させてしまったのは、自覚しなければならない。
「ええ、では知りたいことがあれば聞いてください。今日は歩いて行きますよ」
まだまだ謎はあるが、そこは考えて埋めるとしよう。ルリさんの好意で、徒歩で学校に向かうわけだし。
◇
登校中。
質問するに当たって、まず疑問点をリストアップしなきゃいけない。その理由は、普通に疑問が多過ぎたからだ。
ならば昨日訊けばよかったんじゃないかと言われそうだが、流石に昨日は彼女の話だけでお腹いっぱい。ルリさんの話を精一杯咀嚼して、頭に叩き込むのが僕の限界だ。
今日僕に何かを言われるだなんてのは、ルリさんだって覚悟はしてるだろう。
ではまず一つ目。ルリさんは、代償で身体も精神も記憶もほぼ全て失っている。ならば今ここに平然と居るルリさんは、何なのか。
次に、彼女はどうして僕に“嘘”を吐いて、更にはアヤクスィダント学園に入学させたのか。この件については言い訳無用、変な答えが返って来たり質問をはぐらかしたりしたら頭ぐりぐりの刑に処する、例外はない。
三つ目。どうやらメリーさんが言う通り、彼女は「世界を移動してない」そうだ。これはルリさんの発言とも重なって、ほぼ確定した。それでは、ルリさんと三人の姫の関係はどうなっているのか。少なくとも姫三人に【ルーイン】を合わせて、ソイツらと対等に戦えるだけの力をルリさん単体で所有していたはずだ。あくまでも過去形だけど。話を聞く限りじゃ、彼女が平気でやってのけている行為は正しく神の所業だ。
はい、四つ目。彼女は学校でどう扱われているのか。ここまで知ってしまった以上、僕はまず“先生”の存在は睨むべきだ。他の生徒達がルリさんをどう見てるかによって、そのレベルは上がる。本来なら学校にすら行くべきじゃないのだが……。
これで五つ目、か。今のところ最後の質問。ルリさんは僕と最初に会った時点でどれだけ記憶を保有していたのか、そして今はどれだけ記憶が戻っているのか、だ。これさえ分かれば、魔法による代償が何によって還元されて、何が引き金となって記憶を思い出すのかを調べられる。とっても重要だ。
ちなみにこれらの質問。実は昨日の夜家に帰ってからゆっくりメモ書きをして、寝る前に事前に纏めてたりもする。
今朝考えただけじゃこんなにずらずら質問は浮かび上がらない、それができれば昨日の時点でとうに質問してるさ。
「はい、これ。この紙に書いてある質問に答えてくれればいいよ」
ポケットに忍ばせていた紙をルリさんに渡して、僕は目配せした。
普通なら紙にまで纏めてこんなマシンガン質問したら引かれるだろうけど、ルリさんだから大丈夫。
「ふぅん。ちゃんと聞いてくれてたんですね」
どこか頷きながら、彼女は紙切れを覗き込んでいる。
「……ルリさんは僕を何だと思ってるんだろうか」
「律樹さんですよ」
それなら……ん?
それって結局僕が人の話聞いてないってことになるんじゃ。
ご機嫌そうに前を歩いていたルリさんは、途中でくすりと笑って立ち止まった。
「頭をぐりぐり、ですか?」
あ、そこに反応しちゃうんだね。茶目っ気残して書いた僕も悪かったけどさ、この罰はルリさんだからその程度で済ますんだよ。
「答えによっちゃあね」
「ふふ。楽しみにしておきます」
「何を!?」
ルリさんはどこまで行ってもルリさんだった。
雑談はさておき。彼女は一通り読んだみたいで、折り畳んだ紙を僕に返してきた。受け取ったのを僕が広げて、書いた内容を見返す。
ううむ。やっぱり彼女は“日本語”が理解できるみたいだ。
「上から順に答えていきますので、私が変なことを言ったら頭ぐりぐりして構いませんよ」
どれだけ引っ張るつもりだ。もしかしてやってほしい? 頭の形変わっちゃうかもしれないから駄目だよ、縦長になっちゃったらどうするつもりなんだルリさん。
「ではまず。私は、残留思念のような存在です。律樹さんが認識している私は、存在しているようで存在していないんですよ」
残留思念。
意味としては、幽霊ってのが一つ候補に当たる。後は――最初から感じていた“仮面”に当たるか。他者の身体を乗っ取って自分の存在を顕現している、こう考えればルリさんの説明は付く。
「僕はずっと、ルリさんに“仮面”を感じていたんだ。何と言ったらいいのか……最初からずっと、偽物って感じがしてね。こう思うのは、もしかして他人の身体を使っているからってこと?」
「大方合ってます」
先、急ぎましょうか、と彼女は歩みを再開した。僕も横について同じペースで歩く。
実はまだ学校までの道程分かってないんだよね。
「嬉しいって、何が?」
「律樹さんだけですよ、私を“私”として見てくれるのは。ですから、嬉しいんです」
何とも恥ずかしい台詞を真顔で言ってくれた。僕には勿体ないお言葉だ、男冥利に尽きる。
喜ばれることは、一つもしちゃいないんだけどな。
「他の人はそう見てはくれないんですね」
なんだかとても悲しくなった。どうしてだろうね、どこまで彼女は一人だったのだろうか。僕が同情するもんでもないけど、当たり前のことを特別感覚で感じられるってのは……。いいや、考えるのは止そうか。
「ええ。では二つ目、ですね」
メモ通りの番号を口にしたルリさんが、歩行ペースも乱さずに考え始めた。
ルリさんもしかして質問内容覚えてる? あれだけ書いた文字を一度見ただけで記憶するだなんて、僕には不可能だぞ。
「……実は、ですね」
二番は――僕に嘘を吐いたことか。余りにも違和感なく平然と言われたから昨日まで気にも止めなかったけど、よくよく考えてみれば、ルリさんは明らかに高二じゃない。
「律樹さんが高校二年生だ、と言ってましたので、親近感を湧かせるためですよ。……二年前というのも、その場限りのデタラメです」
的確な解答だ。何について明記したわけでもないのにあっさり答えられてしまった。……僕が聞きたいのは、その先なのだけれども。
「そうした理由は?」
まさか僕のような不純な理由でもないのは分かり切っている。
彼女が動くとすれば、近寄るだけの目的を持ち合わせているのが、ルリさんだ。
「ここに入学させるためでした。エクサルの餌に、律樹さんならと考えたんです。……すみません」
ああ。やっぱり。
僕は彼女の説明を聞いて素直に納得した。
そもそも僕に災厄の残滓が付く可能性なんてのは、あの場面でしか考えられないんだ。
即ち、最初の“瞬間移動”。その能力行使の際に、僕に災厄の臭いを付けさえすれば、メリーさんを誘き寄せるのは十分に可能だった。
メリーさんが「アヤクスィダント」とかいう阿呆丸出しの学校を作っていた時点で、ルリさんは彼女の存在に気付いていただろう。
ただ自分から馬鹿正直に突っ込めば後手に回ってしまう、そんな時に現れたのが僕だったわけだ。
「謝る必要はないよ。僕が逆の立場だとしてもルリさんを使っていたと思うし、逆にそういう計画的な理由でもなければ、納得はできなかったかな」
「怒りはしないんですね」
どこか俯きがちなルリさんの一言が耳に入り、僕は顔をしかめた。
ルリさんらしくもない、わざわざ口に出さなくても僕の考えくらい読んでいるだろうに。
「むしろここで誤魔化していたら怒ってたよ、今後のためにもならないし」
僕が何のためにわざわざ質問を投げ掛けているのか。ここでルリさんが質問に嘘で返すようならば、時間の無駄でしかない。
「続けて」
僕はこれから、彼女に全面的に加担するつもりだ。僕のクソの役にも立たない頭脳がどう役立つのかは別にしても、何かしらの意味はあるはず。そのための質問であり、会話だ。
彼女が僕の行動を望む望まないにしろ、僕の意思は汲み取っているに違いない。
「分かりました。次は私と三人の姫の関係、ですが……残念ながら今は分かりません。かなり近しい存在であったことに間違いはありませんが」
なるほど。できれば関係図は頭に入れて置きたかったが、無ければどうしようもないさ。次の質問に期待することにする。
僕が次への返答を目線で示唆しているのに勘付いたか、ルリさんは三番目の質問についてはすぐに打ち切った。
「四つ目いいですか?」
「いいよ」
やっぱり一読しただけで全部覚えてるんだね。とんでもない記憶力だ。
「私は、学校では誰とも喋りませんでした。同じように誰も近寄ろうとはしてきません。元々エクサルのことを探るのに入学したので、一向に構わなかったのですが……寂しいですね」
後半はほとんど彼女の思いだった。端から予想はしていたが、いざ本人から言われると目頭にぐっと来る何かがある。だから最初に僕が彼女に話し掛けた時、心の奥では困惑していたんだろう。様々な思考が頭の中を駆け廻ってもおかしくはない。
さて。
これまでの質問で、僕は違和感を発見した。メモには書いてないが、やはり先生は怪しい。空気同然だったルリさんを名前に出した時点で、確実にこっち側の人間だ。
まあそれは置いておくとして、僕は少し彼女に意地悪してみることにした。
「ルリさんはぼっちだったんだね。じゃあ僕が初めて話し掛けた日、どんな風に思ってたの? 利用すること以外で」
普通はこんなこと聞かない。
だが反応に期待する僕に、ルリさんは全く動じることなく最強の殺し文句を言い放った。
「秘密です」
なるほど。これでは何も言及できない。
「自ずと分かる日が来ます。それまで、我慢していてくださいね」
結局彼のところ、彼女から贈られた答えは時間の経過だった。
いずれ本当に分かるのかは定かではないけど、これ以上追及する趣味を僕は持ち合わせていないので諦めておこう。
視界の奥に学校が見えてきた辺りで、僕は丁度いい頃合いだなと、これから起こす行動のために心を引き締めた。
次で最後。前四つの質問で大方予想は付けられたが、最後に本人から聞けばより確実なものとなるだろう。
「ルリさん、では僕と初めて会った時点で残っていた記憶を教えてください」
今までの流れからすると、ほとんど憶えてなかった、が濃厚だが。もう少し情報があれば、警戒していたメリーさんに接触する無茶を敢えてしておく必要もなかったわけだし。
「私が覚えていたのは、自分の名前と現状と、エクサルの容姿と力。後は自分の成すべきこと、でしたね」
とは思ったが、予想以上に記憶が消去されていた。
自分についても、名前と状態だけとは。
「で、今は彼女らに【ルーイン】を合わせた情報だけが頭に入っているわけか」
「ええ、その通りです」
これがルリさんの五番の解答だった。
所謂エピソード記憶の消失、か。
まるで本当の記憶喪失のようだが、思い出に触れさえすれば関係する記憶を引き出せるのだし、そこまで強い枷ではない気がする。
ただ、必ずこちらが後手に回る羽目に遭うな。メリーさん同様、他の奴らもアヤクスィダントの存在だけは認知されている可能性が高い。
僕はメモを四つ折りにして、ポケットにしまい込んだ。
――気になることがある。
先の会話で発生した違和感だについて。
直接的な関係もないので特に言うつもりはなかったが、少しばかりカマを掛けてみることにした。
前方を優雅に歩いているルリさんに、僕はぼそりと呟く。
「……“東京”」
いつも通り。
仮面を被った笑顔が僕を貫いて、ルリさんは何事もなさそうに片眉を吊り上げた。
「なんですか?」
純粋に疑問符を浮かべた表情からは、この言葉を知っている感じはしない。
だが。よくよく考えればメモを読めたこと自体が可笑しかったのだ。“言語の統一化”は言葉にしか影響しない。
なのに前回彼女から貰った紙も、僕が読めたということは日本の言語で書かれた紙だ。
あまりに自然に言葉が通じるので頭の中からその考えは浮かばなかったが……どうしてだ。
「いい。どうして日本語が読めたのかなぁと思って」
「今更ですね」
むしろ僕の反応に驚かれた。
ツッコミが遅すぎたのは僕が悪かっとして、自覚あったんかい。
「以前に教えて貰ったことがあったんですよ、それで偶然知っていました」
お次はその返事に違和感を禁じ得なかった。
――どういうことだ?
彼女が地球出身でないのは当然だからそれには何も言わない。けれど、教えて貰ったということは、教えてくれた人が当然いるわけで。
彼女の記憶は失われていたんじゃないのか?
そうでないのなら、人との関わりは今の彼女にあるか? 中でもそこまで親しく、更には日本語を教えてくれる友人は居るのか? そんな話はあり得ない。
となると、ルリさんは僕に嘘を吐いていることになる。
僕が感じた引っ掛かりはそこだけだが、そこだけでも問題なのだ。
一つでも嘘を言われてしまったら、今までの発言の全てを疑うことになる。
「……あの、ルリさん。何か隠し事してませんか」
ここで黙っている僕ではない。よそよそしく、わざとらしく、敢えて「敬語」に直した言葉で、ルリさんに疑惑の念を突き刺した。
「……」
珍しく沈黙してしまった彼女。見つめた黒い瞳が微かに震え、横薙ぎに吹いた風に髪がさらわれていく。
どうして黙った、ルリさん。
そんな彼女は今まで一度も見たこともないし、見たくもない。いつもみたく饒舌に返してくれたらどれだけよかったか。弄ってくれたらどれほど気が楽だったか。
「――気付いて、しまいましたか」
凛々しくも、儚く脆い。彼女のソプラノボイスを脳が認識した時、僕の足は、自然と立ち止まった。
温い空気が頬を撫で、気分の悪くなった僕は彼女からそっと視線を外す。
「……律樹さん。私は律樹さんに、一つだけ隠し通さなければならないことがあります。でも、この調子では、すぐにでもバレてしまいそうですね」
彼女は僕の正面に向かい合わせに立ち、返事を告げる。眼下に広がる地面ばかりを眺めている僕は、彼女の表情を見ちゃいないが。
その隠し事ってのは、そこまで重要な案件か。
僕を騙さねばならないほどの、理由があるのか。
僕を利用したのに、関わりがあるっていうのか。
「律樹、さん」
と。
今にも泣き出しそうな言葉が、思考を連ねる脳の隣、鼓膜にずしりと響いて。彼女の白い腕を、視界の端に捉えたと思ったら。
「ル、ルリ、さん……?」
半ば強引に引き寄せられて、僕は抱き締められていた。
誰に? 何に? 頭の中でぐるぐると暴れる思考の外、考えるまでもなく。実はとっくに理解していた。
ルリさんだ。他に僕を抱き締める奴が、どこに居ると。
僕の肩の横。背中を強く掴まれて抱き締められた今の僕には、彼女の感触も、体温も、震えも、吐息も、息遣いも、上気した頬も。全てが至近距離で発せられている。
初めて得た感情だった。
ルリさんが、怖がっている。何に? そんなのは知らない。でも、確かに何かに恐怖している。
――ああ、いや。
先程知らないとは言ったけど、あれは嘘だ。ルリさんは、僕に恐怖している。
何の力も持たない僕に、怖がってる。
「私は……ずる賢い生物ですね。こんな場面で抱き締めるだなんて、狡猾にも程があります」
彼女の吐き出した声は、驚くくらいに震えていた。
「抱き締めながら言うのは、それこそずるいとは思いませんか」
「……ええ、思ってます」
こんなことされたら、何も考えられなくなるじゃないか。
僕は単純な男でしかない。ルリさんを好きだと分かっている以上、ここで抱き締められたら、放心してしまうのは必然で。
これから告げられる彼女の言葉に、ただ耳を傾けるしかなかったのだ。
「もしも律樹さんが隠し事に気付いてしまったら、私を嫌うことになるでしょう。そして律樹さんなら、私が言わずともその内気が付くはずです」
突然、僕を締める力が強くなった。
……僕は、これ以上苦言を口に出すつもりはなかった。
今日初めて、ルリさんが立派な感情を露にしてくれているのだ。
喜ぶべきじゃないか。
それと同時に。悲しんでやるべきなのだ。
彼女は僕よりも遥かに重い荷物を背負って、未だ全体の見えない敵に立ち向かっている。スケールが大き過ぎてやや想像に欠けるが、その領域で彼女は苦悩して、戦っているのだ。
僕は彼女を勘違いしていた節がある。
描いた人物像は、強くて、優しくて、次元が違う人。端的に言えばそう思っていた。しかし、それが大きな間違い。
彼女も一人の女の子と何ら変わりのない、普通の精神を持った普通の人なのだ。
実態が分かった今、パラノイアだなんて差別は受けさせない。彼女は普通の女の子だ。
「ルリさん」
放心していた両の腕を、彼女の後ろへ。僕はなるべく優しく、彼女の背中へ手を回した。
「僕が、ルリさんを嫌いになると本当に思ってる? 僕は大切な話の時に隠し事をしたから怒っただけで、でなきゃ絶対に怒らない」
自分から抱き締めてやったことで余裕が生まれた。次は、僕が狡猾になる番だ。彼女から抱き締めてきた時点で、僕が同じことをしてはいけない道理はないんだよ。
「ねぇ、ルリさん。君にとって、僕はどんな存在?」
以前から聞きたいな、とは心の隅では思っていた。僕からすれば片想いの人だけど、ではルリさんからすればどうなのか。
嫌いだったら、傍には居てくれないよな。じゃあ、だったら。
「律樹さんこそ、ずるいじゃないですか」
「ずるいよ。でもルリさんも同じだ」
てかコレよく考えたらめっぽう恥ずかしいじゃん。
長時間抱き締め合う――? 触れ合う――? ああ、なんか熱いぞ、熱い、肌が。
「質問を変えるよ。じゃあ、少なくとも、ルリさんは僕に嫌われたくないと思ってる?」
「そうではなかったのなら、律樹さんを迎えに来たりしません」
上気した頬が横からちらりと覗えて。
それならそれでいい、と僕は口元を横に歪めた。
「……じゃあ、そうだね。約束するよ、僕は必ずルリさんの秘密を暴いてみせる。それも踏まえてルリさんを嫌いにならないんだと、証明してみせるさ」
ルリさんに好意を持たれていたのなら、十分過ぎるほどに満足だ。
そして、僕に嫌われたくない思いで嘘を吐いたんなら――全部受け止めてやる。それくらい軽く包み込めないのであれば、僕はルリさんを好きになる権利すらない。
「……じゃあ信じます。ではもしも律樹さんが私を裏切ったのなら、私は貴方を一生恨みますからね」
恐ろしい台詞を抱き締めながら言ってくれるな。でも、本来ならば背筋がぞっとするくらい冷たい言葉なのに、今は何だか暖かく感じる。
何だか僕は、彼女に信頼されているみたいだ。
「ルリさん、最終確認をするよ。“隠し事”は、今のだけだよね?」
「ええ」
単なる会話での確認の後。二人同時に、自ら背中に回していた手を外した。数十センチ間隔まで離れた僕らは、紅潮している顔を見合わせて、静かに笑った。
僕は苦笑い。ルリさんはいつもの微笑み。
「律樹さん、この間のは撤回させてください」
唐突に、こんなことを彼女は言い始めた。僕が何をと訊く前に、彼女の右手が、僕の右手をがっしり掴む。
「律樹さん。“友達”になりましょう」
ああ。そう言えば、そんなこともあったね。あの時ルリさんは、変なこと言っていたんだっけ。
では、利用されるだけの人からただのお友達に昇華できるってわけだ。ならばここはデリカシーのない発言は控えて、素直に彼女に従おう。
「勿論だよ、ルリさん」
こうして交わされた、二度目の握手。僕はこの日、本当の意味でルリさんと繋がれたんだと思うことができた。彼女からの絶対的な信頼の握手。僕は絶対にルリさんを裏切れないし、裏切るつもりもない――。
「さて、ルリさん。これからどうしたい?」
紅潮していた顔から、すっかりと元の透き通る白肌に戻った彼女の表情。覚悟を決めた瞳は、僕に心の底から協力を求めていた気がした。
友達として。
「では、改めて。私は、三人の姫と【ルーイン】を捕まえます」
「僕に一つ心当たりがあるよ。先日、アヤクスィダントの名前を上げてきた教員がいたんだけど――」
再び歩みを再開させた僕らは、明確にした目標をしっかりと焼き付けた。遠目に映る学校を見据え、確かな一歩を踏み出す。
「――まずは、竹内洋助を捕まえる」
本格的な戦いの火蓋は今を持って、静かに切り落とされた。




