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はるあらし  作者: 雨咲はな
番外編
45/45

秋の章(後編)



 思っていた以上に、哲の後任を務めるのは大変だった。

 俺はそもそも、「人をまとめる」なんて仕事に向いた性格をしていない。みんなとわいわいやったり、適度に場を明るく保たせることは出来るけど、それは全体を引っ張る力とはまったく別のものだ。愛想を振りまくのは得意でも厳しいことを言うのは苦手だし、ノリで盛り上げることは上手でも冷静に状況を見極めるのはイマイチ下手。文化祭なんてのは、つくづく運営するほうに廻るもんじゃない。

 どちらかを収めると、どちらかから不満が出る。俺ははっきり言って感情的になりやすいほうなので、勝手なこと言うなとついつい怒ったりしてしまう。そうすると、空気がギクシャクして、進行に支障が出る。哲が仕切っていた時にはスムーズに運んでいた物事が、途端にあちこちで滞るようになって、俺は頭を抱えた。

 それで、どうしても哲に大幅に頼らざるを得なかった。もともと、明確な指針と方向性を持って、それに向けて計画を組み立てていたのは哲なのだ。ノートだけでは足りないところをあれこれ聞いたり確認したり助言を求めているうちに、結局やっぱり、哲が采配を振るうことになった。

 もちろん、そのことは決して表には出てこない。文化祭の実行委員の責任者は、あくまで俺、日向葵。ほんの一部の生徒を除き、教師も大部分の生徒たちも、疑いもなくそう信じていただろう。チャラチャラしてるように見えて、意外としっかりしてるんだなと、周囲の俺に対する評価は、この時を境にガラッと変わったくらいだった。

 けど実際は、予定を立てるのも、不備を指摘するのも、流れを慎重に読むのも、ぜんぶ裏で哲がやっていた。俺はそれをみんなの前に立って口にして、細かいところを調整するだけ。「こんなやり方は葵に悪い」と哲はしきりと申し訳ながっていたが、俺はホントに助かっていた。きっと俺だけでやっていたら、成功させなきゃという気持ちとは裏腹に、重責に押し潰されるかとんでもないミスをするかして、文化祭は悲惨な結果になっていただろう。

 人にはそれぞれ、適した場所というものがある。俺は狭い世界を自分の好みで作り上げることは出来ても、他の連中と力を合わせて大きな何かを作るということは出来なかった。やってみないと判らないそのことを、俺はこの時、はじめて思い知ったのだった。

 結果的に、決めていく役割は哲、俺はその補佐、というところに落ち着いた。それなら今までと何も変わらない。名前が出るか出ないか、それだけの違いだ。そう思えば、ずっと気も楽になって、多少はこの状況を楽しむ余裕を持てるようにもなった。

 俺がそんなことを言うと、哲はほっとしたように顔を綻ばせた。

 理不尽に責任者を下ろされてから、やっと見せた本心からの笑顔だった。



 文化祭が直前に迫った日、最終的な打ち合わせをするために、俺は哲の家を訪れた。

 度肝を抜かれてしまうようなどでかい屋敷は、まるで人の気配がなくてしんとしていた。聞けば、母親は何かの会合、兄と妹は習い事に行って留守だという。こんな広い家なのに、いるのは俺たちとお手伝いの人だけ、ということだ。俺は驚いたけど、哲はいつものことだよと笑っていた。

「まあ、でも、お袋さんがいたら、哲んちでこんな話も出来ないもんなあ」

 ちょっとした居心地の悪さを誤魔化すために、納得したように言ってみると、哲はなぜかきょとんとした。

「どうして?」

「え、だってさ、哲が実質的に文化祭の責任者を続けてるってことがバレたらまずいじゃん」

「うん、それはまずいけど、おれの部屋で何を話しているかなんて、もし在宅していても、母親にはわからないと思うよ。さすがにあの人でも、盗聴器を仕掛けたりはしないだろうし」

 お前、さらっとなに怖いこと言ってんだよ。

「だけど、詮索されたりしない?」

「誰に?」

「だから、母親」

「母親に? 詮索?」

「…………」

 まったく話が噛み合わない。意味がわからない、という顔をしている哲を見て、俺はなんとなく、背中が冷たくなってきた。

 一般的に、年頃の息子や娘を持った母親、場合によっては父親だって、自分の子供が普段どんなことをしていて、どんな学校生活を送っているかということが、気になるもんじゃないのか。俺の家はけっこう放任なほうだけど、それでも悪い仲間と付き合っている頃は、いろいろと心配されたし口出しもされた。友達と自室にこもっていれば、母親は、菓子や茶を口実に、なんとか少しでも様子を探ろうとしていたものだ。

 俺がぼそぼそとそういうことを口にすると、哲は「ああ、なるほど」と頷いた。

「そうだな、きっと葵の姿を見たら、どこの家の子か、ってことはうるさく聞かれると思うよ」

 でも、何を話しているかまでは聞かれない、と哲はあっさり言った。

「あの人は、そういうことにあんまり興味がないんだ」

「…………」

 興味がない?


 哲が文化祭の責任者であることは許さなかったのに、その肩書きが外れてしまえば、あとはなにも気にしないってことか。

 付き合っている友人がどこの家に属しているかは詮索しても、その友人と何を話して、どんなことで笑っているのかは無関心なのか。

 哲が何を思い、何を考え、何を怒り、何を悲しみ、何を喜びとしているのか、それについては興味がないっていうのか。


「……お前、なに平然とした顔してんだよ」

 低くこもった声を出して、目を吊り上げて睨みつける俺を、哲は戸惑ったように見返してきた。それさえも腹が立つ。ぶるぶると震えるくらいに強く握りしめすぎた拳は、爪が手の平に食い込んで痛いくらいだった。

 俺がここまで爆発寸前なのに、なんでお前はそんなに平気そうなんだよ。

「怒れよ。なんでそんな平気な顔してんだ、怒れ! そんな母親は最低だ、お前の上っ面しか見ない母親なんて、こっちから願い下げだ、って言ってやればいいだろ! 怒鳴って、暴れて、反抗して、家の中をめちゃめちゃに掻き回して、死ぬほど困らせてやればいい!」

 息切れするほどに大声で叫んでやったのに、哲はやっぱり、困ったような顔をするだけだった。

 黙ったまま俺をじっと見て、それから、少しだけ目を伏せる。

「……おれだって、まったく何も感じないわけじゃないんだけど」

 ぼそっと出された言葉にも、俺の苛立ちは募る一方だった。当たり前だ、哲は生きた人間なんだから、これで何も感じないわけがない。だったら怒ればいいんだ。諦めて、受け入れてしまっているから、あの母親は自分のことを顧みない。哲がすでに傷つききって、顔を上げて涙を零すことも出来なくなっている、ということも知らない。いずれ、泣くことすら諦めてしまっても、気づかないでいるだろう。

 それじゃ、何も変化はないままだ。

「でも、母親が可哀想だから」

「は?」

 俺は問い返した。聞き間違いだと思った。可哀想なのは、どう考えても、哲のほうだ。

「あの人は本当に、桜庭の名前を大事にしてるんだ。少しでも傷をつけないように、それこそ命懸けなくらい必死に守ってる。そのたったひとつの宝物を壊したら、きっとあの人自身も壊れてしまうと思う。……それが判ってて、そんなことは、出来ないだろ」

 小さな声でそう言う哲に、俺は我慢がならなくなった。殴ってしまいそうなのを抑えつけるために、勢いよく立ち上がって部屋のドアに向かう。

「──葵?」

「トイレ」

 心配そうな顔をする友人を見たくなくて、それだけぶっきらぼうに言い捨てると、ドアを開けて廊下に出た。


 バカじゃないのか、あいつ。

 バカか大物かどっちだと思ってたけど、これでハッキリした、哲はバカだ。

 どうしてその状況で、自分のことよりも母親のことを考えるんだ。

 どうして、そんなに優しすぎるんだ。

 いいや、違う。そんなのは優しさじゃない。

 たとえ優しさだとしても、その優しさは、間違った方向を向いている。

 絶対に。


 ムカムカしながら足音も荒く廊下を歩き、そのまま目についた階段を降りた。トイレの場所を聞くのを忘れたのである。ムダにだだっ広い家だな、とまた腹が立つ。

 一階に着いたら、ばったり二人の大人と出くわした。

 一人は知ってる、この家に来た時に迎えてくれたお手伝いの人だ。哲が「スミさん」と呼んでいた。

 けど、もう一人のほうは。

 やたらと威圧感のある中年男性だった。見るからに上等そうなスーツを着て、ただ立っているだけなのに、こちらに顔を向けられただけで、思わず硬直してしまいそうなくらいの、圧倒的な存在感をまとった人だった。

 眼光鋭い瞳が俺を見据える。無表情で、ずっと無言なのもまた怖い。正直、俺はすっかりビビってしまい、その場に立ち竦んでいた。

 ──これが哲の父親。桜庭の巨大グループの総帥か。

「あ、あの、哲秋ぼっちゃんのお友達が遊びにいらしていて。旦那様がお仕事の途中でこちらにお立ち寄りになったことは、まだぼっちゃんにお知らせしていなかったものですから」

 スミさんが慌てて取り成すように説明してくれる。哲の父は眉ひとつ動かさなかったが、「いらっしゃい」と案外普通のことを言った。いやでも怖い。

 俺だってお坊っちゃんとしての外ヅラくらいは持ち合わせているから、普段なら、天真爛漫な笑顔で、「こんにちは、お邪魔してます!」と元気に挨拶するところだ。でもこの時は、どうしてもそれが困難だった。資産家でおっとりしている自分の両親と違い、目の前の人物が覇気というものを全身から発散していて、それに頭が混乱させられたためもある。

 そしてなにより、自分の中にまだ、大きな怒りが居座っていたためもある。

 俺がぎゅっと口を結んだままなのを見ても、哲の父親は取り立ててなんの反応も見せなかった。すいっと視線を外し、そのまま家の奥へと向かおうとする。

「おじさん」

 俺はその背に声をかけた。少しオロオロしていたスミさんは目を見開いて驚いたような顔をしたけれど、哲の父親は足を止めて、顔だけこちらを振り向いた。

「なんだね?」

「哲は、お人好しだよね。バカみたいに、お人好しだ。親に反抗のひとつもしない子供は、将来大きくなってからグレるっていうけど、ホントかな?」

「お人好し?」

 喧嘩を売るような態度で言葉を投げつけた俺に、父親はそう言って、今度は顔だけじゃなく身体もこちらを向けた。口元には、面白がるような微笑が乗っている。

「君には、あれがそう見えるのかね?」

「え」

 問われた内容に困惑した。なぜ? とも、いきなりなんだ? とも訊いてこない哲の父は、俺が今までの十年ちょっとで培ってきた常識の中には存在していないタイプの人だった。

「だって──」

「あれはそういうタマではないよ。……そうだな、今後もあの擬態が続いてそれが実体となってしまえば、確かにただの腑抜けに成り下がるだろうが」

 顎に手を当てて考えるような顔をする。俺はますます困惑した。

 擬態?

「……哲がウソをついて、周りを騙してるってこと?」

「擬態とは、自衛のため、あるいは攻撃のために、周囲に合わせて自分の色や形を変えることだ。嘘や演技とは違う」

「……?」

 説明してもらっても、意味が判らないのは同じだ。

「君はもっと、人を見る目を養ったほうがいいね」

 哲の父親はにやりと笑ってそれだけ言うと、再び踵を返してさっさと歩いて行ってしまった。茫然とその後ろ姿を見送るしかない。

 ──結局、怒りの向けどころを見失ってしまった俺は、なんとなく呆けた顔をして、トイレに行くのも忘れて哲の部屋に戻った。

 お前の父さんに会った、とは、言えないままだった。



 文化祭は、大成功を収めて終了を迎えた。

 教師どころか、校長にまで褒められた。来場した保護者らにも、非常に好評だったそうだ。哲のところからは、スミさんだけが来て、ひたすら感心して帰っていった。

 俺はやっと肩の荷を下ろすことが出来たが、閉会式では、講堂の舞台のど真ん中で締めの挨拶をさせられて、満場の拍手喝采を受け、なんともバツの悪い思いをした。つくづく、こういうのはガラじゃない。

 それに、この拍手と祝福は、本当は、哲が受けるべきものだったのに──と思えば、罪悪感も覚える。

 今後、記録上でも、通信簿でも、卒業文集でも、文化祭を成功に導いた殊勲者として名前が残るのは「日向葵」だ。でも、その功績を作ったのが俺ではないことは、誰より自分自身がよく知っている。褒められても称えられても、これで有頂天になれるほど、俺は能天気じゃなかった。

 舞台上から見える、ずらりと並んで座る全校生徒の中には、哲の顔もある。

 嬉しそうに微笑んで、みんなと一緒に拍手をしているその姿に、俺はものすごくやるせない気分になった。



 すべての片付けを済ませてから、哲と学校帰りに寄り道をして、河原沿いの土手に行った。

 ペットボトルで乾杯し、無事終わったことを祝う。それから、生い茂る草むらの上にごろりと寝転んで、茜色に染まった空を見上げた。

「なんかすげえ青春っぽいことをしてるな、俺たち」

 しみじみ言うと、隣に寝そべった哲が「ほんとうだ」と笑い声を立てた。以前まで、こんなクサいことをするやつを心底バカにしていたのは俺だったのになあ、と思うと感慨深い。

 秋の空は高い。澄み渡った赤色に、ピンクに染まった小さなカケラのようなうろこ雲が、ゆるゆると流れている。目の前には、ひらひらと舞うように飛ぶ赤トンボ。風が気持ちよく吹き通って、白いススキをふわりと揺らし、川の水面にさざ波を立てる。

 素直に、綺麗だなあと思う。案外、こういうのも悪くはないかもしれない。

「いろいろと苦労させて、悪かったな、葵」

 哲に謝られて苦笑した。このバカはまだこんなことを言ってるよ。

「いーよ、楽しかったし」

 苦労したのはお前だろ、とか、俺こそお前の手柄を横取りして悪かった、とかの言葉を出すのも阿呆らしいような気がして、それだけを言った。楽しかった、というのも嘘じゃない。ホントは、哲にこそ、舞台の中央に出て賞賛を浴びて欲しかったけど。

 哲はまた笑った。

「なら、よかった。おれも、すごく楽しかった。葵のおかげだ」

「途中で辞めさせられたのに?」

「うん。おれ、責任者は引き受けたものの、あんまり目立つようなことはしたくないなって思ってたから。あのまま続けていても、最後の挨拶とかは仮病を使ってサボろうかと思ってたくらいだ。だから葵に面倒なところを押しつけて、おれだけ楽しい思いをしたみたいで、申し訳なくてさ」

「そうなの?」

 意外なことを聞いて、俺は上半身を起こして隣の哲をまじまじと見下ろした。そして哲が本当に、これまで見たこともないくらい、満足そうな笑顔を浮かべているのを見て、ちょっと面食らった。

「じゃ、哲にとっての楽しいことって何なんだよ。みんなの上に立って注目されたりすることじゃないの?」

 哲は笑って、おれそういうのは苦手だよ、と言った。

「したかったのはさ」

「うん」

「──自分の力で何かをすること」

 きっぱりと言い切られて、俺は口を噤む。頭の後ろで腕を組み、空を見上げる哲の顔は、今日の天気と同じくらい晴れ晴れとしていていた。


「おれはまだ子供で、ちっぽけで、嫌になるほど無力だけど、自分の力で何かを作って、何かを得たい、ってずっと思ってた。今度のことで、少しだけ明るい光が見えたような気がする」


 哲は力強い口調でそう言った。はるか遠くを見るような瞳は透き通っていて、どこかふてぶてしいくらいの逞しさも感じられた。

 母親によって役は解かれたけれど、それでも哲は結局、自分の思うとおりに最後まで仕事を成しとげ、成功させた。そのことに満足しているんだ──と。

 表向きの名声や、他人からの評価は、哲にとってまったく価値のないものだったのだ。

「…………」

 少しだけ黙って、俺は考えた。

「哲はさ」

「うん?」

「まだ、自分の『いちばん』が見つかってないんだね」

「なんだそれ」

 哲は首を傾げたけど、俺はなんとなく納得して、うんうんと何度も頷いた。

 そうか。そういうことだ。哲は決して、自分を軽んじているわけではない。母親のいちばん大事なものを壊すのは忍びない、という気持ちに嘘はないのだろうけど、だからって自分自身を殺して唯々諾々と従っているわけでもない。この友人の中には、ちゃんとしぶとい芯がある。

 母親が桜庭の名を後生大事に守ろうとする心よりも、自分にとっての大事なもの、守るべきものが、まだ見つかっていないという、それだけのことなのだ。

「……なるほど、『擬態』ね」

 独り言のように呟く。

 ──きっと、それが見つかったら、哲はその時こそ、擬態を振り捨てて攻撃に転じるのだろう。俺はそれを楽しみに待っていよう。

 願わくば、擬態が実体になってしまう前に、哲の「いちばん」が見つかるように。

「擬態ってなんだ?」

「なんでもない。それよか、哲はこれからも大変だよね」

「そうだな。でも、大変だから、楽しいんじゃないか、なにごともさ」

 そう言って、哲は笑った。

 俺も笑った。

 優しいやつだけど、こいつはけっこう、図太い。




          ***



 俺が過去の懐かしい追憶に浸るのも、目の前の友人がじめじめした空気に浸るのも、そんなに長い時間は続かなかった。

 ハルさんが、ひょっこりと帰ってきたからである。

「まあ、こんにちは、葵さん」

 リビングの中に入ってくるや、俺の姿を見つけたハルさんは、そう言って花びらがこぼれるような笑みを浮かべた。その明るさと朗らかさは、一気に部屋の雰囲気をふわりと軽いものに塗り替えてしまい、まるで彼女が、一緒に春の風を連れて来たようだった。

「ずいぶんとテーブルの上がすっきりしているようですけど。お二人で腕相撲でもなさってたんですの?」

「なんで腕相撲……あのねハルさん」

「勝負が決まったのでしたら、お茶をお入れしましょうね。葵さんはコーヒーがよろしいですか、それとも紅茶?」

「ちょっと待ってハルさん、まずおれの話を」

「まあ、哲秋さんはマテ茶がご希望ですか。渋い好みですわ。飲むサラダと言われて、健康に良いそうですものね」

「…………」

 やっと帰ってきたハルさんに、勢い込んであれこれ問い詰めようとした哲は、いつもと同じ調子の会話にすっかり気が削がれたらしく、口を噤んで渋々のようにソファにまた腰を下ろした。

 ハルさんが三人分のコーヒーを用意してくれて、テーブルに並べられたが、そうなると今度は意地が邪魔をするのか、哲はなんとなくむっとした顔で黙り込んでいる。その隣では、ハルさんが澄ました顔でコーヒーカップを口に近づけていて、俺は笑いをこらえるのが大変だった。

「……で、桜庭の家はどうだったの、ハルさん」

 哲の代わりに切り出してやると、ハルさんはにっこりした。

「とっても楽しかったです」

 その言葉に、哲がますます憮然とする。声は出ないが、唇が小さく動いているのは、ウソつけ、と言っているらしい。

「泊まり込んでたんだって? よく許可が下りたよね」

「最初の日は愛美さんのお部屋に泊めてもらいましたの。ついお喋りに夢中になって夜更かししてしまいました。次の日からは、スミさんが客間を用意してくださって」

 どうやらハルさんは、桜庭家に着々と自分の味方をつくっているようだ。

「五日間、何してたわけ?」

「スミさんのお仕事のお手伝いをしたり、みなさんとお茶を飲んだりお話したり買い物をしたりして、楽しく過ごしてまいりました」

「みなさんっていうと」

「あのおうちにいらっしゃる方々ですわ」

「……お母さんとも?」

「楽しく喧嘩してまいりました」

「…………」

 ふふふと屈託なく笑って返された言葉に、俺は心底感服した。もう黙っていられなくなったのか、哲が険しい表情になって、隣のハルさんに詰め寄る。

「喧嘩って」

「あの家に行くにあたり、私も役柄については迷ったんですのよ? 鬼嫁でいこうか、健気に耐える嫁でいこうか。でもよくよく考えたらまだ嫁になっていないという重大な欠点に気がついて、仕方なく素のままで」

「誰が役柄について聞いてますか! ハルさん、母にいろいろときついことを言われたんじゃありませんか」

「それは、きつい・きつくないの基準によるのでは? 私基準と哲秋さん基準とは、大きな違いがあるようですし」

「誤魔化さないでください。何を言われたんですか。場合によっては──」

 今にも桜庭の家に押しかけて母親を問い詰めそうな哲を、俺は「まあまあ」と押しとどめた。根本的なところからほぐしていかないと、今度はこの二人の間で喧嘩が勃発しそうだ。犬も食わない、なんてものを、自分の目の前でやられても困る。

「そもそも、ハルさんはなんでまた、桜庭の家に行ったわけ?」

 哲と意見の食い違いがあったというのは判るが、それがどうしてそういう行動に結びつくのかが判らない。ハルさんは変わってはいても、世間の常識も知らないような人ではないはずだ。

 ハルさんは、俺の問いかけにきょとんとして、隣の哲を見やった。

「なんでって、哲秋さんが」

「おれが?」

「『ハルさんにあの母のことは判らない』って言うんですもの。そりゃあ、何度も何度も、しつこく言ってましたわ。ですから私、ピンときましたの。これは、『判らないなら判るように努力しろ』と遠回しに言われているんだ、と」

「違いますよ! 言葉通りの意味ですよ! なんでそんなありもしない裏を読もうとするんですか!」

 ハルさんは得意げだったが、哲はその場に倒れそうになっている。大丈夫?

「……で、判るようになった?」

 俺が訊ねると、ハルさんはまた、ふふふと笑った。

「まさか。こんな短時間で判り合えるのでしたら、何も苦労はございません」

 だろうなあ、としみじみ納得する。これで、五日間のバトルの果てに判り合い認め合い、和解した母は二人の一番の理解者に──なんて話になったら、それこそ今まで苦労してきた哲やその兄妹たちの立場がない。

「けれど、お母様と哲秋さんの価値観の違い、というものの一端は感じられました。それだけでも収穫です。やっぱり行ってよかった、と思っています」

 今までの、子供がイタズラする時のような笑みではなくて、大人の女性の笑みを浮かべて、ハルさんが静かに言う。

 なるほど、と俺は思った。


 ──桜庭の家に乗り込んでいったのは、あの母親を説得しようなんて単純な動機ではなく、ハルさんなりに、いろいろなことを少しでも理解したかったからだ。

 あの家の複雑さは、外側から眺めるだけでは何も判らない、と判断したからだ。

 そしてそれは、確かに正しい。


「…………」

 哲もそこに気づいたらしい。口を閉じて、表情から険を消した。

 生来の穏やかさを取り戻し、固くしていた目許を緩める。瞳の色が、婚約者を慮るものに占められた。

「……イヤな思いもしたでしょう」

「でも、楽しいこともたくさんございました。哲秋さんの子供の頃のアルバムを見せていただいたりもしましたし、お兄様のご一家もいらっしゃって、賑やかに時間を過ごしたりもいたしましたのよ」

「え、そうなんですか」

「哲秋さんもいらっしゃればよろしかったのに。残念でしたわね」

 ハルさんは、遊園地に行くのに置いてけぼりにされた子供を見るような目で哲を見た。

「なにとぼけたことを言ってるんです。迎えに行くとおれは何度も言ったのに、ハルさんが強情に」

「そうそう、少しだけですけど、お父様にもお会いしました」

「え」

 今度こそ、哲がぎょっとする。

「父にですか」

「はい。式のことをお話しましたら、『時間を作って出席する』と仰っていただけました」

「あの父がですか」

 哲は、信じられない、という顔をした。

 ハルさんをじっと見て、こりこりと頬を指の先で掻く。

「……どうやって話したんです?」

「普通に」

「話の持っていき方にコツでもあるんですか」

「ですから、普通に」

 俺は噴き出しそうになった。

 うん、きっと、ハルさんは本当に普通に、式のことを話しただけなのだろう。性格は変わっていても、ハルさんはごくごく真っ当な家庭で育ったのだから、義理の父親になる人に対してだって、普通に接したに決まっている。どちらかといえば、普通じゃないのは哲の家のほうなのだ。

 ああ、そうか。

 結婚するっていうのは、お互いが持っている「普通」が、相手にとっては必ずしも「普通」じゃない、ってことを認識することなのかもしれない。その違いが原因で、揉めたり、こじれたりして、最悪の場合は別れてしまったりもするわけだ。

 違う家庭環境で育った二人が上手くやっていくためには、相手を理解するという努力がどうしても必要で、その上で妥協したり、譲ったり、話し合ってルールを決めたりしなきゃいけない。

 そうやって、自分たちの新しい家、ってやつを築いていくのだろう。

 面倒だね。面倒だけど。


 哲とハルさんは、これからその長い階段を上っていくために、今やっと、一段目に足をかけたところなんだ。


「でも、哲の親父さんってけっこう迫力あるでしょ。怖くなかった?」

 俺がそう言うと、ハルさんはちょっと小難しい顔になり、うーんというように首を傾けた。

「怖くはありませんでしたけど」

「うん」

「少し、変わった方でした」

 俺は笑ってしまった。哲は深く頷いている。

「あの人は、母やハルさん以上に変わってます」

「うん、確かに変わってるね」

 つい同意したら、哲に怪訝な顔で振り返られた。「葵はうちの父親に会ったことがあったか?」と聞かれ、俺は慌てて視線を逸らす。中学の時の一度きりの邂逅は、哲にはナイショのままなのだ。

「あー、まあ」

 誤魔化すために話の方向を変えることにした。にこっと笑う。

「とにかく、結婚おめでとう」

 俺も嬉しいよ。



 ──中学二年の秋に、「明るい光が見えた」と言っていた哲。

 だけどやっぱり、その後も圧し掛かってくるものは大きかったし、せっかく見えた光を覆ってしまうような出来事だって、たくさんあった。俺はそのたび腹を立てたけど、哲は怒らなかった。

 成長するにつれて、すっかり戦うことも放棄してしまったように見えた哲に、俺はいつも、内心でもどかしい思いを抱えていたものだ。このままじゃこいつは本当に流されるだけで終わってしまうんじゃないか、と心配したこともある。

 けど、哲はやっと、自分の「いちばん」を見つけた。

 そして桜庭の家から抜け出すことで、自分の意志を貫き通した。

 すべてを捨ててしまったわけではないその道は、真っ平らではなくて、ところどころデコボコとした部分もあったりして、時々つまずきそうにもなったりしているようだけど。

 それでも、俺は友人がその選択をしたことを、嬉しいことだと思っている。

 楽しみに待っていた甲斐があったと、そう思う。



「まだまだ大変なことはありそうだけどね」

 結局、母親のことはまだ解決に至っていない。からかうように付け加えると、ハルさんは、「あら」と目をぱっちりと大きくした。

 そして、

「大変だからこそ、楽しいんじゃありませんか、なにごとも」

 と、これ以上ないくらいの綺麗な笑顔で言った。





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ハルさんの物事の捉え方に、ただただ感服・・・ 二人の在り方に涙し、微笑み笑い、読み終えた後にじんわりくる 心が気持ちイイ!
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