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エピローグ:契約満了

 ()もよ み()持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この(おか)に 菜摘(なつ)ます()

 (いえ)聞かな 名()らさね

 そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ()

 しきなべて われこそ()

 われこそは ()らめ 家をも名をも



  (かご)よ、美しい籠を持ち、(へら)よ、美しい箆を手に、この岡に菜を摘む娘よ。

  あなたはどこの家の娘か。名は何という。

  そらみつ大和の国は、すべてわたしが従えているのだ。

  すべてわたしが支配しているのだ。

  わたしこそ明かそう。家がらも、わが名も。



         万葉集 巻第一・一番歌 雄略天皇



    *

    


 西蘭共和国の女王陛下が、帰国の途についてから一週間が経った。

 ()()()()()()()女王の滞在中、東京駅に爆破予告がなされ、安全のために乗客が一時避難するという出来事はあったものの、実際には爆薬は発見されなかった上、騒乱を企図した新時代主義者達の残党も、陸軍と警察の協力によって速やかに全員逮捕されたということだった。

 大部分の関係者達も、大きな事故もなく、無事に国賓を見送ることが出来たということで、皆、胸をなで下ろしていた。

 もちろん、事実は、報道とは大きく異なる。

 小野少佐の引きおこした事件は、政府や軍、皇城のごく一部にしか知らされていない。

 現役の陸軍将校が、新時代主義者達を扇動し、国賓のいる迎賓館と東京駅に下瀬火薬を仕掛けたこと、そしてその目的が、国家転覆にあったということは軍内部に大きな衝撃を与えた。背後には、我が国の西蘭共和国との接近を快く思わない北部連邦がいることは明白だったが、外交問題に発展することを避けるべく、情報統制が敷かれた。

 なお、小野少佐については、軍内部においても、死亡ではなく、行方不明という扱いにされた。その理由は、小野とともに今回の事案を扇動していた若榴の存在を徹底的に秘匿する必要があったからだ。

 勢州に巫の一族がいたこと、それがとある理由で現在の皇城によって滅ぼされたことは、歴史の影に葬り去らなければいけないのだ。

 あの晩、手負いのまま逃走をした若榴の行方については、皇城の息がかかった憲兵隊が追っているが、未だその足取りはつかめていない。

 なお、言うまでもないことだが、本事件解決の立役者である如月少佐の婚約者が、もう一人の勢州の生き残りであった件については、大君殿下とその側近によって、固くその秘密を守られている。


    *


 その日は、十二月に入って最初の満月だった。

 東京山の手の高台に位置する、こぢんまりとした木造平家建ての屋敷。その台所からは、香辛料のきいたカレーの甘い匂いが漂っていた。

 濡れた鴉の羽根のように艶やかな黒髪に紅色の髪ざしをさし、淡い雪色の和服に、割烹着を重ね着した少女――睡蓮が、味見用の小皿に取り分けたカレーを、小さな口の中に含んだ。


「……うん、美味しい」


 そうつぶやき、そして、少しだけさみしそうな表情を見せた。

 舞踏会での事件が起こった翌日から、この一週間、龍進は三郎とともに、軍での事後処理などで、ほとんど司令部に泊まり込んでいた。若榴との斬り合いで負った傷跡も癒えていないというのに、家で休む暇もない彼のことが気になった睡蓮は、毎日、司令部に着替えと弁当を届けに行った。

 迎賓館において彼女の美貌に接した軍関係者も多く、彼女が司令部に来る度に、下士官達がこぞってやってきて、龍進がこもっている居室への案内役を買って出た。

 そのたびに龍進は、恥ずかしそうな、それでいてどこかうれしそうな複雑な表情を見せて、睡蓮が持ってきた風呂敷包みを受け取ってくれた。

 そして、今日の昼、いつものように荷物を持ってきた睡蓮に、彼はいつになく硬い表情で言った。

 今晩は久しぶりに家に帰れそうだ。その際に、君との契約の満了について話をしたいのだが、いいだろうか、と。

 睡蓮は小さくうなずきつつ、ついにこの日が来た、と静かに受け止めた。

 舞踏会を終えた以上、彼が自分と偽りの契約を続ける理由はないからだ。

 大君からの大赦を受け、咎人ではなくなった自分は、誰かに捕らえられることもない代わりに、これからの居場所を自ら探さなくてはならない。

 そして、司令部から家に帰る途中、今日が最後の夕食となるなら、龍進が好きだと言ってくれたライスカレーを沢山作ろうと決めたのだ。

 睡蓮がカレーを煮込みながら、ガス釜で炊けたばかりの白米をしゃもじでかき混ぜていると、外から龍進の匂いが近づいてくるのに気づいた。

 急いで玄関に赴くと、ちょうど玄関扉が横に開き、軍服を来た龍進が入ってくるところだった。


「お帰りなさいませ、旦那様」

「……ああ、ただいま」


 やはりその表情は、いつもと異なり、どこか硬さを感じさせる。コートと鞄を預かるときも、なかなか睡蓮と目を合わそうとはしない。

 けれど、それから彼は、ふと、なにかに気づいたように顔を上げると、少しだけ驚いた口調で言った。


「今日はライスカレーか」

「……はい。旦那様が好きだと言ってくださいましたから」

「そうか、楽しみだ」

「すぐに用意いたします。お着替えになったら、炉端におこしください」


 そう言って睡蓮は薄く微笑み、預かった荷物を手に家の奥へ戻る。


 夕餉の席は、いつもと同じく、これといった会話も無い静かなものだった。

 ただいつもと違ったのは、龍進が二回もおかわりを頼んできたことだ。いつもは一回程度なのだが。

 それから睡蓮がいれた食後のお茶を二人ですする。

 こうして夕飯の席に一緒につくのも一週間ぶりだ。たった一週間とはいえ、なんだかずいぶん久しぶりの気もする。それだけ、あの事件の前と後ではいろいろなことが変わりすぎた。

 龍進が煙草を一服している間、睡蓮は座布団の上で正座をして、彼が話を切り出すのを待っていた。自分でも気づかないうちに、膝の上の両拳が固く握りしめられる。

 柱時計の時を刻む規則正しい音が、無闇に時間を長く感じさせる。

 それからややあって、龍進が灰皿で火をもみ消し、顔を上げた。


「さて、話をはじめてもいいだろうか」

「……はい」


 睡蓮は向かいに座った龍進の顔を見て小さくうなずいた。


「一月半前、僕は君に対して、仮初めの婚約者になるように命じた。舞踏会において、連れ添ってくれる女性が必要だったからだ。そして、諸事が落ち着いたら、婚約は解消し、その後は、君の自由にしていい、とも約束した」


 彼の青みがかった双眸が、睡蓮を見つめてくる。

 その瞳の中には、やはりどこか緊張の色が見て取れる。

 やや間を置いて、告げた。


「今日が、その日だ。君との契約は満了となった。君はもう、僕の仮初めの婚約者ではない。君はこの家から解き放たれ、どこへでも好きな場所に行くことが出来る」


 絡み合う視線から逃れるように、睡蓮はその場で深々と頭を下げた。

 視線を床板に落とす。


 ――今まで、大変お世話になりました。わずかな間でしたが、旦那様の傍にいられて、とても幸せでした。


 そう言おうとしたが、何故か喉がかすれて、声が出ない。

 どうしてだろう。一言、礼を言うくらいなんともないはずなのに。

 己の肩が震えるのがわかる。

 そのときだった。


「その上で、君に一つ、尋ねたいことがある」


 龍進が一息ついて、静かに言った。


「古来より、男が相手の名前を尋ねることが、どういう意味を持つか、君は知っているだろうか」

「…………!」


 睡蓮の頭の中が一瞬、真っ白になったかと思うと、そこにまるで油彩画のように遠い過去の光景が現れてくる。

柔らかな春風が渡る草原の中で、少年と少女が向き合っている。

少年の手が伸びてきて、少女の手をつかんだ。

彼は震える声で言った。


「婚姻を申し出るという意味だ」


 記憶の中の少年の顔が、はっきりとした輪郭を伴って蘇ってくる。

 ――龍進だった。

 今よりもだいぶ幼いが、だが、その顔は紛れもなく彼だった。


「……ご冗談、を…………」

「いや、僕は本気だ。どうか、正式に、僕の婚約者になってはくれないだろうか」


 目の前には頬を微かに赤らめた龍進の顔があった。

 だが、澄み切った瞳は、決意の色をたたえて、こちらを見つめている。

 そして、はっきりとした口調で続けた。


「気づいたんだ。僕は君がいなくては、生きられなくなってしまった。君が、本当の家族というものを教えてくれたからだ」

「…………!」

「必ず、君を幸せにすると、本当の家族を作ると、約束する」


 言葉が出てこない。


「だから、君の名前を、教えてはくれないだろうか」


 睡蓮の両の瞳から、みるみる大粒の涙があふれ出した。

 堪えようと思っても、次から次へと涙が頬を伝い、顎から床へとこぼれ落ちてしまう。


「…………私の…………、名前は………………」


 かすれた声を必死にしぼりだす。


「…………睡蓮…………、と申します…………」


 それ以上は、最早、言葉にならなかった。

 気づいたときには龍進の胸の中に飛び込んでいた。その小さな身体が、大きな手に抱き留められる。

 少女の嗚咽する声と、あやすように背中を叩く音が部屋の中に響く。

 時間が止まったような家の中、窓から部屋の中に差し込んだ満月の光が、一つの影になった二人を、優しく照らし続けた。


                                     了

これにて完結です。

本作をお読みいただき、ありがとうございました。


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