第1話 この人、痴漢です
「この人、痴漢です!」
その声が響いた瞬間、車内の空気が変わった。
朝の満員電車。人の肩と鞄が押し合い、誰もが息を殺すように目的の駅を待っていた。俺――久世蓮も、その中の一人だった。
いつもと同じ朝だった。眠気の残る頭で、今日の仕事の段取りを考えていた。午前中に資料を直して、午後には取引先へ連絡を入れる。後輩がまたミスをしていたから、そのフォローも必要だ。
そんなことを考えながら、俺は吊り革を握っていた。
駅に着き、ドアが開いた。人の流れに押されるようにして降りようとした、その時だった。
突然、手首を掴まれた。
「この人、痴漢です!」
振り返ると、若い女が俺を見上げていた。
白羽美琴。
その名前を知るのは、もっと後のことだ。
その時の俺に分かったのは、彼女が泣きそうな顔で俺の手首を掴んでいること。そして、周囲の視線が一斉に俺へ突き刺さったことだけだった。
「ち、違います。俺は何も――」
「触りましたよね?」
美琴は震える声で言った。
周囲がざわつく。
「うわ、最悪……」
「駅員呼べよ」
「逃がすな」
誰かがスマホを向けている。画面越しに俺の顔が映っているのが見えた。
心臓が嫌な音を立てた。
「本当に違います。俺は吊り革を握っていて――」
「怖くて、すぐには声が出せませんでした……」
美琴がそう言った瞬間、俺の言葉は空気の中で消えた。
怯えた女の声。涙を堪えたような表情。周囲の同情と怒り。その全部が、俺を犯人にしていく。
駅員が来た。俺は駅員室へ連れて行かれた。
何度も否定した。
触っていない。やっていない。車内では吊り革を握っていた。彼女の近くにはいたかもしれないが、何もしていない。
けれど、誰もすぐには信じてくれなかった。
美琴は小さく震えながら、同じことを繰り返した。
「怖かったんです……声が、出なくて……」
その声を聞くたび、俺の否定は弱くなっていった。
やっていないのに。
何もしていないのに。
俺を見る人間の目は、もう答えを決めていた。
会社には連絡が入った。その日のうちに、自宅待機を命じられた。上司は電話口で、困ったような声を出した。
「久世、今は会社としても慎重に動くしかない。分かってくれ」
分かるわけがなかった。
俺は何もしていない。だが、それを叫んでも状況は変わらなかった。
家族からの連絡は減った。友人からの返事は遅くなった。同僚からのメッセージは、ある日を境に途切れた。
ネットに俺の顔が出たわけではない。大きなニュースになったわけでもない。それでも、狭い世界の中で噂は回る。
職場。知人。家族。近所。
人は確かな証拠より、分かりやすい物語を信じる。
被害を訴えた若い女。
疑われた中年に近い男。
それだけで、俺は悪者になった。
弁護士を頼んだ。防犯カメラの映像。乗車位置。電車の揺れ。俺の手の位置。美琴の証言の変化。
ひとつずつ拾った。
俺は何度も自分の行動を思い出した。あの日、どこに立っていたか。どちらの手で吊り革を掴んでいたか。電車が揺れた瞬間、誰とぶつかったか。
自分がやっていないことを証明するために、自分の記憶を何度も掘り返した。
苦しかった。
やっていない。
ただそれだけの言葉が、どうしてこんなにも届かないのか分からなかった。
数か月後、裁判で俺は無罪になった。
証拠が足りなかったからではない。証言には矛盾があり、映像にも俺が彼女へ触れた事実は映っていなかった。
法廷では、俺の無罪が認められた。
けれど、人生は戻らなかった。
会社には戻れなかった。表向きは自主退職。実際には、俺の席はもうなかった。
家族との会話はぎこちなくなった。友人たちは「落ち着いたら会おう」と言ったきり、誰も会いに来なかった。
無罪。
その二文字は、俺を元の場所へ戻してはくれなかった。
判決の日の夕方、俺は駅前にいた。何をするつもりだったのか、自分でも分からない。ただ、家に帰る気になれなかった。
人の流れをぼんやり見ていた時、彼女を見つけた。
白羽美琴。
あの日、俺の手首を掴んだ女。
彼女は、駅前の人混みの中にいた。綺麗な服を着て、何事もなかったように歩いていた。
胸の奥が熱くなる。
気づけば、俺は彼女の前に立っていた。
「白羽美琴」
名前を呼ぶと、彼女は足を止めた。一瞬だけ、驚いた顔をした。けれど、すぐに微笑んだ。
「ああ、あなた」
その声は、あの日の怯えた声とはまるで違っていた。
「無罪になったんでしょ?」
俺は何も言えなかった。
美琴は首を傾げる。
「なら、よかったじゃない」
その瞬間、頭の中で何かが切れた。
「よかった?」
声が震えた。
「俺の仕事は戻らない。家族も、友人も、信用も戻らない。何もかも壊れたんだぞ」
「でも、捕まらなかったんでしょう?」
美琴は笑った。
あまりにも軽い笑みだった。
「なら、よかったじゃない」
俺は拳を握った。
殴りたいと思った。
でも、できなかった。
ここで手を出せば、今度こそ本当に俺は加害者になる。あの女の思い通りになる。
「お前……どうして俺を」
美琴は人混みを避けるように、駅裏の細い通路へ歩き出した。
「こっちに来て」
行くべきではない。
そう分かっていた。
それでも、俺はついて行った。聞かなければ、何も終われない気がした。
駅裏の通路は薄暗かった。人通りは少なく、壁には古いポスターが剥がれかけている。
美琴はそこで足を止めた。
「あなたの人生、思ったより価値があったわ」
「何を言ってる」
「仕事。信用。家族。友人。壊れるものが多い人間ほど、いい力になるの」
意味が分からなかった。
けれど、彼女の足元に光が広がった瞬間、俺の思考は止まった。
白い線が地面に走る。円を描き、複雑な文字のような模様を作っていく。
魔法陣。
そうとしか言いようがなかった。
「あなた、本当に真面目だったのね。だから壊しやすかった」
「美琴!」
俺は手を伸ばした。
だが、美琴の身体は光に包まれていく。
「じゃあね。あなたのおかげで、私は聖女になれる」
「待て!」
叫んだ声は、白い光に飲まれた。
次の瞬間、美琴の姿は消えていた。
薄暗い通路には、俺だけが残された。
足元に、何かが落ちている。
銀色のペンダントだった。
美琴が身につけていたものだろうか。
俺は震える手でそれを拾った。
その瞬間、耳元で声が響いた。
『冤罪確認』
人の声ではなかった。冷たく、機械のようで、それでいてどこか神聖な響き。
『対象者、久世蓮』
「……何だ?」
『魂の損傷を確認』
身体が動かない。ペンダントから白い光が溢れ、俺の腕を、胸を、全身を包んでいく。
『異界聖女候補による不正な権能使用を確認』
「異界……聖女……?」
『被害者に追跡権限を付与します』
足元に、さっき美琴を飲み込んだものと同じ魔法陣が浮かび上がった。
逃げようとしても、身体が動かない。
『職業《証明者》を付与します』
全身に痛みが走った。
骨が軋む。血が熱くなる。身体の奥から作り替えられていくような感覚に、喉が裂けそうになった。
「ぐ、ああっ……!」
怒りと痛みが混ざる。
無罪になった。
けれど、人生は戻らなかった。
そして今、俺は別の場所へ引きずり込まれようとしている。
白羽美琴。
あの女だけは、許さない。
俺は軋む身体の痛みと、胸の奥で燃え続ける怒りを抱えたまま、意識を手放した。




