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痴漢冤罪で人生を壊された男は、異世界で《証明者》となり、嘘で人々を支配する聖女を断罪する  作者: 月瀬 リュカ


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第48話 なら、よかったじゃない



 会議室には、誰の声もなかった。


 白い花飾りが床に落ちている。


 ほんの少し前まで、聖女ミコトの髪に飾られていたものだ。


 清らかさの象徴。


 祈りの象徴。


 白い聖女を、より白く見せるための小さな花。


 それが今、床の上に落ちている。


 ミコトは膝をついたまま、それを見つめていた。


 拾おうとはしない。


 いや、拾えないのかもしれない。


 その指は震え、白い衣の上で固まっていた。


 会議室の中央には、まだ断罪領域の光が薄く残っている。


 机の上の記録水晶は、静かに光っていた。


 今この場で起きたことを、すべて記録している。


 聖女ミコトへの断罪。


 白羽美琴の罪。


 《白き信仰》の正体。


 他者へ向けられた疑いと罪が、本来の場所へ返された瞬間。


 それは、もう消えない。


 エルハルト監査官が、ゆっくり立ち上がった。


 顔は青ざめている。


 けれど、その声は震えていなかった。


「聖女ミコト様」


 その呼び方に、彼自身が一瞬だけ苦しそうな顔をした。


 まだ聖女と呼ばなければならない。


 だが、もう以前と同じ意味ではない。


「監査官権限により、ただ今をもって聖女権限の一時停止を宣言します」


 ミコトの肩が、小さく揺れた。


「祈祷行為、大規模浄化、神殿公式発言、信徒との直接接触を禁止します」


「……民が、不安になります」


 ミコトが言った。


 その声は、まだ柔らかかった。


 弱々しく、痛ましく、聞く者の心へ入り込むような声。


 以前なら、その声を聞いた瞬間、誰かが彼女を庇ったかもしれない。


 聖女様は民を思っているだけだ。


 聖女様を責めるのは酷い。


 聖女様がいなくなれば、誰が人々を救うのか。


 そういう空気が生まれたかもしれない。


 だが、今は違った。


 記録水晶が、微かに黒く光った。


 視界に文字が浮かぶ。


《断罪領域残滓反応》


対象発言に庇護誘導反応を確認。


発言内容:民への配慮

反応構造:自己権限維持への誘導を含む


 クララが息を呑んだ。


 マーヤが低く呟く。


「今の言葉も……」


 イーリスが頷いた。


「民を思う気持ちはある。でも、その奥に、自分の権限を残したい反応が混ざっている」


 ミコトの顔が強張った。


「違います」


 刃は鳴らない。


 彼女の中では違うのだろう。


 民のため。


 救いのため。


 祈りのため。


 その言葉の中に、自分の白さを守りたい願いが混ざっていても、本人はそれを別物として見ていない。


 いや。


 見ないようにしてきたのかもしれない。


 エルハルトは目を閉じ、深く息を吐いた。


「ミコト様。今は、あなたの言葉が人を動かすこと自体が危険です」


「私は、何も命じません」


「命じなくても、人は動きます」


 その言葉に、ミコトは黙った。


 これまで何度も見てきた構造だった。


 ミコトは命じない。


 ただ悲しむ。


 ただ困る。


 ただ祈る。


 すると周囲が動く。


 誰かが罪を被る。


 誰かが黙る。


 誰かが消える。


 そしてミコトは白い場所に残る。


 エルハルトは神殿兵へ目を向けた。


「聖女ミコト様を、監査保護室へ移送します。拘束ではありません。ただし、単独の祈祷、外部接触、記録外の面会は禁止します」


 神殿兵たちは、すぐには動かなかった。


 彼らもまた、ミコトを信じてきた人間なのだろう。


 聖女様を連れていく。


 その行為に、足がすくんでいる。


 ミコトは、かすかに彼らへ目を向けた。


 それだけだった。


 ただ、弱々しく見る。


 助けを求めるように。


 すると、一人の神殿兵が反射的に前へ出かけた。


 その瞬間、記録水晶が黒く光る。


《庇護誘導反応》


対象:神殿兵


起点:聖女ミコトの視線および沈黙


 神殿兵の足が止まった。


 彼は顔を青くし、ミコトから目を逸らした。


「……申し訳、ありません」


 それが誰への謝罪なのかは分からなかった。


 ミコトへか。


 自分へか。


 それとも、今までその視線で動かされてきた誰かへか。


 ミコトは小さく首を振った。


「私は、何もしていません」


 俺は答えた。


「それが、お前の一番厄介なところだ」


 ミコトが俺を見る。


「何もしていない顔で、人を動かす」


「私は……」


「命じていない。そう言えば逃げられると思っていた」


 俺は机の上の証拠を見た。


「でも、もう記録された」


 ミコトの唇が震えた。


「私は、そんなつもりじゃ……」


「つもりじゃなくても、起きている」


 俺は静かに言った。


「そして、お前はそれを知っていた」


 ミコトは何も言い返さなかった。


 エルハルトは神殿兵に再度命じた。


 今度は、彼らも動いた。


 だが、乱暴にはしない。


 ミコトの両脇に立ち、ゆっくりと立ち上がるよう促す。


 ミコトは膝に力が入らない様子で、少しよろめいた。


 誰かが支えようとする。


 だが、その手は途中で止まった。


 触れていいのか。


 庇護なのか。


 任務なのか。


 彼らにも、もう分からなくなっている。


 ミコトはその空気を感じ取ったのか、初めて顔を歪めた。


「……どうして」


 小さな声だった。


「どうして、誰も……」


 誰も助けてくれないのか。


 最後まで言わなかった。


 言わなくても、分かった。


 これまで彼女の周囲には、すぐに手を差し伸べる者がいた。


 困った顔をすれば、誰かが動いた。


 悲しそうにすれば、誰かが代わりに怒った。


 沈黙すれば、誰かが勝手に罪人を探した。


 だが、今は違う。


 誰も彼女を乱暴には扱わない。


 だが、誰も彼女の罪を肩代わりしない。


 白羽美琴は、初めて一人で自分の罪の前に立たされていた。


 その時、彼女の視線が床へ落ちた。


 白い花飾り。


 ミコトは、震える手を伸ばした。


 けれど、指が触れる直前で止まる。


 エルハルトが、静かに言った。


「その花飾りは、聖女権限の象徴です」


 ミコトの手が固まる。


「監査終了まで、こちらで保全します」


「……それは、私の」


「あなた個人の装飾品ではありません」


 エルハルトの声は苦しかった。


 だが、言い切った。


「聖女ミコトに与えられた象徴です」


 ミコトは白い花飾りを見つめた。


 まるで、それを奪われた瞬間、自分が自分でなくなるかのように。


 やがて、かすれた声で言った。


「それを取られたら……私は……」


 言葉が途切れる。


 俺はその続きを待った。


 ミコトは、顔を上げた。


 その目には、初めて明確な恐怖があった。


「私は、何になるのですか」


 誰も答えなかった。


 聖女でなくなった白羽美琴。


 白い信仰を剥がされた女。


 周囲に庇われることで自分を保ってきた人間。


 その答えを、誰も持っていなかった。


 俺だけが、静かに口を開いた。


「人間だ」


 ミコトの瞳が揺れた。


「聖女でも、被害者でも、救いの象徴でもない」


 俺は続ける。


「罪を犯した、一人の人間だ」


 ミコトの顔が歪んだ。


「そんなの……」


 声が震える。


「そんなの、私は耐えられません」


 俺は黙って彼女を見た。


「私は、聖女として生きてきました」


 ミコトの声は少しずつ崩れていく。


「みんなが私を信じてくれた」


「私を必要としてくれた」


「私が祈れば、ありがとうと言ってくれた」


「私が笑えば、安心してくれた」


 それは、嘘ではない。


 彼女が救った人はいる。


 彼女の祈りに救われた人もいる。


 だからこそ、彼女は自分を白いまま信じられたのだろう。


「それが全部なくなったら……」


 ミコトは震えながら言った。


「私の信仰も、名誉も、聖女としての場所も……全部壊れたら……」


 そこで、彼女は俺を見た。


「私は、どうすればいいのですか」


 その言葉が、胸の奥へ刺さった。


 俺は、かつて同じことを思った。


 仕事が戻らない。


 家族との距離も戻らない。


 友人も、信用も戻らない。


 何もかも壊れた。


 どうすればいいのか分からなかった。


 その俺に、美琴は言った。


 捕まらなかったなら、よかったじゃない。


 俺はゆっくり息を吸った。


 今なら、返せる。


 ずっと喉に刺さっていた言葉を。


 ただの復讐としてではなく。


 この女が、自分が言った言葉の重さを知るために。


「白羽美琴」


 俺は、彼女の異世界の名ではなく、現世の名を呼んだ。


 ミコトの肩が震えた。


「お前の聖女としての地位は戻らない」


 俺は一言ずつ、ゆっくり言った。


「信仰も、名声も、白い顔も戻らない」


 ミコトの瞳が大きく開かれる。


「お前が守ってきたものは、全部壊れた」


 会議室が静まり返った。


 クララが息を呑む音が聞こえた。


 マーヤも、バルトも、エルハルトも、誰も口を挟まない。


 俺は、最後の言葉を落とした。


「でも、命はあるんだろう?」


 ミコトの顔から、完全に血の気が引いた。


 俺は続けた。


「なら、よかったじゃないか」


 その瞬間、ミコトの表情が崩れた。


 怒りでも、悲しみでもない。


 理解だった。


 自分がかつて何を言ったのか。


 その言葉が、どれほど軽く、どれほど残酷で、どれほど相手を踏みにじったのか。


 ようやく、自分の身に返ってきた。


 ミコトは口を開いた。


 だが、声が出ない。


 唇だけが震えている。


 俺は彼女を見下ろしたまま、言った。


「俺は、その言葉を言われた」


 ミコトは動けない。


「仕事も、家族も、友人も、信用も戻らないと言った俺に、お前はそう言った」


 俺の声は、静かだった。


「今、少しは分かったか」


 ミコトの目から、涙が落ちた。


 だが、その涙に誰も動かなかった。


 涙はただ、彼女自身のものとして床へ落ちた。


 誰かを動かす力を失った涙だった。


「……ごめん、なさい」


 かすれた声だった。


 あまりにも遅い謝罪だった。


 あまりにも軽く聞こえる謝罪だった。


 けれど、刃は鳴らなかった。


 少なくとも、その瞬間の謝罪は嘘ではなかった。


 俺は目を閉じた。


 許すかどうかは、別の話だ。


 謝られたからといって、戻るものはない。


 壊れたものは、壊れたままだ。


 だが、ようやく言わせることはできた。


 あの日、軽く踏みにじった相手へ。


 ごめんなさい、と。


 俺は目を開けた。


「謝罪は記録された」


 ミコトが顔を上げる。


「でも、それで終わりじゃない」


 俺はエルハルトへ目を向けた。


「処遇は、神殿とギルド、監査で決めてください」


 エルハルトは深く頷いた。


「はい」


「ただし、ひとつだけ」


「何でしょう」


「この記録を隠さないでください」


 エルハルトの目が揺れる。


 俺は続けた。


「トビーのためにも、リーネたちのためにも、湿地の民のためにも」


 そして、少しだけ息を吸う。


「俺のためにも」


 エルハルトは、まっすぐ俺を見た。


「約束します」


 その声には、神殿の人間としての迷いはなかった。


「この記録は、監査記録として公開手続きに入ります。神殿内部の責任も、調査します」


 バルトが壁際で鼻を鳴らした。


「ようやくだな」


 エルハルトは反論しなかった。


「遅すぎました」


 その一言だけを、苦しそうに言った。


 神殿兵が、ミコトを連れていく。


 今度は、誰も止めなかった。


 ミコトは扉の前で一度だけ振り返った。


 俺を見た。


 その顔には、もう聖女の微笑みはなかった。


 ただの、疲れ切った女の顔だった。


「レン……」


 俺の名を呼びかけて、彼女は言葉を飲み込んだ。


 何を言うつもりだったのかは分からない。


 謝罪か。


 弁明か。


 それとも、助けを求める言葉か。


 どれでもよかった。


 今の俺は、それに応えるつもりはなかった。


 扉が閉まる。


 白羽美琴は、会議室から消えた。


 残されたのは、証拠と記録と、床に落ちた白い花飾りだけだった。


 エルハルトが、その花飾りを慎重に拾い上げる。


 保全袋へ入れ、封をする。


 聖女の象徴は、今や証拠品になった。


 クララが、そっと俺の隣へ来た。


「レンさん」


「何だ」


「大丈夫ですか」


 その問いに、俺はすぐ答えられなかった。


 大丈夫ではない。


 でも、壊れてはいない。


 昔の俺なら、ここで膝をついていたかもしれない。


 あの日の記憶に呑まれて、動けなくなっていたかもしれない。


 だが今は、立っている。


 証明できたからだ。


 誰にも届かなかった真実を。


 白い嘘に塗り潰された罪を。


 ようやく、形にできたからだ。


「分からない」


 俺は正直に答えた。


「でも、少しだけ息はしやすい」


 クララは泣きそうな顔で笑った。


「それなら、よかったです」


 その「よかった」は、美琴の言葉とは違った。


 軽くない。


 踏みにじらない。


 俺がまだ立っていることを、ただ静かに受け止める言葉だった。


 俺は小さく頷いた。


 視界の端に、文字が浮かぶ。


《断罪者》職務記録を保存しました。


《証明者》としての基礎職務は継続されます。


称号:《断罪者》


罪を暴く者ではなく、押しつけられた罪を本来の場所へ返す者。


 俺はその文字を見つめた。


 断罪者。


 重い名だ。


 望んでいたわけではない。


 でも、必要だった。


 白い嘘で逃げる罪を、証明だけでは止められない時。


 誰かへ押しつけられた罪を、元の場所へ返すために。


 この力はある。


 バルトが近づいてきた。


「レン」


「何ですか」


「よく立ってたな」


 短い言葉だった。


 それだけだった。


 だが、不思議と胸に残った。


 マーヤも、少し遅れて言う。


「ペンダント、しばらく保全するね。でも、必要な時は必ず返す」


「お願いします」


 イーリスが深く頭を下げた。


「鑑定士として、今日の記録に関われたことを重く受け止めます」


 俺は頷いた。


 エルハルトは記録水晶を抱え、会議室の出口へ向かう。


 その背中は、昨日よりも重そうだった。


 神殿はこれから大きく揺れる。


 聖女ミコトの罪。


 聖女候補管理室の記録隠し。


 危険性を知りながら認定した過去。


 湿地浄化の欺瞞。


 全部が明るみに出る。


 それで救われる人もいるだろう。


 逆に傷つく人もいるだろう。


 真実は、いつも優しいわけではない。


 けれど、嘘で誰かを踏みにじるよりはましだ。


 俺は窓の外を見た。


 空は曇っている。


 だが、遠くの雲の切れ間から、細い光が差していた。


 終わったわけじゃない。


 ミコトを裁いても、俺の現世の人生は戻らない。


 壊れたものは戻らない。


 でも、あの日から止まっていた何かが、ほんの少しだけ動いた気がした。


 俺は静かに息を吐いた。


 嘘は、全部を消せない。


 謝罪も、裁きも、過去をなかったことにはできない。


 それでも。


 罪を本来の場所へ返した時、人はようやく前を向く余地を得る。


 俺が前を向けるかどうかは、まだ分からない。


 けれど少なくとも、もう一度だけ歩くことはできそうだった。


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