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楽しい時間


 翌朝。


 天宮ソラが目を覚ますと、見慣れた白い天井が視界に入った。


 しばらく瞬きを繰り返したあと、ゆっくりと窓の方へ顔を向ける。


 青い空に、薄い雲が浮かんでいた。


 昨日までなら、そのまま長い時間、空を眺めていただろう。


 けれど今のソラは、窓の向こうに広がる空を見ながら、別の空を思い出していた。


 自分の翼で飛んだ、アルカディアの空。


 町を囲む城壁。


 どこまでも広がる草原。


 夕日に染まった雲。


「明日も飛ぶ」


 昨日、ログアウトする直前に口にした言葉を思い出す。


 今日になった。


 また飛べる。


 ソラがベッドの上で身体を起こしたところで、病室の扉が開いた。


「おはよう、ソラちゃん」


 担当の看護師が、朝食を載せたワゴンを押して入ってくる。


「おはよう」


「今日はいつもより起きるのが早いわね」


「そう?」


「ええ。もしかして、ゲームの続きがしたいの?」


 ソラは少しだけ考え、素直に頷いた。


「うん」


 看護師は微笑みながら、ベッドの前へ朝食を並べた。


「まずは朝ご飯。そのあとは朝の検診ですからね」


「わかった」


 食事を終えたソラは、いつものように検査室へ向かった。


 体温を測り、医師から簡単な診察を受ける。


 特に変わったところはない。


 昨日ゲームをしたことで体調に異常が出た様子もなかった。


 検診を終え、看護師と一緒に病室へ戻る。


 扉を開いたソラは、部屋の中にいる二人の姿を見て足を止めた。


「ソラ」


「おはよう」


 父と母が、ベッドのそばに置かれた椅子へ座っていた。


 母の隣には、果物の入った小さな籠が置かれている。


 ソラは両親を見たあと、看護師へ顔を向けた。


「面会に来てくれていたの。朝の検診が終わるまで、待ってもらっていたのよ」


「そう」


 看護師が病室を出ると、ソラは両親の近くへ歩いていった。


「久しぶりだな」


 父が穏やかに笑う。


 ソラは小さく頷いた。


「うん」


「体調はどう?」


 母に尋ねられ、ソラはいつものように答えた。


「平気」


 自分のベッドへ腰掛ける。


 家族と会うのが嫌なわけではない。


 むしろ、会いに来てくれることは嬉しい。


 けれど、何を話せばいいのか分からない。


 いつもなら、両親から学校の勉強や病院での生活について尋ねられ、ソラが短く返事をするだけで時間が過ぎていく。


 しかし、今日は父も母も、どこか普段とは違う表情をしていた。


「昨日、ゲームをしたんでしょう?」


 母が尋ねた。


 ソラはすぐに顔を上げる。


「した」


「久遠さんから連絡をいただいていたの」


 大手電子機器会社の代表取締役、久遠零司。


 彼はソラへゲームと最新型VR端末を贈る前に、両親へも事情を説明していた。


 自分が病院でソラと出会ったこと。


 ゲームの中で何をしたいか尋ねたこと。


 ソラが自分の翼で空を飛びたいと答えたこと。


 そして、自社のVR端末と『アルカディア・クロニクル』を贈りたいと考えていること。


 両親は最初こそ驚いたものの、ソラ自身が興味を示していると聞き、久遠の申し出を受け入れた。


「久遠さんから、昨日機材を届けたと聞いたんだ」


 父が続ける。


「それで、ソラがどんな様子なのか気になってな。今日はその話を聞きに来た」


「ゲーム、どうだった?」


 母に尋ねられ、ソラは口を開いた。


「……楽しかった」


 父と母が、わずかに目を見開く。


 ソラが自分から何かを「楽しかった」と表現することは、ほとんどなかった。


「どんなことをしたの?」


「飛んだ」


「本当に空を飛べたのね」


「うん」


 ソラは小さく頷く。


 それだけでは足りない気がした。


 昨日見たものを、もう少し両親に伝えたかった。


 けれど、どこから話せばいいのか分からない。


 ソラは少し考えながら、ゆっくりと言葉を探した。


「町が、丸かった」


「丸い町?」


「真ん中に、大きいクリスタルがあって……道が、いっぱい伸びてた」


「綺麗だった?」


「うん。上から、全部見えた」


 ソラの言葉は短く、説明も途切れ途切れだった。


 それでも両親は急かさず、静かに耳を傾けている。


「どんな姿になったの?」


 母が尋ねる。


「ハーピー」


「鳥のような種族だったか?」


 父の質問に、ソラは翼を広げるように両腕を動かした。


「腕が翼。ここに爪がある」


 指先を見せるような仕草をしたあと、今度は自分の膝から下を示す。


「足も鳥。飛べる」


「ソラが自分で選んだの?」


「うん。空を飛びたかったから」


 ソラの口元が、ほんの少し緩んだ。


 母はその変化を見逃さなかった。


「飛んでいるときは、どんな感じだった?」


「風があった。翼に当たって……動かすと、曲がれた」


 言葉を探すように、ソラは何度か翼を動かす真似をする。


「上に行くと、遠くまで見えた。森と、山と、道と……町もあった」


「ずいぶん遠くまで行ったのね」


 ソラは首を横に振った。


「行けなかった」


「どうして?」


「透明な壁があった。Fランクじゃないと、通れない」


 父と母は顔を見合わせた。


 まだ一日しか遊んでいないにもかかわらず、ソラはすでに行動可能な区域の端まで確認していたらしい。


「戦ったりもしたの?」


 父が尋ねる。


「うん。角のあるウサギ」


「ウサギと戦ったの?」


「蹴った。爪も使った。魔法も」


「魔法まで使えるのか」


「風の刃と、光の玉」


 ソラは昨日の戦いを思い出す。


 一角ウサギ。


 そして、空中で追いかけてきたウィンドイーグル。


「大きい鷲もいた」


「それとも戦ったの?」


「うん。後ろから来たから、止まって、前に出して、風で翼を切った。それから蹴った」


 説明を聞いた父は、しばらく考え込んだ。


「ずいぶん激しいことをしているな」


「勝った」


 ソラは少しだけ胸を張った。


 その姿を見て、父と母の表情が柔らかくなる。


「ほかには?」


「大きい鳥に殺された」


「殺された!?」


 父と母の声が同時に上がった。


 ソラは驚いたように二人を見る。


「ゲームで」


「ああ……ゲームの中でか」


 父は胸を撫で下ろした。


「突然、大きい爪が来た。戻ったら、クリスタルの前にいた」


「怖くなかったの?」


 母に尋ねられ、ソラは少し考えた。


「びっくりした」


「それだけ?」


「うん。でも、大きい鳥がいた」


 ソラにとっては、死んだことよりも、空の高い場所に巨大な鳥がいたことの方が重要らしい。


 父は困ったように笑った。


「昨日一日だけで、ずいぶんいろいろあったんだな」


「うん」


「まだ続けたい?」


 母の問いかけに、ソラは迷うことなく頷いた。


「やりたい」


 短い言葉。


 けれど、その声には、普段のソラにはない強さがあった。


「まだ分からないこと、いっぱいある。でも、楽しい」


 ソラはゆっくりと、しかしはっきりと言った。


「もっと遠くに行きたい。空を飛びたい」


 父と母は、何も言わずにソラを見つめた。


 家族といる時間より、病院で過ごした時間の方が長い娘。


 学校へ通うことも、友人と外で遊ぶこともできなかった。


 何をしたいか尋ねても、


「何でもいい」


「分からない」


 と答えることが多かった。


 そのソラが今、自分からやりたいことを話している。


「そうか」


 父は小さく頷いた。


「楽しいなら、よかった」


 母も微笑んだ。


「でも、夢中になりすぎて、無理をしては駄目よ」


「うん」


「少しでも身体の調子がおかしいと思ったら、看護師さんに伝えること。分かっているわね?」


「分かってる」


 ソラは素直に頷いた。


 両親に言われなくても、自分の身体が弱いことは、誰よりも本人が理解している。


「それからな」


 父が持ってきた鞄から、薄いタブレット端末を取り出した。


「ソラがちゃんとゲームをできているのか心配だったから、私たちなりに『アルカディア・クロニクル』について調べてきたんだ」


「調べたの?」


「ああ。正直、専門用語ばかりで全部は分からなかったが」


 父が端末を操作する。


 画面には、『アルカディア・クロニクル初心者向け攻略情報』と書かれたページが表示された。


「昨日、Fランクでないと先へ進めないと言っていたわね」


 母がソラの隣へ座り、画面を指差す。


「冒険者ランクを上げる方法も書いてあるわ」


 その言葉を聞き、ソラは画面へ顔を近づけた。


「どうやるの?」


 普段より早い反応に、母が少し驚きながら答える。


「冒険者ギルドが指定するクエストを達成したり、指定されたモンスターを討伐したりすると、評価が上がるみたい」


 父が記事を読み上げる。


「最初はGランク。東の森にいる主を倒し、ギルドへ討伐を報告することで、Fランクへの昇格試験を受けられる、とあるな」


「森の主」


 昨日、城壁の兵士NPCから言われたことを思い出す。


 草原で戦い方を覚えたら、東の森の主へ挑め。


 あの言葉には、先へ進むための意味があったらしい。


「倒したら、向こうへ行ける?」


「Fランクになれば、今まで入れなかった区域にも進めるようになるみたいだ」


 ソラは画面をじっと見つめた。


 森の向こうに見えた草原。


 南の先にあった町。


 西の街道を行き交う馬車。


 北の荒れ地と、その奥にそびえていた岩山。


 今は透明な壁に遮られている。


 けれど、冒険者ランクを上げれば、あの先へ行くことができる。


「森の主、倒す」


 ソラは静かに言った。


「できそう?」


 母が尋ねる。


「分からない」


「分からないのに行くのか?」


「向こう、見たいから」


 ソラにとって、強いモンスターを倒すこと自体は目的ではない。


 ランキングにも、攻略の速さにも興味はない。


 ただ、透明な壁の向こう側に広がる空を飛びたい。


 そのために森の主を倒さなければならないのなら、挑戦するだけだった。


 両親は、そんなソラのために調べてきた情報を一つずつ説明していった。


 冒険者ギルドでは、掲示板からクエストを受けられること。


 指定された素材を集める依頼もあること。


 モンスターを倒す以外にも、探索や採取で評価を得られる場合があること。


 強い敵へ一人で挑む必要はなく、ほかのプレイヤーとパーティーを組めること。


 ソラは、分からない言葉が出るたびに首をかしげた。


「パーティー?」


「ほかのプレイヤーと一緒に冒険することだそうだ」


「知らない人と?」


「そうなるな」


 ソラは少し考え込んだ。


 人と話すことは苦手だった。


 何を言えばいいのか分からず、返事も一言になってしまう。


「一人でやる」


「危なくないか?」


「飛べるから」


 飛べることを、あらゆる問題への答えにしようとしている。


 父と母は顔を見合わせ、同時に小さく笑った。


 それからも三人は、『アルカディア・クロニクル』について話し続けた。


 父が見つけたモンスターの情報。


 母が調べた初心者向けの町や店。


 ソラが昨日見た景色。


 どんな翼をしているのか。


 どれほど高く飛べたのか。


 夕焼けがどれほど綺麗だったのか。


 ソラの説明は決して上手ではなかった。


 途中で言葉に詰まり、翼を動かす真似をしたり、指で空中に町の形を描いたりもした。


 それでも両親は、何度も相槌を打ちながら楽しそうに話を聞いた。


 気がつけば、面会時間の終わりが近づいていた。


 病室の扉が軽く叩かれ、看護師が顔を覗かせる。


「そろそろ面会時間が終わります」


「もうそんな時間か」


 父が時計を見る。


 母は名残惜しそうに立ち上がり、ソラの髪を優しく撫でた。


「またゲームの話を聞かせてね」


「うん」


「今度は森の主を倒した話かな?」


「まだ分からない」


 ソラは少し考えてから、付け加えた。


「倒したら、話す」


「楽しみにしているわ」


 父もソラの方を向く。


「ゲームを楽しむのはいい。でも、身体には気をつけるんだぞ」


「分かってる」


「それじゃあ、また来るからな」


「うん。またね」


 両親は病室を出ていった。


 扉が閉じたあと、ソラは父から教えてもらった情報を思い返す。


 東の森の主。


 ギルドの指定クエスト。


 Fランクへの昇格。


 透明な壁の向こう。


 ソラはベッドのそばに置かれたVR端末へ視線を向けた。


「森に行く」


     ◇


 病院の廊下を歩きながら、父と母はしばらく何も話さなかった。


 先に口を開いたのは母だった。


「あの子、あんなに楽しそうに話すのね」


「ああ」


「ゲームのことを説明しようとして、一生懸命言葉を探していた」


「空を飛んだ話をしているとき、笑っていたな」


 父も、病室でのソラの姿を思い返していた。


 普段のソラは、何を尋ねても短く答える。


 自分から話題を出すことは、ほとんどない。


 その娘が、途切れ途切れではあっても、自分が体験したことを両親へ伝えようとしていた。


 楽しかった。


 もっと遠くへ行きたい。


 また空を飛びたい。


 そんな娘の気持ちを聞けたことが、二人には何より嬉しかった。


「久遠さんに、改めてお礼を言わないとな」


 父の言葉に、母も深く頷いた。


「ええ。あの子に、あんな世界を贈ってくださったんだもの」


 久遠零司が贈ったのは、一台のゲーム機と一つのゲームだった。


 けれど、ソラが受け取ったのはそれだけではない。


 自分の翼で空を飛べる身体。


 まだ見ぬ場所へ進んでいける世界。


 そして、自分から「楽しい」と話したくなるほどの、大切な時間だった。


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